第10話 無防備なセキュリティ


  ※※※※

  

 真夜中。トワのマンションで、囲われた特別な女たちは思い思いの仕方で彼の帰りを待っていた。

 ミンミは川端康成の『古都』を読みながら、ニーニャがリビングのテレビで遊んでいる『サイレントヒル2』をときどき眺めていた。ビリーはトワのアルバムをヘッドホンで聴いている。そして、ハナコとアリスはダイニングのテーブルで将棋の最中だった。

 玄関のドアが開き、トワが運転手であるタマキとともに帰ってくる。ミンミは本を閉じてソファに放り投げた。

「トワ様! こんな時間までどこ行ってたの? 大雨だから大変って言ったのに!」

「ハハ。悪かったな、許せよ」

 トワは一人の少女――いや、少年か? ――を抱きかかえ、ドアを肘で閉めると靴を脱いだ。トワもその女も泥だらけだった。

「その子、どうしたの? トワ様」

「可哀想だろ。誰か身体を洗って。あと、指も怪我してるみたいだし、手当てしてやれよ」

 ニーニャがコントローラのポーズボタンを押し、トワと少女を交互に見る。「トワ様も泥んこだよ。だったらトワ様の体洗ってあげたいなあ」

「駄目だ、おれよりこの女が先だ」

「えー」

「ニーニャ、頼む。――おれの言うことは聞くんだ」

 トワがそう言うと、ニーニャが「まあいいけどさあ」と言いながら風呂の用意を始める。

 ハナコが「トワ様、すごくその子に優しいね?」と微笑んだ。

「あ、分かる?」とトワも無邪気に笑う。「この子、おれのお嫁さんにするつもりなんだ」

 ミンミはトワの顔を見つめた。「トワ様? なんか心配だけど、やばいことはしてないよね?」

「大丈夫だよ。全く心配性だ、ミンミだけ」

 彼は奥のベッドルームに彼女を連れて行き、先にビリーが敷いていたバスタオルの上に彼女を横たえる。その手つきの優しさがトワじゃないみたいだった。

 そんなトワに、

「お嫁さん?」とビリーが訊いた。

「そうなんだ」と彼は答える。「こいつもお前らと同じだ。考えたり悩んだり、余計なことで苦しんだ。仲間に入れてやれ」

 薬箱を取り出したタマキが頷いた。「あと着替えも必要だよね。彼女、けっこう顔良いなあ。ちゃんとお化粧してあげないと」

「あとウィッグだ」とトワは言った。「買っとけよ。おれのクレカ番号は忘れてないよな?」

「――ウィッグ?」

 ミンミの質問に彼は頷き、眠り続ける少女の前髪をいじってオデコを晒す。「ほら、おれさ、女は髪が長いほうが良いんだ」


  ※※※※


 翌朝。

 氷川台の公園で、ユーヒチは泥まみれの野球帽を拾っていた。それはたしかに、アヲイの帽子だった。

 スマートフォンにリョウの連絡が届いている。

《アヲイは大学のゼミにも来てないし、バイト先の楽器店にも全然顔を出してないみたい。そっちのほうはアヲイいた? 連絡は?》

「連絡はないし、家の周りにもいなかったよ」

 とユーヒチは返信する。

《真面目にやってる?》とリョウは苛立ちをぶつけてくる。《病院出ていきなり居なくなるって絶対普通じゃない。こっちは本気で心配なんだから。まあユーヒチがどう思ってるかなんて知らないけど》

「俺が心配してない?」

《ねえ、いちいち突っかからないでよ。何の役にも立たないくせに》

「ごめん」

《あとはアヲイが行きそうなところを虱潰しに探すしかないかな。それは任せて。ユーヒチはもういい》

「俺もやるよ」

《私は十年もアヲイといっしょにいてアヲイのことは何でも知ってるの! あんたが何を知ってるの!?》

 リョウが不安とムカつきを爆発させる。

 そして、それは客観的には事実だった。――俺はアヲイとは知り合ったばかりで、何も知らない。ただアヲイを好きだというだけで、俺は何の役にも立ってはいないとユーヒチは思った。


  ※※※※


 トワがレインからの電話を取るころには、アヲイの体はすっかり綺麗になっていた。ライトブルーのネグリジェに身を包んだ彼女は、ロングストレートのウィッグとメイクで整って、六人の女たちに囲まれながらベッドに横たわっている。

 ただ、両目を開いたまま意識はなく、ほとんど反応もなかった。

「やあトワ。朝早くにごめんね」とレインは言う。「まあ、と言っても、僕からしたらけっこう遅めの挨拶になっちゃんだけどさ! ほら、トワは夜型だから!」

「そうだな」

 トワはそう答えた。「レイン、今日はどうしたの? 復帰の打ち合わせまではもうちょっと時間があるよな」

「――今日はすぐに僕のこと分かってくれたね? 嬉しいよ」

 レインはそう前置きしてから、「感傷的なシンセシスの九条アヲイを知らないか?」と訊いてきた。

「アヲイ?」

「ほら、君が気に入ってた女の子だよ! 前に話してたじゃないか。忘れちゃった?」

「覚えてる。なんで訊かれたのか分からないだけだよ」

 トワは嬉しかった。おれはレインの声が分かる。レインのこともすぐに思い出せる。きっと、アヲイがおれのそばにいてくれているからだ。いつものようには、寂しくならない。

 レインは咳払いする。

「実はね、彼女が病院を出てから家に帰ってないみたいなんだよ。リーダーのリョウって子から聞いた」

「――へえ?」

「トワのほうで心当たりがないかと思ってね。たとえば君の家を訪ねているとか」

「なんでだ?」

「――君が言ったんだよ。アヲイと君は同じだって。だったら相談のひとつやふたつはあるだろう?」

 ああ、そういうことかとトワは思い、もういちどベッドを眺めた。アヲイは起き上がらない。

 トワは家電代わりのタブレットに目線を戻した。「いや、知らないな。大学とかバイトとか。あ、そうだ、男に会ってるんじゃないの?」

「――男?」

「アヲイだって女なんだから、男くらいいるだろ」

 トワは答えながら少し笑えてくる。

 レインは受話器の向こうでため息をついた。「そういうのは全部探したそうだ」

「じゃあ、おれには何も分からない」

「――な、いいか、トワ」

 レインの声が低くなる。「本当に君は何も知らないんだな? これは冗談じゃ済まないぞ」

「そうだな」

 トワはおかしくてたまらなくなると、タブレットをそのまま持ってベッドに運び、通話しながらアヲイの体のそばにゆっくり腰を下ろす。

 今この場でアヲイが起き上がって声を出したら、おれは終わりだ。

 彼は彼女の表情を見下ろした。

 ――ほら、アヲイ、どうした。おれが嫌いなら飛び起きて叫んでみせろよ。そう心で呼びかけても、彼女の瞳はぼーっと天井に焦点を合わせたままだった。

「くっくっくっく」

「何がおかしい?」とレインが訊く。

「レイン、おれたちは昔から親友だ。そうだろ?」

 彼がそう言うと、電話の向こうの雰囲気が変わる。

「まさか、思い出してるのか? ――トワ」

「お前が辛いとき、よくいっしょに学校サボった。おれにしたって、こんな頭のおかしい奴に優しくしてくれたのはお前だけだった。女たちは寄ってきたが、そういうことじゃないんだ」

