第98話 ありがとう
「さっき、食事の時は、ああ言ってましたけど」
ソラは黒くなった髪を弄りながら、焚火の残骸を見つめている。
「やっぱり、不安なんです」
「………」
おれは答えられなかった。ここにいるってことだけで、何となく理解してしまったから。そうじゃなきゃいいな、と心の中では思っていたけど。やっぱり、そうだよな。だからこそ、曖昧な返事ができなかった。
ソラは言葉を紡ぐ。
「仕事を上手くやっていけるかもそうですけど、わたし自身、追われているってことが。なんで追われているのか考えると、すごく、怖くなっちゃって。わたし、何者なのかな?何か悪いことでもしちゃったのかな?って、考えると止まらなくなるんです」
それは、身勝手な想像だった。彼女が、皆と仲良くなれて、馴染んできて、仕事が見つかって。今日の夕食の時の、独り立ちしたいという真剣な彼女を見て、ああ、良かった、と思ってしまった。良い部分しか見ようとしなかった。根本の問題に目を向けていない。それは、はりぼて。仮初だ。
ソラは自分の腕を抱えて、少し震えている。遺跡の時と同じだ。何も変わっていない。そりゃそうだ。人間、一週間そこらで、簡単に変われるわけがない。ソラは我慢していたんだ。ずっと、迷惑を掛けないように。隠していたんだ。本当の気持ちを。
だから言っただろ。
ソラは本当の意味で、全然、助かっちゃいない。
馬鹿だ。おれは。
なんでちゃんと見てあげなかった?おれだけは、彼女の恐怖を、目の当たりにしていたはずなのに。
「それで、もしかすると、皆さんにも迷惑かけちゃうんじゃないかなって…。気を、遣わせてるんじゃないか、って思うと、急に、皆が遠い存在に感じて。だからわたし、本当は」
「大丈夫だよ」
おれはソラの言葉を遮る。根拠なんて無かった。でも、そう言わずにはいられない。
「ソラは悪くない。何もしていない。それに、おれたちと何にも変わらない。普通の人間だ。そうやって、迷惑かけちゃ駄目だとか、怖いとか、感じる心がある。だから何者なんかじゃない。ソラは、ソラだよ」
それは言葉通り、ソラへ向けて。でも、もう一つは、おれ自身への向けての言葉だった。そうなんだと言い聞かせるための言葉、だったのかもしれない。
ソラは目を見開いて少し驚いた表情をしたあと、悲しそうに微笑んだ。
「ユウトには、助けられてばかりですね…。わたしはもっと、変わらなければならないのに」
「…あ、いや、おれの方こそ、なんか偉そうなこと言って、ごめん」
さっき自分で言った言葉が急に恥ずかしくなって、おれは俯いた。すると、おれ自身も後ろめたい気持ちが募って、つい、口から漏れてしまう。
「それに、ずっとさ、考えてたんだ。ソラを助けるのが、おれじゃなかったら、って」
これは、遺跡から戻って、彼女が寝たきりだった時から思っていたことだった。静かに眠る彼女を見て、ふと考えてしまったんだ。言うつもりなんて無かったのに、口が勝手に動いてしまう。
「もちろん、ソラを助けることができて、良かったと思ってる。でも、おれじゃなかったら、もっとお金や、権力や、人脈がある人だったら、ソラを傷つけずに、こんなに不安にさせなくて済んだのかなって」
そしてどうしても、最善を想像してしまう。おれじゃない、凄い誰かが、ソラを助ける想像。助けたのが、本当におれで良かったのかって。分からなくなる。
「おれ、何も無いからさ。ほら、記憶も無いし。ソラを助けたのだって…」
「ユウト」
ある人からの指示があったからで、おれの意思じゃなかったんだ。そう言おうとした。でも、ソラの透き通った声音が、おれの言葉を遮った。
「それは違います」
はっきりと、さっきとはまるで違う雰囲気で、彼女はそれを口にした。おれは思わず口ごもって、何も言えない。
「…わたし、本当に感謝してるんです」
次の瞬間には、ソラの表情がふっと柔らかくなる。おれはそれを見てるしか出来なかった。
