豊島攻めの狼煙

1484年10月


刈入れが終わる頃、古河の足利成氏、関東管領上杉顕定が陣触れを発し、古河御所、平井城へ続々と兵が集まり出したとの報告がもたらされる。


こちらも刈入れが終わると、年貢として収められた米等が主要な城へと運び込まれる。

事前に江戸や品川の商人に命じ、通常よりも高い価格で農民達から米を買い集めており、村々には余剰な食料が無い状態にした。


当然、貯えも売るように言われた各村々の者達は難色を示したが、高値で買い、戦後に安く売るので、儲かると説明すると、貯えに加えて、来年の収穫までの米等まで売ってくれた。

結果的に江戸城の蔵に入りきらず、伊豆大島に水軍基地として建設中の大島城に船で輸送する事になったのだが、8月から大島城の築城を一時停止し、兵糧蔵を急ぎ作らせていたのでなんとか保管する事は出来た。

最も、大島城が水軍基地と言うより蔵だらけの城になってしまったが…。


そして、古河御所の足利成氏、平井城の上杉顕定が動くよりも早く、相模で扇谷上杉定正が動いた。

糟屋館で兵を挙げた上杉定正が、3000の兵で平塚城(神奈川県平塚市中里付近)へ向けて進軍を開始し、それに呼応するように相模の国人衆が兵を挙げた。


三浦時高、高虎親子は、扇谷上杉家から調略の手が伸びている国人衆が誰かを事前に知らされていた為、即座に制圧出来ると、相模に陣触れを発し、時高、高虎親子は3000の兵を率い三崎城を出陣する。


途中、三浦親子に従う国人衆が兵を率い軍に加わった事で、相模川に至った時には兵が7000に膨れ上がっており、相模川を渡河し、扇谷上杉定正の軍に攻めかかろうとしていた。


「申し上げます!! 平塚城の杉本義秀殿、小磯城の岡崎実泰殿、小田原城の佐原正時殿が扇谷上杉定正に合流すべく兵を挙げましてございます!!! 大将は三浦高救との事!! 王城山城(神奈川県中郡大磯町大磯)が攻められ城主、小松正信殿討ち死に致しました!」


渡河をしようとしていたところに飛び込んで来た急使の報に時高、高虎親子のみならず、重臣達も驚愕の表情を浮かべる。


豊嶋家から三浦家の家臣に、高救の家臣が接触していたことは知らされており、夏に三崎城で開いた評定の際も裏切りの兆候は見られなかったどころか、高救より送られて来たと言い書状を差し出していた。

にも関わらず、高救を大将とし反旗を翻したのだ。


「う、裏切りだと? 馬鹿な事を申すな!! な、何故じゃ!」


「父上、恐らく評定の際に高救よりの書状を差し出したのも、我らに裏切りを悟られぬ為だったのでは?」


「分かっておる。 其方の言う通りだろう。 だが高救如きにそのような知恵など無い! いや、今そのような事を論じておる場合ではない。 渡河は諦めて相模川で迎え討つ支度をせよ!」


時高は、城を任せていた重臣の裏切りで動揺する家臣達に指示を出し、相模川で迎え撃つ構えを見せる。


三浦時高、高虎親子が重臣の裏切りを知らされた頃、矢野兵庫は相模川の上流で川を挟み、上杉朝昌率いる2500の兵と対峙していた。


矢野兵庫が率いる兵は4000近くおり、上杉朝昌は手が出せないどころか、攻め込まれたら凌ぎ切る事すら危ういと感じていた。


事前に知らされてい話では、高座郡に所領を持つ多くの国人衆が、扇谷上杉家に呼応すると聞かされていたが、呼応した者はごく僅かであり、しかも兵を挙げた直後、攻め滅ぼされている。

長尾景春の乱のおり、矢野兵庫と山口高忠に味わわされた雪辱を晴らすつもりで兵を進めたが、目の前に陣を張る4000の兵を前に、上杉定正の元へ援軍を要請する事しか出来なかった。


高座郡の国人衆の多くが扇谷上杉家に呼応しなかった理由…。

それは、扇谷上杉家が、誰彼構わず調略を行った事が裏目に出た結果であった。


調略をする以上、味方をした者には所領安堵と共に戦後の加増や褒美を示す必要がある。

だが、豊嶋家が行った加増転封された者、加増をされた者達からすれば、扇谷上杉家が勝てば、上杉定正の元に身を寄せ、旧領復帰を目論んでいる者達に今ある所領を奪われる恐れがあるのだ。


そんな国人衆の心を推し量らずに、調略を行った為、豊嶋家により加増を受けた国人衆の一部が、矢野兵庫、山口高忠と図り、調略に応じた国人衆が裏切れないように手を打った。


江戸城での評定後、高座郡の国人衆を小山城へ集め評定を開いたおり、出陣して空となった城を扇谷上杉家に攻められ、妻子を害される恐れがあるとして、国人衆の妻子を小山城へ避難させる提案を矢野兵庫が行った。


当然、国人衆の多くが人質を取るのかと反発をしたが、「守りの固い小山城で妻子を守って頂けるなら後顧の憂いなく戦える! 皆も城に残した妻子を気にせず戦えるのだ、これなら安心して出陣できようぞ!!」と、示し合わせた国人達が声を大にして承諾の意を示した事で、場の流れが変わり、小山城へ妻子を預ける事になった。


これにより、実質的に妻子を人質に取られた国人衆は裏切れなくなった。

一部の者は、妻子を預けずに、扇谷上杉家に呼応し兵を挙げたが、当然の如く即座に兵を差し向けられて城を攻め落とされたのだった。


上杉定正の目論見が外れ、上杉朝昌は劣勢になった事で、相模川を渡河し合戦に臨む事が出来なくなった。


当然、数的に優位となった矢野兵庫は、高座郡の守りを山口高忠に任せ、相模川を渡河し上杉朝昌の軍に襲い掛かる。

事前に多くの国人衆が味方すると聞かされていた者達は、目の前に迫り来る矢野兵庫の軍を前に、鎧袖一触で蹴散らされ、逃げ出したことで、矢野兵庫はさしたる抵抗も受けることなく糟屋館へ向けて兵を進める。


相模の戦況は、豊嶋家有利、三浦家膠着、扇谷上杉家劣勢となった。


そして相模で合戦が始まった頃、駿河でも、伊勢盛時率いる今川軍4000が、遠江の斯波義寛の援軍8000を得て、進軍を開始する。


それに対し、小鹿範満は、太田道灌に援軍を求めると共に、4000の兵を集め、伊勢盛時を迎え撃つ構えを見せていたが、援軍に来た道灌が率いる3000の兵がやって来ると、矛先を変え、道灌の軍に襲い掛かった。


まさか、家督争いをしている伊勢と小鹿が手を組むなどとは夢にも思っていなかった道灌は、小鹿範満に攻められ興国寺城(静岡県沼津市根古屋)に敗走した。


道灌の軍を敗走させた小鹿範満は、駿河館で伊勢盛時、斯波義寛と合流し、16000の兵で伊豆へ向けて進軍を開始する。


道灌が敗走してから2日後、道灌と2000の兵が籠る興国寺城は伊勢盛時、斯波義寛、小鹿範満の軍に包囲され孤立した。

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