05. Nihilism のススメ③:意味消失

 ニヒリズムは強い。思想としての根本は「万物無意味也」と書き切ることができるが、扱い様が陰にも陽にもする。


 「何をするにも無意味」と取るなら、それは完全な絶望であり、無気力が招かれる。

 「意味は自ら決められる」と取るなら、それは無限の選択肢であり、道が拓かれる。


 信仰を損ない無意味を悟った時、或いは信条に破れ意味を失った時、消極的のニヒリズムを取るか、積極的のニヒリズムを取るか。後者を俗に「超人」と呼び賛美するが、ニヒリズムの名において選択が否定されることはなく、共通して心すべきはただ一点である。


 絶対は絶対にあり得ない、ただし、この一文を除く。

 最も狭量で最も寛容な条文を是とする。




 布団がボサッと音を立てて、木材と太陽の匂いがした。天井は無特徴で暗い。匂いと気分だけが支配的だった。満腹感がぼうっとした熱をはらませ、所謂催眠術に似て、アクラの胸中では懐古の念が生じた。森林の記憶だった。


『リク』


 沐浴、水面の照り輝き、春風のさやけさ。


 一度として瞼を開かなかった意地っ張り、その一惑もない表情を今も覚えている。バァバ連中が言うことには、本音狙いの風習とのこと、けれど黄金の瞳を一度も見なかった。

 アクラの方はマジマジと見た。少女のように起伏ない、処女雪色の背が、日に日に逞しくなっていくのを忘れない。


『リク』

『どうした』

『……』

『どうした、アキ』

『呼んだだけ』


 寝返りを打つと、木材の匂いより一層、太陽の匂いが強くなる。昨日、ローナとルークが一緒になって干していたことを思い出す。

 グゥと身を起こした。下ろした髪が手先に絡む。下ろした髪、かつては一人にだけ見せたけれど、もうこんな幼稚はやめようと、ごく最近から拘らなくなった。


 横見すると霧が低い。窓は下半分が覆われ、残りは夜の星空だった。


 ベッドから下ろした足裏は重く地に着いた。ほのかな力で歩み出す。ツインベッドなので、ローナは吐息がかかるくらい近くで、ろうたげにスヨスヨと眠っていた。戸を引きながら、音に気を遣うのがどこか腹立たしかった。


 廊下を静かに早足で抜けて玄関を出る。サンダルがすぐに夜露で濡れ、足先から冷え、覚醒は済んだ。星空は透き通っている。


 そして鼻歌が聞こえた。聞き流し通り過ぎるには秀麗なので、後方を見上げた。


「君も星を見るのかい?」


 屋根の上で夜天を背にして、萌葱色の瞳が光っていた。


 ふぁた、と舞う音がして、微笑む彼はもう側に居る。腰を低くしてアクラに合わせていた。


「宴会の方は出なくてよかったんですか?」

「明日は朝が早いから。断ってきたんだよ」

「なのに夜更かしですか」

「君も朝練があるだろう」

「……共犯ですね」

「お互い様だね」


 可笑しくなって笑う。思えば彼の口調といったら、ミュージカルじみている。


 軽くて温度がない。見上げる空は濃藍色で、ピカリピカリと幾つも光っているのに、二人にはその壮大さが一切関与しなかった。二人の世界は観念的で現実に見向きもしなかった。


「先生、ナスビみたいって言われたことあります?」

「トウカだろう。彼は僕を毛嫌いしているようだから……ベレー帽でも被ってみようか」

「ヘタですか?」

「そうそう」


 想像して、いよいよナスビなので笑いがこみ上げてきた、けれど微笑に終わった。


 会話の片手間にロードは、草原の上に幻想で、二人座れる程度のソファを編み上げていた。手仕草で「どうぞ」と促されるに従いアクラはゆっくり座り込んだ。柔らかく、部屋のソファと変わらない。右にロードが座ると軽く沈み込むので座り直した。