 レイン、純粋な友達になってくれたのはお前だけだ。トワはもう、そのことを正しく思い出すことができる。

「なあ、レイン」

 トワが呼びかけると、彼女の反応がいったん遅れた。涙ぐんだ、鼻水をすするような音が聞こえる。

 ――昔の泣き虫のままってわけだ、お前は。おれと違って優しくて良い奴だからな。

「なあ、レイン。仮におれがアヲイの行き先を知ってるとして、それでもお前はおれを助けてくれるだろ?」


  ※※※※

  

 電話を切ると、レインはその場にうずくまった。

「――トワが、僕、を思い出してるのか」

 唯一の親友が、彼女のことを数年ぶりに、正しく、何度も認識してくれた。

「あはっ、ははは、これは参ったなあ!」

 トワ。

 トワ!

 ああ、君は僕のたったひとりの友達だ。どんなに君が壊れていても、どんなに君が他人を傷つけても、僕は、君に対しては返しても返しきれないほどの恩があるんだ。僕の死を止めてくれたのは、君だったのだから。

 レインはちょっとだけ涙を流し、しばらくすると立ち上がった。

 ――トワは間違いなくアヲイの居場所を知っているか、最悪の場合、自分のすぐそばに彼女を置いているだろう。

 ――さて、どう君の凶事を隠蔽してやろうか。

 レインは高校時代ぶりに、悪人の顔に戻った。


  ※※※※


 アヲイは意識が戻ってから、体を動かせるようになるまで丸三日かかった。

 視界が戻ると、銀縁の眼鏡をかけた女が顔を覗き込んでくる。どうやら彼女の両膝を枕にして眠り続けていたらしい。

「あ、起きた。大丈夫?」

 女はそう言って手のひらをひらひらと動かす。あとで知ったことだが、彼女の名前はミンミと言うらしい。

「ここ、どこ?」

 アヲイが訊くと、不意に、左手の平を別の女に優しく握られる。浅黒い肌のその女がビリーというようだった。

「ここは私たちの家だよ」

「イエ?」

 訊き返してから、自分の喉がカラカラに渇いていることに気づいて、何度か咳き込んだ。肋骨も少し痛い。

「ありゃ」と声がする。「おみず飲む? 起き上がれないんなら、コップじゃなくて吸飲みにするけど」

「だれだ」

「うち? ハナコ」

 そう答えた彼女は、台所からガラスの容器を取って、浄水器の水を入れる。

「名前を気にするなんて、貴女変わってるね?」

 ハナコはそう言いながら、ベッドに近づく。

 ミンミがアヲイの後頭部の下に手を差し込んで、液体が喉を通りやすいように、ほんのちょっと傾けた。

 アヲイの唇と唇の間にハナコが注ぎ口を入れる。なんとか飲み込む。

 ニーニャがゲームを続けながら「おトイレのときは流石に自分で立ち上がってよ?」と言った。「まあ、無理だったら先に言ってね?」

「からだ、うごかない」

 アヲイは自分でそう言ってから、情けなくて少し泣きそうになった。

「お~、よしよし」と彼女の頭をミンミが撫でた。「大丈夫だよ。脳ミソ使いすぎちゃっただけだって、トワ様も言ってたから」

「――トワ?」

 アヲイの頭の中で、再び攻撃性が点火しかける。「あいつはどこだ」

「やめようね」

 静かな声が部屋中に響いた。隅っこで、一人の少女が傷もなにもない左腕に包帯を巻いては戻し、また巻いてを繰り返していた。

 彼女がアリス、という名前なのだと後々知った。

「なんでトワ様に逆らうの? それ、意味ないよ」

 アリスはフローリングの床を見つめたまま、そんな風に呟く。

 タマキが冷蔵庫からスナック菓子や菓子パン類を持ってくる。「アヲイ、お腹も減ってるんじゃない? いっぱい食べたら、ケンカなんかしないって。食べな?」

「おきれないし、いらない」

 アヲイがそう答えると、ミンミがタマキからゼリー飲料を受け取る。「じゃあ、起きなくていいからこれ飲もうね?」

 ニーニャが呆れた声で「あとでお薬も飲むんだし、何か入れないと胃が荒れちゃうよ?」と注意してくる。

「くすり?」

 アヲイは彼女に視線を送った。不吉な想像が巡る。

 それを遮ったのはミンミの声だった。

「ただの痛み止めだよ。だって、きみ、頭痛ひどいんだよね? ちゃんといい子に飲まないと」

 女たちに見守られる中、アヲイはゼリー飲料を口に流し込まれていた。最後まで飲み終わると、ミンミは嬉しそうに「よしよし、よくできたね」と、彼女の頭を優しく撫で回した。

 その後、薬の副作用で眠気に襲われると、アヲイは大きなベッドの上で彼女たち全員に抱きしめられながら意識をオフにした。


 そんな日々の初めのうち、夜中に目覚めるのが怖かった。

 暗闇の中で光るのはデジタル時計だけで、彼女は、自分が眠っている間また別の世界に飛んでいるのではないかと不安に駆られた。手元にスマートフォンもなく、何にも縋るものがない。

「だれか」

 アヲイはなけなしの声を振り絞る。

「だれかいないの?」

 ねえ、誰か、誰か、誰か私の名前を呼んで。私が誰なのか教えてよ、ねえ。

 ――決まってそんなときは、六人の女たちのうち誰かがアヲイの手を握る。「大丈夫だよ、大丈夫」

「だれ?」

「誰だっていいの。きみは、ここにいるから大丈夫。朝までちゃんと寝てようね?」

 そんな風に抱きしめられて、また眠る。

 アヲイが震えたままでいると、六人のうちの一人が、必ず彼女を胸元に引き寄せて寝かしつけた。それを暖かいと感じる。

「名前なんかあるから人って悩むんだよ。自分が誰かとか、愛すべき人は誰かとか、そんなこと考えなくていいの。私たちはただの六人で、きみだって、特別な七人目になるだけだよ」


 そうしてアヲイがやっとベッドから降り、自分の足でふらふらと歩けるようになった頃、作業部屋からトワがゆっくりと出てきた。

「アヲイ」と彼は嬉しそうに呼んだ。「やっと自分で立てるようになったか」

「気安く呼ぶな」

「良い肉を買ったんだ。皆で焼いて食おうぜ。復帰新曲の納品祝いだ」

 新曲?

 復帰?

