それぞれの成果

1483年4月


「幕府としては認めたく無いようだが、元々、幕府が関東公方として下向させた足利政知が、豊嶋家と三浦家により鎌倉に入り関東公方を名乗った事で、関東管領と足利成氏の和議と朝敵解除を躊躇っている。 という訳だ」


江戸城の一室で俺は父である泰経から京での様子を聞いていた。


父は昨年の11月に船で堺へ向かい、そこから京の都に行き、朝廷への献金と関東公方を名乗る足利政知からの書状を届けた。

その後、前将軍の正室である日野富子の元へ、手土産の金と政知からの書状を届け、最後に幕府へ政知からの書状を届けたのだ。


朝廷に関しては、当然の如く、帝に拝謁する事は出来なかったが、献金を持参した事により、帝よりのお言葉として関東公方を助け、関東に静謐をもたらすように、との事を伝えられたらしい。


そして日野富子に関しては、書状自体は流し読みされ、「関東の事に私ごときが口を挟むなど…」と言われたようだが、献上した2000貫文を前にしたら「もし、お困りの事があればいつでも相談に乗りましょうぞ」と言われたらしい。


そして、幕府へ書状を届けた後、日野富子からの呼び出しを受け、暫くの間、日野邸で世話になり、日野富子と繋がりの深い公家や幕臣、京に滞在している守護家の家臣などを紹介されたとの事だった。

恐らく、豊嶋家が金蔓になると認識したんだと思うが、悪くはない傾向だ。


実際の所、少し前までは武蔵の一国人領主だった家の人間だったのだから、普通であれば日野富子にも会う事が難しく、それどころか相手にされなかっただろうと思う。

そう考えれば、多くの守護家に影響力を持つ日野富子に金蔓として認知された事は大きい。


それにしても、昨年、譜代家臣や風魔衆に命を与えたが、それぞれがかなりの成果をあげてくれた。


赤塚資茂が行っていた、国府台城の築城を手伝うよう命じた後藤秀正は、自身の所領に近い国人衆達にも声をかけ、領地の男手を多数率いて国府台に赴き、3月には未完成ながらも、本丸、二の丸、三の丸まである城に仕上げた。

利根川の水を引き込んで、水堀を設け、利根川の水運を監視できるよう二の丸に船着き場まで作るという凝りようだ。

後は、城壁の強化や城内の屋敷などを作れば、ほぼ完成だ。


そして土屋元親、肥田氏本に命じていた、街道の整備についても、後藤秀正同様に、所領周辺の国人衆に声をかけ、男手を連れて整備を行った事で、現地で集めた農民達と共に3月末には国府台から木更津まで繋がる街道を完成させた。

当然、途中で佐倉へ続く街道も作った事で、有事の際には佐倉へ迅速に兵を送れるようにもなった。


譜代重臣である3人にはそれぞれ1000石を加増し、3人の誘いに従った国人衆達にも500石を加増した。

それにしても、流石豊嶋家の家臣というべきか、農閑期に領内の農家から男手を連れて行き、出稼ぎをさせる事で、領内の農民達が潤い、所領がそこそこ好景気になっているらしい。


まあ、日当は出るし食事も、多少の酒も出るから、作業に加わった農民達は、どんどん金が溜まる。

そして今回は急を要する工事であり、街道整備などは日々移動をする事もあり、豊嶋家が誇る遊女軍団を派遣し、金を回収する事が出来なかったのでなおさら農民達は金を使う事も無く、工事が終わると溜まった金を持って帰って行った。