「先生、私の血を飲むのは嫌でしたか」


 見上げれば燦然としていて、互いのことを見もせずに星空だけを眺めながら、しかし意識的には二人だけの世界に居た。万物が咎められず許される安楽は二人ぼっちを代償に叶っている。


「どうしたんだい」

「どうして私の血を飲むの、あんなに嫌がったんですか?」

「今更だね。拗ねているのかい?」

「私の女の子ハートが大ピンチです。今すぐ『君の血じゃなくても飲みたくない』と言って下さい。でないと死んじゃいます」

「いや、君の血だから嫌だったんだけれど」

「さぁさぁ泣きますよー?」


 両手をソファにつき、浮いた足をパタパタ交互に揺らし、意地悪っ子のように笑いながら返してみせた。


 今度はそよ風が吹く。流れていく麗しの黒髪が星を映し、水色の瞳はその色に輝いた。その時は二人、星を見ていた。サンダルが飛んでいって、けれどアクラは取りに行かないズボラだった。


「君に死んで欲しくなかった、と言えば機嫌が直るかい?」

「……そういうこと早く言って下さい。それと、『こう言っとけばいいんだろ』感出すの止めて下さい」

「面倒な子だね」

「普通の女の子は、ローナみたいに可愛くて素直じゃないんです」


 サンダルを取りに行く気になった。身を弾ませて立ち上がり、高めのケンケン数歩、足で取った。そんな調子であったのは、チェックボックスが一つ埋まったような満足感からだった。


「今日の今日まで、ずっと悩んでいたのかい? 想像以上の完璧主義だね」

「先生ってコンプレックスに刺さること言いますよね。どうせ私は拗らせてますよ」

「自嘲はやめなさい」

「自分じゃなくて、よく言われることです」

「君が悩み尽くしたことを『拗らせ』なんて言うのかい? そんなのは、価値基準の乏しい浅薄人だと思うがいいよ」


 彼の言葉はそれを無価値と指摘するわけではなく、ただ無価値のように思わせた。優しい口調は相も変わらない。いつも通り、アクラの痛痒はアクラが編んだ。また彼女はロードの言葉を一瞬、励ましに思いかけてやめた。彼女の自己否定、或いは自己破壊の論理体系は、長年の蓄積において大蓄積をなしていた。


「進歩がないんですから仕方ないです」

「進歩しなければ無価値だとは、疲れる話だね。考え方が寂しい、いや、さもしいよ」

「さもしい?」


 またそういった主張においてどうしても、ロードは厳格にならなかった。何せ彼自身にとって、それは善性ですらなく、そもそも善性こそ至極の悪性だった。ただし、アクラが正しさによる喚問を信仰するだけ、ロードの不信心と正しさへの喚問は表だった。


「どうせその『進歩』とやらは、誰ぞが決めた向きへの進行だろう?」

「……先生も拗らせてますね」

「所謂拗らせていない人間も、実のところ一般的価値観とやらを拗らせているのさ」

「やっぱり拗らせてる。社会不適合者の鑑ですね」

「正しさに問い殺されるくらいなら、問い殺した方がいいだろう」


 満天の星空の下と思えば、余りにも内省的なやり取りだった。問答になってしまっている。彼らは決して世界に浸らず、浸るという行為が恥知らずに思えていた。けれども浸っていた。


「先生ってニヒリストですか」

「消極的な方だけどね」

「で、教える側としては……えっと、積極的の方に行くんですか」

「他人にはそうすることにしているよ」


 観念的な意味を以て、ロードは天を見上げた。空は果てしなく遠いのに、銀河は視界に収まらない。


「ルークと違って、なりすまし超人だ」

「ルークのこと結構褒めますよね」

「僕がしがない十五の狩人だったとき、十二の彼は何をしていたと思う?」

「あー、出られる全大会三連覇してました」

「ずっと憧れだよ。弟子にしてもね」


 結局彼には一度の敗北もなかった。スコア上限のある競技なら失点しなかった。最強と英雄と天才と万能と、頂点に属する称号は彼が独占した。誰もが求めて、アクラが諦めながら足掻いてつい最近駄目になった話である。