 アヲイが首を傾げていると、ビリーが後ろから駆けつけて「曲、出来たの!?」と叫んだ。「聴く、聴く、聴く! ちょっと部屋入る!」

 そうして彼女はトワの作業部屋へ入れ違いに引き籠る。

 ハナコがアヲイの手を取り、「アヲイちゃんも、もう食べれるでしょ? 皆で食べよ?」と誘ってきた。

 そんな感じで六人の女と、アヲイと、トワの八人でテーブルを囲み、氷河期の原始人が獲ったような大きな肉を切り分けて焼いて食べた。

 調理と取り分け役はタマキとハナコ。ニーニャとアリスがトワの両隣に腰かけて、彼にワインを注いだ。アヲイの左右にはミンミとビリーが座った。

 ビリーの視線が妙に熱い。

 トワが肉を獰猛に噛みちぎって飲み込みながら笑う。「おいビリー、アヲイが気に入ったか?」

「うん、いいね」と彼女は答えた。「男の子みたい。かっこいい。結構好きになったかも」

「ハハハ」とトワは大声を上げた。「だってよ。アヲイもその女、ヤりたいときは使っていいぜ。おれの許可は要らない」

「あ?」

 アヲイは肉をナイフで乱暴に切り捌く。「ビリーだってお前の女だろ? トワ」

「夫婦は財を共有するんだ」とトワは答える。「だから同等の権利を持つ」

「何でもいいよ。だけど、今度『使う』なんて言ったらまたブッ飛ばすぞ」

「――お前の威勢がよくて、おれは気分がいいぜ」

 トワはそう言って優しく微笑んだ。

 アヲイは右隣に座るミンミを見る。新しいワインボトルをアヲイのために空けようとして、両手をテーブルの中央に伸ばしている。

 次に左隣のビリーを見る。アヲイの視線に照れて、彼女は目を閉じた。

 そして最後に、アヲイは自分の手元を見る。肉を切るためのナイフと、突き刺すフォーク、つまり凶器がある。

「やめとけよ、アヲイ」とトワは言った。

 ――彼女は我に返った。

 彼の両隣に視線をやる。アリスは既にアヲイの予備動作に気づいていたらしい、こちらを睨みながら体を強張らせていた。ニーニャは気付いていなかったのか、ただ慌てていた。

 トワはまた肉を頬張る。彼が血をしたたらせながら嚥下する姿を見ると、たしかに、いまテーブルの上に置かれている私たちのための食料ってやつは、私たちが殺した動物たちの死骸なのだということが実感として分かる。

 生きることは喰うことであり、喰うことは殺すことだからだ。

 人類のプリミティブな動物性。

 ――トワは、今この場で私に攻撃されたら躊躇いなくアリスを盾にする気だった。

 彼女たちは、傷つけられない。

 アヲイは諦めて肉の塊に食らいつく。ただ、苦しいと感じた。

 トワは小皿にスライスされたパンを千切って口に放り込むと「夜中に目覚めるのがそんなに怖いか?」と訊いた。

「何だって?」

「ミンミから聞いたんだ。お前が毎晩泣いてるって」

 と彼は言って、新しい肉をゆっくりと切り始める。

「ひとつひとつの世界の意味にいちいち囚われたりするな。だから自分の居場所を気にして怖くなるんだ」

「ハッ」

 アヲイは笑い飛ばした。「どうして私を手錠とかロープとかで縛らないんだ? 私を閉じ込めたいんじゃないの? お前は」

「? いや、ぜんぜん」

「私が逃げ出すって考えない?」

「お前がどこに逃げて、どこに帰るんだ?」

 トワは悲しい顔をする。

「そんな場所この世のどこにもないだろ? アヲイには」

 ハナコが腕を広げると、新しい肉をフライパンに置く。

 アヲイは反応できない。

 ――私はどこに逃げるんだ? どこに帰ればいいの?

 頭の中で、まずリョウの顔が浮かび、次にユーヒチの顔が浮かび、最後に死んだ両親を思い出した。

 タマキが笑顔で振り返る。「あ、そうだった、タバコはベランダでお願いね~!」


  ※※※※


 ユーヒチのスマートフォンに、沖田レインからのメッセージが届いていた。

《アヲイくんと連絡が取れた。とりあえず、バンドのメンバーを集めてくれないかな》


  ※※※※


 マイヤーズミュージック音楽事業部長、八木啓(啓と書いて「ひらく」と読む)からの着信があり、トワは家のベランダに出た。ハイライトに火を点ける。

「新作、たしかに受け取った」と八木は言った。「腕は衰えていないようで安心したよ」

「ありがとう、八木さん」とトワは煙を吐く。

「お前が感謝か。珍しいな」と八木は言う。「――心を入れ替えたか?」

「いいや、取り戻したんだ」

 そう答えてから、トワは窓のほうに振り返り、薬の副作用で眠り続けるアヲイを見つめた。今はタマキが面倒を見る当番だった。

 ちょうど都合のいい女神を見つけたもんでね、とは、あえて八木には言わなかった。

 八木は話を続ける。「ミュージックビデオの撮影の日取りについては、あとでまた、レインの奴から連絡させてもらうよ。あいつとはまだ仲が良いか?」

「絶好調」

「――他に要望はあるか? 何でもいい」

 そう訊かれて、トワは少しだけ頭を使う。

「じゃあ、おれの女たちに風俗以外の仕事をくれ」

「考えておく」

 電話が切れた。

 六人の女たちには今は仕事はなく、トワの貯金で呑気に暮らしていた。それでも、ニーニャがときどき「トワ様が仕事の日はメッチャ暇」と言っていたことを思い出せる。

 ――おれは、これから忙しくなる。ニーニャたちが暇でウザい思いをするのはダメだ。

 彼はそう思う。


  ※※※※


 沖田レインは西麻布の料亭の小広間を予約し、感傷的なシンセシスの四人よりも先に待っていた。

 最初に入ってきたのは篠宮リョウだった。次に野村シシスケ、山本ガロウと続いて、最後に部屋に入ってきたのがあの川原ユーヒチだった。

 ここに来るまでの間に、レインはアヲイと四人の関係をあらかた調べ尽くしていた。

 だから分かる。――僕の親友のトワにとって、いちばん危険なのは川原ユーヒチだ。

「やあ、みんな」とレインは言って、キャストに日本酒を注がれる。

 リョウが「遅れてしまって、本当にすみません」と頭を下げる。

「気にしてないよ。みんな時間内だし」

「ユーヒチは三十秒も遅刻しています」と彼女は即答してから、彼のことをキリキリと睨んだ。ユーヒチの目の下にはハッキリとクマが浮かんでいる。

 ――よほど眠れていないらしい、とレインは思った。

「ユーヒチ」とリョウは言う。「あなたが何に焦っているのかは知らないし、興味もないけど、マジ時間はちゃんと守って。相手は会社の先輩だよ、分かってるの?」

「ああ、分かってる」とユーヒチは答える。

 レインは苦笑した。「なあ、リョウちゃん! そういう説教は僕がいないときにやったほうがいい」

「すみません」とリョウは青ざめた。「私、あの――」

 レインは盃を持つ。「ユーヒチくんが思いつめるのも無理はないし、リョウちゃん、君だってちょっと大変みたいだ。それは分かってるつもりだよ。だいいち遅刻なんか気にしないしさ。まったく、アヲイくんの失踪には会社だって参ってるんだ、本当」

 そう喋ってから、レインは「あ、好きに食べてね?」と四人に促す。

 ガロウが「オレ、こういう高えメシの食いかたなんか知らねえですけど」と慣れない敬語を使ってくると、レインも思わず面白くなる。

「いいよいいよ! 好きに刺して食べればいい。そのお箸で。僕たちしか見ちゃいないよ。それに――」

 ――テーブルマナーなんか律儀に守ってる連中は全員お育ちのいいクソ野郎共だろう?