移動式の娼館が今後の検討課題だな…。

なんせ娼婦を派遣しても、ヤル場所と衛生環境を整えないと長期的に派遣できないし。

まあ一部とはいえ領内が好景気になったから良しとしよう。


因みに、風魔衆の方も相応の成果を上げて来た。


まず古河に向かい、足利成氏の元に居る伊賀者について調べた望月彩芽は、成氏に雇われている伊賀者の頭目である百地権六と接触し、色々と聞き出してきた。


まず、伊賀者は、成氏が呼び寄せたのではなく、伊賀の百地家から売り込んだとの事で50人程でやって来て、現在は42人との事。

一国人衆であった豊嶋が彩芽達、伊賀者を厚遇し重用しているとの噂を聞きつけて、関東にやって来たとの事だった。

ただ、古河公方が現在大人しくしているので、これといった仕事も与えられず、実入りが少ないと嘆いていたらしい。


ただ調略については、百地家から売り込んだ手前、豊嶋家に従うのは出来ないとの事だった。

彩芽の予測では、このまま金になる仕事が無ければ年の暮れには伊賀へ引き上げるだろうとのことだ。

成氏が今年いっぱい大人しくしてくれると伊賀者の脅威が無くなるのは吉報と言える。


とは言え、関東管領である上杉顕定の動向を探るように命じた服部孫六からは、年末に兵を挙げるような事を顕定が周囲に話しているとの報告があった。

長尾景春は、厳重に情報漏洩を防いでいるようで、これといった情報は得られなかった。

唯一分かった事は、古河公方の軍に使者として赴き、兵を引かせたのが景春であり、その後、何度も古河へ足を運んでいるとの事だけだ。


景春が何かを企んでいるとなると、恐らく関東管領は蚊帳の外である可能性もある。

俺だったら、直ぐに情報漏洩をしそうな関東管領には適当な情報を伝え、事を起こす直前に話す。

だとしたら、顕定が年末に兵を挙げるのも怪しく思えて来る。

なので服部孫六には引き続き上杉顕定の監視と諜報活動を命じた。


そして、三峯へ向かった野村孫太夫だが、月観道満という修験者は見つけられなかったが、三峯の寺の山主である龍栄に接触して来た。

どうやら、山主は代々龍栄を名乗っているらしく、俺調べでは、山主の名は龍栄と違うと思っていたのだが…。


寺はかなり廃れていたらしく、堂舍を再興させ、京にある聖護院に願い出て「大権現」を賜れるように、との話をしたら、山主の龍栄は涙を流しながら凄い勢いで頭を下げたらしい。


金はかかるが、三峯宮を再興し修験道場を復活させたうえで、修験者を使い各地に寺では無く、三峯神社を立てさせる事で諜報網が更に充実する。

そう考えれば安い出費だ。


野村孫太夫には、早急に三峯宮の再興に取り掛かるよう命じる。

本当は豊嶋家の重臣とかが出向いた方が良いのだが、秩父は長尾景春の影響力が強いので風魔衆に影で動いて貰うのが良いと判断したからだ。


まあ、いずれは三峯宮の再興に豊嶋家が関わっているとバレるだろうけど、最初から邪魔されると厄介だが、京にある聖護院から「大権現」を賜った後なら、そうそう邪魔は出来ないからな…。

上杉顕定なら邪魔しそうだけど、大権現を賜った後で邪魔をする事がどういう事かは長尾景春なら分かりそうだし。


後は駿東郡の太田道灌の元へ派遣した風間元重の弟である風間兼重だが、こちらは相手が伊勢盛時という事もあり、かなり苦労をしたらしい。

龍王丸派の国人衆を煽ってもなかなか兵を挙げなくなり、反対に伊勢盛時の手の者が小鹿範満派の国人を煽り出しているようで、現在、小鹿範満は国人衆が挑発に乗らないよう奔走しているとの事で、道灌も駿東郡を豊嶋の物にしたものの、富士郡までは手を出せないでいる。


ただ救いなのは、甲斐の郡内に勢力を張る小山田氏を従属させた事だ。

甲斐は海が無く、塩は駿河から主に買っている。

豊嶋家が駿東郡を手に入れた事で、塩の道が絶たれる事を危惧した当主の小山田弥太郎、今は小山田信隆と名乗っているようだが、塩を格安で大量に販売するとの条件と、いずれ相模に所領を加増する事で従属した。


小山田家にとっては塩が安く手に入るだけでなく、大量に手に入るとなれば、安く買った塩を甲斐で売り捌けば、かなりの利益が出る。


小山田家としては、甲斐での争いに加わらず、力を蓄えられるとあって悪い話ではなかったようだ。

まあ相模の所領って言っても、相模川流域だから、扇谷上杉家を滅ぼさないと与えられないんだけどね。

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