 ロードが助けに来なかったなら、サンダータイガーの牙で柔らかく噛み裂かれていた。その仮定がある時点で、彼女は黄金銀河に追いつかない。


「彼の話は嫌かい?」

「何が嫌とか、分かんなく……いえ、本当は分かってるんです。ルークのこと全っ然割り切れてない時に夢まで駄目になりそうで、頭パッパラパーなんですよ」


 フッと鼻で笑う音。アクラは隣を睨めつけて、彼が「失敬」と呟いてもやめない。笑ったままだからである。「イヤしかしパッパラパーか」と、鈍くさい響きにケラケラ笑う。


「……つまるところ、大切なものを丸ごとなくしたわけだ」

「ローナとの喧嘩もあれでいいわけなくて」

「話は聞いたけど、君、すごいことを言ったらしいね」

「はい。さんざっぱら言いました」


 また笑うので、また睨めつける。けれどすぐ冷静になった。

 ローナのことで一塵の憤怒もあげない彼の様子が、不可思議でならない。


「いつかどうにかなると思っているだろう」

「え」

「それも、最後には今よりいい状況になるなんてね……世界はそれほど素敵な構造をしていないと、僕は思う」


 彼の言葉はいつも、冬の硝子窓のようだった。


「悲劇は試練じゃないんだよ。君のために世界が用意してくれたなんて、後で恥ずかしくなる誇大妄想は止めておきなさい」


 ロードが立ち上がり、ソファは反動分浮き上がる。




 一人、空に吸い付けられて、星を見上げていた。寒空に今度こそ醒まされた。


 ロード・マスレイが何か解決策を呉れるのだと、心奥で期待していたことにやっと気が付いた。世間の事物に受動的な餓鬼の思想だった。世界が終わった。完璧に積み重ねてきた、ではなくて、そういうことにしてつじつま合わせしてきた世界が終わった。


 「お前は絶対に大成しない」と、アクラの胸中に絶対の蓋がかかった。


『悲劇は試練じゃないんだよ』


 いつかルーク・ヒラリオになれると思っていた自分を見つけた。けれど星は遠くにあって、遠すぎて遠いと思いもしなかった。打ちのめされても試練だと思い込んだ。


『君のために世界が用意してくれたなんて、後で恥ずかしくなる誇大妄想は止めておきなさい』


 完璧で最高の人生を描けると思った。絵物語のような勇者に、黄金の彼のような星になれると思い込んだ。意思も努力も及ばないことを知っていて、何故かいつかひょっこりとそうなるのだ、なんて信念を持ち合わせていた。


 特別でない自分を、運命的でない自分を、主人公でない自分を、相対的な自分を想定しなかった。


『ミレント』


 彼がそう発して、ミレント・アーラを伴って、戦場に駆けていったことを永遠に忘れない。アクラ・トルワナを頼らなかったことは決して忘れない。


 相棒という夢のような響きがどこにもないことをもう二度と忘れない。人は鍵と鍵穴のように噛み合ったりしない、どこか擦り合わせて不自然を積み重ねてそれらしくなるだけ。


『意外とやな子なのね……結局私だけが知ってる。ルークのこと全部知ってる!

 あんたなんかがルークのこと好きだなんて百年早いのよ! 出直してよ!』


 そう思いたかった。今は思えなくなった。ルークにとって必要十分なアクラという偶像はなく、星は見上げるだけだった。


『accurate……もっと精密に、オリジナルに……だからアクラと……けれど……』


 誰かの期待に沿えない。

 誰かの必要不可欠になれない。

 誰かの永遠や絶対や偶像になれない。


『多分、先生にとってジーナは、誰かを救えたっていうなんです』


 自分は特別な何かに過ぎないという、切なげな言葉を妬ましく思った。


 嫌になって呻いた。

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