 という暴言を、レインは胸のうちに留めておいた。

 シシスケが刺身を飲み込むと、「ユーヒチからは、アヲイの件で貴女から連絡があったと聞いていますが」と斬り込んでくる。

 そう、こういうときに話を始めるのはシシスケだ。

「貴女、は好きじゃない。レインでいいよ」とレインは返してから、「アヲイくんからは手紙を任されてるんだよ。みんな宛てになってる。――どうも、いったん一人になって考えたいことがあるみたいでさ」と、

 本題に入った。

「手紙ですか?」とユーヒチは訊く。「メールとか、SNSのメッセージとかそういうのじゃなくって?」

「ちょっと!!」とリョウが窘めた。

 レインは肩をすくめる。

「この手紙だけど、リョウちゃん、まずは君が読んだほうがいいと思う。随分長い付き合いだったんだろ? この中で、アヲイくんといちばん強い絆があるのは、間違いなく君じゃないか」

 そう言って、レインはエルメスのバッグの中から茶色の封筒を差し出した。

 絆、という言葉に、リョウの顔がグズグズになるのをレインは見逃さない。

 リョウは丁寧に封筒を開けて、しばらく黙って便箋の上に書かれたインクの文字列を読んでいたが、しばらくして黙読を続けられなくなって、

「嘘だ――」と声を漏らした。

 ガロウが「おい、大丈夫か?」と駆け寄り、その手紙を奪ってシシスケやユーヒチと回し読みを始める。

「これ本当にアヲイの手紙か?」

「うん」と答えたリョウは、もう、自分の口元を押さえてまともに返事ができない。「その字、その書きかた、アヲイのだよ。分かってる」

 ――アヲイの文字は、色々な仮名や漢字の最後の画数のところで不自然に跳ねて、次に繋がりそうな勢いで書かれていく。ひらがなの「れ」の最後の画みたいな感じだ。

 その手紙の文字は、まさにそういう書かれかたをしている。こんな文章だった。


『みんな、いきなりいなくなってごめん。

 ずっと黙っていたけど、あのライブのあと、私のアタマは前よりもずっとおかしくなってるんだ。

 階段から突き落とされたあと、長い間眠っていたみたいで、迷惑かけちゃった。

 ただ、その間、私はずっと悪い夢を見てて、ぐちゃぐちゃになっちゃって、もうダメなんだよ。知りたくないことも知っちゃったし。こんな思いをするなら、もう、ギターなんか持ちたくない。なるべく静かなのが今はいいかな。

 もちろん頭が回復したら、分からないけど。でも、今のところはそう思ってる。

 本当に皆には、申し訳ないって感じ。私がいなくても四人でバンドをやれたらいいよね。少なくとも、ここしばらくはそっとしといてほしいって思う。

 リョウへ。これまで、ずっとごめん。ありがとう。リョウが私をどれだけ大切にしてくれていたか、ようやく私にもわかった。そういうことだったんだね。だけど、リョウの気持ちに何にも返せない自分が大嫌いだ。

 こんなことなら、リョウと私、最初から会わなければよかったんだ、って言うのも無責任なのかな。今は、これしか言えない。

 ガロウとシシスケへ。許して。二人が期待してくれたボーカルは、こんなザマだよ。まあ、二人は最高に上手いから私がいなくてもいいよね。私のことは、なんつうか、忘れてよ。

 ユーヒチへ。ごめんなさい。

 私は、ユーヒチのことがすごく好きだよ。だけど、いっしょにはいられない。こんな身体の私なんて、ユーヒチは、いつかきっと重荷に思うんだよ。ユーヒチは優しいから顔には出さなくて、ずっと私に優しくしてくれるって分かるけど、でも、それが私にはものすごく辛いんだ。

 皆がごく当たり前にそこにいられる因果律に、私だけアクセスできない。

 生まれ変わったら、今度はマトモな脳ミソになってユーヒチに会いたい。そのときはお互い初恋がいいなって感じる。

 さようなら。

 ここ最近は、私と同じような症状の人といっしょにいて、その人から話を聞いたりして過ごしてるよ。ゆっくり治すつもり。毎日楽しいよ。スマブラとかやってる。じゃあ、また』


 それが全文だった。


 リョウが卓に突っ伏して泣き喚いていた。ガロウもシシスケも何も言わない。

 レインは首を振った。

「音楽事業部の本部長からの通達になるが、感傷的なシンセシスは今のところ活動休止ということになるだろう。もちろん、君たち個々人の活動は支援するとのことだ。それでも肝心のアヲイがこの状態だ。バンドは終わりだよ」

 レインはそう告げてから、全員を見渡す。

 どうやらリョウの心は壊れてしまったみたいだ。

 ガロウとシシスケの表情にも無力の色が伺える。

 ――まったくトワは僕にイヤな役目をさせるね。

 彼女が呆れているなかで、しかし、ユーヒチだけは姿勢を変えなかった。初めに料亭に来た顔つきのまま、考え込んでいる。

 ――なんだ、この男。

 レインのハラワタに、ぐつぐつとした不快感が湧いてきた。ともかくこいつは気に入らないという気分だった。

「うん、僕に言わせれば」と、レインは余計な言葉を付け足してしまう。「たしかに、アヲイくんとユーヒチくんの関係性って、横から見るとあんまり良いものじゃなかった。アヲイくんだけが君に依存してるって言えばいいのかなあ。なんていうか、対等でも健全でもないし。まあそんな気はしていたよ。個人的には、ね」

「そうですか」とユーヒチは返答した。

「そうだとも。彼氏に『死ね』と言われて死ぬ彼女なんかマトモじゃないだろう! だからまあ、いったん二人が距離を置くっていうのも僕個人は悪くないと思うけどね。お互いが冷静になって相手のことを見つめる時間ができたって考えてみてもいいんじゃないかな。全てはそのあとだと僕は思うよ?」

「あなたの言うことは正論ですね」

 そうユーヒチは答えたあと、すぐに、

「でも、俺はそんなものには騙されませんよ」

 と答えた。

「は?」

 レインの戸惑いを無視して、ユーヒチは手紙を折りたたんで封筒に入れ直した。そして立ち上がる。

「手紙は受け取ります。俺は帰ってやることがある」

「おい、待てよ、ユーヒチくん!」

 レインは立ち上がり、小広間から去ろうとするユーヒチの肩を、強引に掴んだ。

 そのときに、

 彼の背後に、一人の少女が立ちはだかって、レインのことを静かに睨んでいた。

 ――睨んでいた?

