第10話 謀計に嵌る

 地下水路の前で、一人の女性が立っていた。

 瞳は西の地を指し、残照に映える雁の群れを見送っている。


「……何が、『やめてほしいとは思うよ』よ」


 思い返すのは、この町に来てから二度顔を合わせた少年の顔。


「私たちのことを、何にも知らないくせに」


 女性は、羽織ったコートの上から、首にかけたネックレスを握った。大丈夫だ。決意は何も揺らいでいない。


 立ち止まれるわけ、ないじゃない。


 3年。3年だ。

 3年間、彼女は殺された両親と妹の敵を討つためだけに生きてきた。そしてその日々は、きっと今日終わる。


 呼吸を一つ。

 少女は排水路から、地下水路の奥へと進んでいった。振り返ることもなく。


 奇麗な地下水路だ。

 内壁は埃一つない状態だし、足元を流れる水も清らかだ。


 いや、違う。

 魔力感知に自信がある彼女だから気づいた。

 この地下水路を流れる水に含まれる、わずかな魔物の魔力反応に。


 いる。

 この奥に、魔物が群れなして待っている。

 そしてそこには、きっと統魔師モンスターマスターがいる。


 心臓が早鐘を打つ。

 心音がやけに耳にうるさい。

 呼吸が浅く、短い。


 死ぬのは統魔師モンスターマスターか、それとも己か。

 わからない。いや、予想はつく。

 手も足も出ずに殺されるイメージが、彼女の脳裏にはありありと浮かんでいた。


 それでも、立ち止まれるわけ――


「……?」


 足元の水が揺れた。気がした。

 もとより流れている水だ。止まってなどいない。


 その時、どうしてだか頭に浮かぶ言葉があった。


『だまされるな! そのおっさんは汚いことだって平然とやる奴だ!』


 ミシ……ミシ……。


 ふと頭を上げると、頭上から降ってきた土くれが目に入った。


「痛っ、埃が目に……」


 言いながら、思った。


(埃? 汚れ一つない、この奇麗な内壁から、埃?)


 言い知れない違和感が膨れ上がっていく。

 が、その正体に近づけない。

 いや、近づく必要すらなくなった。


 亀裂。


 少女が聞いたのは、入口から少女の方に向かって迫りくる崩落の足音。

 大きな亀裂が走る音と、内壁が崩れる破砕音が少女に向かって襲い掛かったのだ。


「なあっ⁉ 崩れる⁉」


 走った。無我夢中で。

 なんで、と思った。

 どうしてこんなことに、と思った。


 バシャリバシャリと音を立てて駆けていく。

 一歩ごとに足に水がまとわりつくようで、もどかしい。


『ただの親切心だろ?』


 あの時、あのギルドの職員はどんな表情をしていた? 本当に優しさからの言葉だったのか?


『おっさん、何を企んでやがる』


 優しさを見せてくれていたのは、彼の方だったのではないのか?

 そんな彼に、一体どんな視線を返した?


「きゃあっ!」


 揺れる地面に足を掬われる。

 水面に固いものを叩きつけるような音を立てながら、少女が水路にダイブする。


 ――死。


「……はぁ、はぁ」


 生きてる?

 ギリギリのところで、崩壊が止まった?


「たす、助かっ」


 胸の底から、熱いものがこみあげてきた。

 嫌だ、やっぱりまだ、死にたくない。

 死ぬのは怖い。

 独りぼっちは嫌だ……!


「誰か、誰か助けて――んぐっ⁉」


 大声をあげようとして、背後から口を押さえられた。

 まさか、統魔師モンスターマスター

 嫌だ、死にたくな――


「静かに。まだそこにいる」


 思わず息をのんだ。

 どうして彼がここに?


 と、その時だった。


「……、……、……!」

「……、……」


 わずかに、人の足音がする。

 つい先ほどまで自分が立てていたように、水を張った地面を駆けるときに発生するような足音だ。


 彼の「そこにいる」の言葉の意味が分かった。

 だから今は息を殺した。


 それが功を奏したのか、やがて気配は遠のいていき、私と彼だけがのこされた。


「……っぷはぁ!」


 そして、ずいぶん長い時間に思えた潜伏期間が、息を止めていられるだけの短いものだったと気づく。


「どうしてあなたがここにいるの?」


 それから、暗闇にまぎれてそこにいるはずの男を睨みつけた。

 顔を合わせるのは、これが3度目になる。


「スライム召喚士サモナー!」

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