「…怖かった。ただただ逃げて、右も左も分からず、彷徨っていたことが。もう心が折れちゃいそうというか、もう折れちゃってたのかもしれないけれど。でも、そんな時、ユウトが来てくれた。わたしにとっては、希望の光そのものだったんです」
ソラは、すっと顔を上げて、闇に光る月を見つめた。その周りには、星々が爛々と光っているのが見える。おれはその姿から目が離せない。
「あの人たちに襲われた時も、ユウトが助けてくれた。そうじゃなきゃ、わたしはすぐに捕まって、怯えるだけの弱い自分に戻っていたと思います。あの人たちのことを思い出すと、まだ、足が竦むけれど。今、ユウトにここまでお話しできたのも、きっと、あなたがそばにいてくれたおかげです」
また彼女が優しい瞳でおれを見返した。でも、おれはその瞳に応えることができなくて、そっと逸らしてしまった。
「でも、おれと君が会えたのは、ホントに偶然で…」
結局、おれたちが遺跡に迷い込んだのは、ショウの指示があったからだ。遺跡の中での戦闘で、おれだけ地下に落ちなかったら、ソラとも会えていなかった。おれはそんな大層な理由で、ソラを助けたわけでも無い。
「それでも、です」
彼女はとても真剣な顔で、じっとおれを見据えた。
「それでも?」
「はい。過程はどうあれ、ユウトはわたしを救ってくれました。きっかけなんて、どうでもいいんです。ただそれだけで、本当に嬉しかったんです。言葉では、言い表せないぐらい。他の誰でもない、あなただったから」
ソラはそっと自分の手を胸に当てる仕種をした。その姿がとても綺麗で、おれはまた言葉に詰まる。
「ずっと、お礼を言いたかった。本当はすぐに言うべきだったんですけど。目を覚ましてから、時間が経ってしまって、ごめんなさい。だから今、この場で、言わせてほしい」
ソラはすっと立ち上がって、俺の前に寄ってきた。ふわりと、彼女の温もりを帯びた風が頬を撫でる。
「ユウト。本当に、ありがとう」
ただ、一言だった。そう、ただの何気ない、感謝の言葉だったのに。
「…あれ?」
目頭が熱かった。抑えきれない何かが溢れてきて、止まらない。
それは、いつも襲ってくる衝動と感覚が似ていたけれど。溢れる感情が全く別物で。
頬に、熱いものが流れるのを感じた。
「なんで…」
そっと自分の頬に手をつけると、熱いものが手に付着して、冷えた指先を温める。
「なんで、おれ、泣いてんだ…?」
分からなかった。本当に意味が分からなかった。おれはただ、ショウの指示で動いていただけで、何も自分の意思で動いていたわけじゃない。ソラと会えたのも、偶然で、その後もそうするしかなかったから、出来ることをしただけなのに。
嬉しくて、たまらない。
ずっとその言葉を、欲しがっていたみたいに、おれではない何かの感情が抑えられない。
「…ユウト!?どうしたのですか!?」
ソラが急に泣くおれを見て、さっと腰を落とした。おれと彼女の視線が合わさった。でも泣いている姿を見せたくなくて、すぐに腕で自分の涙を拭った。
「あ、いや!大丈夫、なんだけど、なんだよ、これ…」
拭っても拭っても、流れる涙は止まらない。女の子の前で泣いてしまった気恥ずかしさと、早く泣き止まなきゃという焦りと、心の奥の嬉しいという感情がぶつかり合って、もう、何が何だか分からない。
その時だった。
蹲っていたおれの背中に、温かいものが触れる。腕も、頭にも。
ふわりとソラの清香な匂いが鼻孔を擽って、やっと彼女が抱きしめてくれていることに気が付いた。
回された腕は優しく、柔らかな温もりが全身に広がっていく。
「…大丈夫、大丈夫。わたしがそばにいますから…」
ソラは、まるで子どもを慰めるように、ゆっくりとおれの背中を摩りながら、耳元で囁く。
そんなこと、されたらさ。
無理だって。
「…うっ、くっ、」
気恥ずかしさと焦りは一瞬にして掻き消え、嬉しさがピークへ達する。
そしておれは、本当に子どもみたいに、ソラの腕の中でしばらく、泣き続けた。
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