 いや、違う。

 少女の瞳は、目頭から目尻まで全て真っ黒に染まって、何ひとつ光と呼べるようなものなど反射せず、どこにもその焦点を当ててはいなかった。

 ふわふわしているモノトーンのロリータファッション。外ハネの多い長い癖っ毛を大量のヘアピンで固定していて身長は150cmもなかった。

 少女が、ぱっくりと口を開く。

 べっとりとした赤ペンキで塗りたくられたかのように、彼女の唇から内側は鮮血の色に染まっていた。そしてスロー再生のような低い声が響く。

「き た な 

 い て で

 ユ ー ヒ チ

 に 

 さ わ る な」

 少女はそう言った。彼女の喉の奥から響いたわけではなかった。レインの柔らかい脳髄の中に、直接響くような、そんな感じだ。

 なんだ、なんだこいつは、なんなんだ。

 レインが固まっていると、さらに少女は続ける。

「お

 ま え

 も

 の ろ う

 ぞ」

 ――!

 レインは思わず手を引いて、まばたきする。


 と、少女の像は消えていた。

 ユーヒチは、そんなレインの動きを訝しんだのか、彼女の視線を追いかけて振り返り、すぐ後ろの壁を見つめていた。

 そこには誰もいない。

 二人の緊張が部屋全体に伝わり、リョウを除いて、シシスケとガロウの両目が、ユーヒチとレインの間を行ったりきたりした。

 ユーヒチが黙っていると、ガロウが、

「おい」と呼びかける。「いたのか?」

 ――いたのか? なにが?

 レインにはガロウの問いかけの意味も分からない。

 ユーヒチはしばらく壁を見つめたあと、ガロウに、崩れるように微笑んだ。「いいや、見えなかったよ」

 そうして、彼はレインに向き直った。

 違和感がある。

 さっきまでのユーヒチの顔は、手がかりも何もなく、ただもがいて焦っているだけの可哀想な負け犬野郎のそれだった。

 レインも少しは同情していた。――まあ、世の中こういうとことはあるよ、と、心のなかで慰めたかったくらいだった。

 今は違う。

 彼の瞳に、何かの目標をじっと見定める志向性のようなものがよみがえっているのを彼女は認めた。

 リョウが泣いたままだったが、部屋全体の空気が、少しだけ変わっていた。

 レインは、会合の場所に料亭を選んだことを後悔していた。レインは172の長身に常に10センチ超のヒールを履く。靴の女性的な属性には何の感慨もなかった。肉体だけが女である劣等感の裏返しとして、誰にも見下されたくなかったというだけだ。

 なのに、今、靴のない彼女はユーヒチを見上げるしかない。

 ――僕を見下ろしていいのは、親友のトワだけだ。あいつだけは男でも女でもない僕の味方だ。

「さあ、行きなよ」とレインは言った。「やることがあるんだろう? ユーヒチくんには。実際、君に何かができるとは思わないけどね、僕としては!」

「レインさん」

 とユーヒチは静かに言った。「あなたの言うことが、どれだけ正しくて、理屈に合っていて、筋が通っているとしても、俺はそんなものには騙されません。俺のアヲイに対する感情は間違ってるかもしれない。でも、正しさなんて校舎の窓ガラスみたいなものです。真夜中にバットで叩き割ってやれば問題はありません」

 そしてユーヒチは廊下を歩いていき、料亭を出た。

 シシスケが眼鏡の位置を少し直した。「あいつ、だいぶキてるな――」

 ガロウが力なく肩を落とす。「お前、昔はよくユーヒチのことボコってたっけなあ。オレよりもアイツのほうがヤベえからさ、ほんとは」

 そうして、

 ガロウは目の前を刺身とか白米とか野菜とかをバクバクを漁り食って、お吸い物をすぐ飲み込むと、ユーヒチの座席に移動した。

「あいつ食わないで帰ったのか。もったいねえな。せっかく高いメシなのに」

 そしてユーヒチの分も胃に収めていく。

 シシスケが「味なんか分からんだろう、お前に」と言った。

 ガロウは飲み込んでから喋る。「胃袋に入りゃ五百円のメシも五万のメシも同じだけど、でも高えじゃん!?」

「――ま、そうだな」

 シシスケは、ユーヒチが去っていた道を遠目に眺めている。そこには何か信頼のようなものが伺えた。

 リョウは体育座りになって、自分の両膝に顔を埋めている。

 レインはただ、ユーヒチの言動にずっとベットリとした敵意を覚えていた。


  ※※※※


 電車の中で、ユーヒチはカバンの中から野球帽を取り出した。

 雨上がりの朝の公園で見つけたアヲイの帽子だ。彼女はメンズ向けの帽子を目深に被って自分の目線を隠すスタイルだから、アジャスタを調整してやれば、ユーヒチでも身に着けることができる。

 彼は、ゆっくりとアヲイの帽子を被る。

 ――あの手紙が本当だとしたら、あの場所に打ち捨てられていた帽子は説明がつかない。

 それに、とユーヒチは思った。

 あの夜、アヲイの部屋にあった哲学書の話を思い出す。

 ――俺たちが因果律にアクセスできないのは、俺たちのアクセス能力の不備じゃなくて、因果律そのものが存在しないからだ。そうだろ、アヲイ。

 そして、特徴的な筆跡を真似する方法なんて、いくらでもある。ヱチカが住む実家には、捨てられていないアヲイのノートくらいはあるはずだ。

 妹のシキが偏屈なミステリ読者で助かった、とユーヒチは少しだけ思う。

 ユーヒチはまずヱチカにメッセージを送る。そして、電車が最寄り駅に着くと席から立ち上がった。

 あの料亭で、レインの視線の先にはナクスがいた。ユーヒチもそれを見た。彼女は命を絶つ数日前と変わらない優しい顔で、

「だまされちゃだめだよ」

 と言った。

「もちろん」とユーヒチは心のなかで思う。

「俺はアヲイを失わない」

 そう考えながら、ユーヒチは駅のホームに降りた。


  ※※※※  ――Appendix


 三年前。

 ということはつまり、トワはまだ二十五歳で、アリスも二十歳になったばかりだった。

 深夜の赤羽、アリスは従業員の男に何度も殴られ、人気のない路地裏に座り込んでいた。

 ――せっかく男たちに抱かれて稼いだ金を、どこかに置きっぱなしにしてなくしてしまった。男が激昂した理由はそれだった。

「テメエはなんで、いっつもいっつもそんな風にバカなんだよ! コラァ!」

 男はそう怒鳴って、地べたに膝をつくアリスの肩をエナメルの革靴で踏み上げる。衝撃に耐えきれず、アリスはコンクリートの上にうずくまった。

 目線の先には、誰かが捨てたカップラーメンの空き容器が捨てられていた。ゴミだ。

 ――しょうがないじゃん。あたしバカだもん。バカに生んだママが悪いもん。なんであたしってバカに生まれちゃったんだろう。ほんとはアタマの良い人間に生まれたかったのに。親ガチャ大失敗。百人一首も覚えらんなかったし。百人一首って何時代?

 アリスは意図的に頭をボーッとさせて、痛みを遠ざける。

 そうやって、いま殴られているのは自分じゃない、ほんとの自分は私の体を上から見下ろして無傷なんだ、と言い聞かせているうちに、いつも男という生物からの暴力は終わる。

 ――肩に傷できてたら、仕事のときはファンデで隠さなくちゃ。裸になるもん。

 アリスはゴミを見つめながらボンヤリ思いふける。

 でも、その日は様子が違って、従業員の男はアリスに追加の攻撃をしてこない。

 代わりに、路地裏の入り口に向かって「コラァ! 何こっち見てんだテメェ、消え失せろ!」と怒鳴っている。

 何?

 アリスは体を起こす。そこには背の高い、髪にウェーブのかかる、彫りの深い青年が立っていた。瞳が暗い。

「楽しそうじゃん」と青年は言った。「お兄さん、おれも混ぜてよ」

 そしてフラフラと近づいてくる。

 後で知ったことだが、彼の名前はメディアではトワと呼ばれていた。

「あ?」と男が青年の胸ぐらを掴む。「消えろ、って言ったのが聴こえなかったのか? アタマにクソでも詰まってんのかバカ野郎!」

「くく――くく、く――」

 トワはそんな風に笑った。「おれのアタマに脳ミソなんかないよ。試しにほじくり返してみるか?」

「イカれてんな。クスリやってんのか?」

「殴ってこいよ。頭蓋骨がイライラする」

 そう吐き捨てたトワは、自分の胸ぐらを掴む男の腕を逆に握り返すと、力任せにひねり上げた。

「あっ?」

 男が声を出すか出さないかのうちに、トワは彼の両足を薙ぎ払うように蹴り飛ばして、体をうつぶせに押し倒す。

「お兄さん、楽器やってる?」とトワは聴く。

「なんだ! なんだよテメェ」

 男が口答えをすると、タバコを口に咥えて、火をつけて軽くふかしてから彼の首筋に押し当てた。

「ああああああああ!」

「おれが訊いたんだから、答えろよ」

「ああああ!」と男は叫びながら「やってねえよ! なんだよそれ! なんの質問なんだよ!」と矢継ぎ早に疑問をぶつける。

「――楽器やってないなら、いいかぁ」

 トワはそう言ってから男の左腕を両手で握り、膝を当てて梃子の原理、ばきばき、と勢いよく折った。

 男の悲鳴が上がる。

 トワはそんな彼の頭髪を鷲掴みにすると、ビルの壁に向かって何度も打ち付ける。反応がなくなるまで、べんっべんっべんっ――という、人肉が叩きつけられる間抜けな音が響き続けた。

 やがて、男はその場に横たわって動かなくなった。ビル壁の血飛沫は、月夜ではっきりと見える。

 そして、トワは不意にアリスのほうを向く。

 彼女は軽く後ずさった。

 彼はアリスの近くまで歩くと、アスファルトの上にあぐらをかいて彼女を見た。

「お前、あいつにバカって言われてたな?」

 そんな風にトワは訊く。

「――言われた、けど」

「ほんとにバカなのか」

 アリスにはトワの質問が分からない。

「ばかだよ、あたし、でもしょうがないじゃん」

「子供の頃のことを覚えてるか?」

「はあっ?」

 アリスは彼の問いに呆れ、そして、顔を伏せる。「思い出したくない。あんな家、生まれなきゃよかったもん」

「――ハハハ」

 トワは立ち上がった。「思い出せるなら、お前、おれよりはバカじゃないな」

 そしてトワは、アリスの右腕を掴むと強引に連れて行った。アリスも抵抗はしなかった。こんな東京とかいうカスの掃き溜めみたいな場所で風俗嬢を続けるのも、イカレ男に連れ去られるのも、大して違いはないのだ。どうせ、どいつもこいつも狂ってる。

 浅草にあるトワのマンションにアリスが足を踏み入れたとき、

 アリス以外の五人は、もう全員、そこでの生活を営んでいた。

 眼鏡をかけた仕切り屋のミンミ、優しい運転手のタマキ、肌の焼けた音楽好きでバイセクシャルのビリー、ゲームばっかりしている気だるげなニーニャ、そして皆のごはんを毎日つくってくれるハナコ。

 みんな、同じような事情を抱えてトワの家で暮らしていた。

 ちなみに、従業員の男がトワに暴行を受けた件は報道されなかった。彼がアリスと金を逃がしたことのほうが重大な問題なので、表には出なかったのだ。

 ミンミは、これについて「東京ってね、やりかたさえ覚えれば犯罪なんか犯罪じゃないんだよ」と笑っていた。

 アリスは、そうして頭のおかしいトワのことが好きだった。


  ※※※※


 そして、現在。

 ユーヒチからメッセージを受け取った翌日、ヱチカは実家のベンツを池袋サンシャインシティの駐車場に停めた。丸一日停めたって4000円しかかからない。

 外に出て運転席のドアをバム! と閉めて、ユーヒチの待つカフェに歩いていった。

 要件ははっきりしている。アヲイねーちゃんの失踪だ。

 小規模な書店のとなりにある喫茶店で、ユーヒチが待つテーブル席のソファ側に腰を下ろした。

「アヲイねーちゃんから手紙があったって、ほんとなんですか」

「うん」

 彼はそう答えると、バッグから封筒を取り出した。「それを見たリョウは、間違いなく、アヲイの手紙だって言ってたよ」

「へえ」

 ヱチカは便箋を眺める。

 たしかに、アヲイねーちゃんの字そっくりだ、とヱチカは思った。

 筆跡を真似た人間の神経質な感性や、他人に対する悪意まみれの観察眼がよく出ているように見えて、彼女はゾッとする。物真似が上手い人間特有の心の闇。

 これを書いたのはレインさんだろう、とヱチカは感じた。


 ――沖田レインは、たしかに数日前、ヱチカの実家を訪ねてきた。

「アヲイくんが住所を変えるんだ」と彼女は言った。「それで、昔の持ち物でまた使いたいものがあるから、持ってきてくれと頼まれてしまってね」

「アヲイねーちゃんのモノなんて、この家には、ほとんど残ってないですけど」

 とヱチカは答えた。

 それは本当だ。

 アヲイは一人暮らしを始めるときに、必要なものは全て自分の新しいアパートに持って行ってしまった。

 だから、この実家の子供部屋に残っているのは、ただのゴミだ。

 ――ヱチカちゃんもゴミ?

 レインはヱチカの顔を見て微笑んだ。「じゃあ、お部屋に通してもらってもいいかな? ヱチカちゃん」

 そうしてレインが持ち帰ったのは、アヲイの高校時代の生物、情報、化学、数学そして物理学のノートだけだった。

「あの」とヱチカは訊く。「アヲイねーちゃん、そんな昔のノート、何に使うんですか?」

「彼女は作詞のヒントにするんだって言ってたよ」

 そうレインは答えた。「まあ、詳しいことは僕には分からないけど。歌を歌うだけじゃなくて、自分でも何か創ろうと思うのはいいことさ」

 そう言ってからレインは、不意に意地の悪い笑顔を浮かべて、ヱチカを見つめた。

「お姉さんのこと、好きかい?」

「なんですか、いきなり」

「でも、君はユーヒチくんのことも好きなんだろう?」

 ほとんど唐突に彼女は問いかける。

「そのくらいは僕でも分かることさ、ヱチカちゃんの様子を見ていればね」

「え、え」

「ヱチカ」

 レインの声が低くなる。「アヲイくんはユーヒチくんのことが好きだった。だけど、今の自分の状況では上手く恋愛なんてできないと分かったらしい、彼のことは諦めると話してくれたよ。この僕にね。だから、ヱチカちゃん。もし君が君の優秀なお姉さんに引け目のようなものを感じているのなら、もうそんな遠慮は何もしなくていいんだ。これは伝言だよ」

 ヱチカは臆して後ろに下がる。

 レインは「バンドの仲間たちは肝心のギターボーカルを失って傷ついているが、ユーヒチくんの痛みのほうがずっと重いと僕は感じているよ。ヱチカ、優しい君なら彼に対して何をしてあげればいいか分かるだろう?」と、言った。


 そして今、ヱチカは喫茶店で、レインが偽造したアヲイの手紙を読んでいる。

 ユーヒチが「ヱチカはどう思う?」と訊いてきて、

 ヱチカは「どうって――どんな?」と訊き返した。

「俺には、これがアヲイの書いたものとは思えない。何か違和感みたいなものはないか? あるいは、何か気になる出来事とかなかったか?」

 ユーヒチが平静を装って訊くのが、ヱチカにはおかしかった。

 ――ユーヒチさん、必死。そんなにアヲイねーちゃんが大事?

 むかつく。むかつく。むかつく。むかつく。みんなアヲイねーちゃんに夢中。そんなにアヲイねーちゃんが大事なんだね。天才のカッコいい系女とかみんな大好きなんだへーへーそうなんだウザいウザいウザい。

 嫌い。

 ヱチカのことはどうでもいいの? ヱチカちゃんだって傷ついてるよ。

 凡人だけどさ。

「この手紙」とヱチカは口を開く。「たしかにアヲイねーちゃんのものだと思います。だってずっといっしょに暮らしてきたんだもん、それくらい分かりますよ」

「――そ、そうか」

 ユーヒチの反応が面白い、と彼女は思った。

「ユーヒチさん、フられちゃったんですね?」とヱチカは囁く。「なんにも悪いことしてないのに」

 ユーヒチは、目の下にたっぷりクマのできた、弱り切った表情でヱチカを見つめた。

 あ、その顔、すきかも、とヱチカは感じる。

 やっと分かっちゃった。

 ヱチカちゃんはね、ユーヒチさんの弱いところが好き。

 寂しそうで可哀想な男の人が、まるで自分そのものみたいだから好きなのだとヱチカは分かった。

 だって、

 そういう人は、ヱチカちゃんが優しく甘やかしてあげ続ければ、その間は絶対にヱチカちゃんから離れていかないもん。

 特別だって思ってくれるもん。

 必要にしてくれる。そういう人の前では、ヱチカちゃんはちゃんと天使のふりをしてあげられるよ?

「ユーヒチさん?」と彼女は静かに呼びかけた。

 ユーヒチの返事を待たず、ヱチカは彼の手を握った。

「もう、やめよ?」

「え?」

「アヲイねーちゃんは自分の意志でどっかいっちゃったんだよ。勝手だよ。昔から勝手なとこはあったけど、今回はちょっとあんまりだって思いますよ。こんなことにこだわって、別にユーヒチさんまでつらい思いする必要はないですよ。ね?」

 ユーヒチはヱチカの顔を困ったように眺め続けていた。

 ヱチカはテーブルの下で両脚をのばして、ユーヒチのふくらはぎを撫でる。

「寂しいなら、ヱチカちゃんはいいですよ?」


  ※※※※


 同時刻。

 ガロウはモモコの実家を訪れていた。チャイムを鳴らすと母親が出てくる。

 それは、品行方正を良しとしてきたモモコの母親にとってだが、玄関ドアを開けた先に立っているのが金髪のウルフヘアの男、バンドTシャツとジーンズで身を固めたガラの悪い青年であるということになっていた。

「あの、貴方は――」

 母親が戸惑っていると、ガロウはもぞもぞ「ああ、モモコの友達です」と言って軽く頭を下げた。

 三白眼でキョロキョロとしている。

 ――モモコの友達? モモコにこんな良くない友達がいるの?

「あの、友達ってほんとですか?」と母親が訊くと、

「モモコは二階にいるんですか?」と言い、

 ガロウは靴を脱いで勝手に家に上がった。

「え、あ、あの!」と母親が声を荒げる。「どういうご用件でしょうか?」

「友達の家に遊びに来ちゃマズいのか?」とガロウは答える。「すんません、オレ、教育とかなってないんで態度は悪いですけど、でも、友達なのはホントです。あ、菓子とかは要らねえっす」

「そんな――」

 母親が絶句していると、ガロウはそのまま家の階段を昇っていく。

 せっかく、悪い男なんてつかないようにモモコを大事に育てていたのに、娘はどこであんな人種と関わってしまったのだろうか、と母親は思う。

 思えば、モモコの先輩であるアヲイやリョウだって、大した育ちの良さではない。

 モモコをイジメから助けてくれたから、アヲイに対してうるさく言うことはできないが、その解決方法がただの暴力というのは、まあ野蛮そのもので、モモコの母親にとっては認めがたいものだった。

 そして、そんなアヲイのそばにずっといるリョウという女の子も不気味で、モモコの気持ちが分からない。

 今、モモコはろくに大学に通っていない。一人暮らしのアパートからも逃げて実家に籠っている。

 毎朝ちゃんと注意しても、言うことを聞かない。昔はそんなことはなかったのだ。

 母親の頭に、無駄な不安が募っていく。ガロウの姿。ああいうのと関わっているからダメなんじゃないか、という気がする。

 とはいえ、モモコの母親は、だからといってガロウの不良ぶりを注意して家から追い出すことなど決してできないだろう。あとで実娘のモモコにチクチクと嫌味を言って保育の義務を果たした気になるだけだ。

 要するに、モモコの母親は、ガロウがいちばん嫌うような平均的な日本の母親というわけだった。


 ガロウが部屋に入っても、モモコは顔を上げない。タオルケットを、まるでイスラムの信心深い女たちみたいに頭から被っている。もちろん、ガロウには連中の宗教は理解の外側だったが。

 彼がここに来た理由は至極単純だった。モモコから「助けて下さい」というメッセージがスマートフォンに届いてきたというだけだ。

「何やってんだよお前」

 そうガロウが言うと、モモコは瞳を動かした。

「ぜんぶ、ガロウさんが悪いんじゃないですか」

「やっとオレが悪い奴って分かったか。T大受かるような女でも、要は勉強できるってだけで、頭の中はただのバカなんだな?」

「どうせ私はバカですよ」

「――言い返してこいよ。下らねえな」

 ガロウはモモコの隣、ベッドに腰を下ろす。「何があったよ?」

「チユキちゃんにも嫌われて、友達、みんないなくなっちゃった」

「はぁ」

「せっかく今度は仲間外れにならないように頑張ってきたのに、結局そうなっちゃった。ははは。スクールカウンセラーの先生に、何事も積極的に取り組みなさいって言われて、けっこう頑張ってたんですよ。それとも、いじめられっ子って生まれつきのものなんでしょうか。むかし、アヲイ先輩に――」

 アヲイ先輩に助けてもらったのに、無駄にしちゃった、とモモコは言った。

「どうすればいいですか」

 彼女はそう訊いてきたが、

「オレが薄っぺらい女同士の友情なんか分かると思ってんのか?」

 とガロウは言い返した。

「知らねえよ。そんなもん。下らねえもんにこだわりてえなら、下らねえ頭になっとけよ」

「最低」

 モモコはそっぽを向いた。「やっぱり、ガロウさんって最低なんですね。女の子のこと、人として尊重してないです」

「だから、オレが最低なのはずっとオレが言ってるだろうよ!」

 イライラしてきて、彼はそう言った。それから、部屋の奥に打ち捨てられているあのときのギターを見つける。

 水色のFenderのDUO-SONICだ。

「練習してんのか?」と訊いた。

「は?」

「ギターだよ」とガロウは言う。

 モモコは自嘲的に笑った。

「こんな状態でできないですよ。私、私、頑張れば女の子たちの輪に入って普通になれるって思ったんです。本当ですよ。だからガロウさんみたいな、女の子を消費するだけの男の人って、許せなかったのにな」

「バーカ」

 とガロウは言ってから、それこそが自分の本心だと気づいた。「モモコ、お前、ほんとにバカなんだな」

「はぁ?」

 モモコは顔を上げる。「いい加減、怒りますよ」

「ギターの練習より大事なもんなんかこの世のどこにもねえんだよ、アホが」

 ガロウは再び言い返す。だんだんムカついてきた。

 そして、黙ってエレキギターをエフェクターとアンプに繋いだ。

「モモコの親は、騒音とか気にするのか?」

「ママ? ええ、けっこう口うるさいです」

「――まあ、知ったこっちゃねえけどな!」

 ガロウはギターの弦をかき鳴らした。

 ああ、やっぱこの爆音だ、と思える。

 モモコが顔を上げて、動きを止めた。

 ――何だよ、やっぱイイんだろ? この喧噪がよ。

 どいつもこいつも毎日うるせえんだよ!

 ギターに身を任せてる瞬間だけ人生だ!

 ――ガロウはLinkin ParkのNumbを弾き始めた。


  ※※※※


 ユーヒチの弱々しい言葉を押し潰すような勢いで、ヱチカは彼を街中に連れ回した。

 たぶん、ユーヒチさんは、このアヲイねーちゃんの手紙が偽物だってことをほとんど確信してる。それでも、そんなアヲイねーちゃんの妹であるヱチカちゃんに抵抗する気力はぜんぜんないんだね。

 かわいい。弱くて。

 ヱチカは楽しくなってきた。こんな弱くて可愛い人、鈍感なアヲイねーちゃんじゃもったいないよ。

 ヱチカはユーヒチを寂れたカラオケ店に招き入れた。

 性暴力。

 そんな三文字がヱチカの頭に浮かぶ。

 そうだ。私は、私じゃなくてアヲイねーちゃんばっかり贔屓しているこの世界をメチャクチャにしてやりたいんだ。やっと分かった。

 クリアな欲望は理性をクールにしてくれる。

 ユーヒチはカラオケのソファに腰を下ろす。当然ヱチカは隣に座った。

「ユーヒチさん?」と彼女は耳もとで囁いた。

「え?」

 ユーヒチは戸惑っている。

 ヱチカは彼の手を握って、ゆっくりと自分の胸を触らせた。

 あ、そうだ。

 アヲイねーちゃんに勝てる数少ないもの。

 おっぱいの大きさだったよ。

 アヲイねーちゃんのカラダ、男の子みたいだもんね。

「いいですよ?」

「――できない」

「ヱチカちゃんのこと嫌いなんですか?」

「そうじゃない」

「じゃあ、いいじゃないですか」

 ユーヒチさんは、ずっと頑張っていて寝不足で、きっとアヲイねーちゃんを助けたいっていう意志の強さだけで動いてる。

 ――ばっかみたい。笑えちゃう。

「ここのカラオケ店、そういうことしても平気なんですよ?」と言いながら、ユーヒチの鼻の頭に自分の鼻をこすりつけて、至近距離になる。

 こういう空気で、どうすれば男の人が抵抗できなくなってしまうのかを、ヱチカはよく知っていた。自分の雌の体を押しつけて、動物にしてしまえばいい。

「何してもいいですよ? ヱチカちゃん、ユーヒチさんのこと好きだから」

 そしてユーヒチにキスすると、両足を持ち上げて、ユーヒチの股の間に絡めてみせた。

 ユーヒチはやがて、ヱチカの背中に右腕を回した。

 きたきた。

 ヱチカはぼーっとしてくる。こんな風にして、男の人と触れ合っている時間は、自分が惨めな妹であることを忘れられる。

「ユーヒチさん」と、ヱチカはもう一度呼びかけた。

「しよう? ねえ、しよ? ヱチカちゃんも優しくしてほしいな」


 五秒後、ユーヒチは左腕をヱチカの肩に置いて、ゆっくりと引き離した。

「ごめん」と彼は、苦しそうに、残りわずかの力を振り絞るように言った。

「なんで」

 ヱチカは訊きつつ、そんな答えは聞きたくないという気持ちになってくる。

 いやだよ。――ユーヒチさんまで、私のことを否定しちゃわないで――。

「俺、は」

 ユーヒチは言った。「アヲイのことが好きなんだ」


  ※※※※


 いやああああああああ! みんなキライキライキライキライ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ!

 とヱチカは思った。


  ※※※※


 ガロウに促されて、ギターの音に合わせてモモコは叫ぶように歌う。それと同時に、ずっと離れた街の小さなカラオケ店で、ヱチカはテーブルのマイクを掴むと、目の前のユーヒチに投げつけた。

 そうして二人の少女は、十数年来の幼馴染だったが、お互いがそんな状況にあることを全く知らなかった。

 ユーヒチは顔を押さえながらうずくまる。

 ヱチカはその背中を、小さな拳でぱしっぱしっと叩き続けた。

「なんでアヲイなんだよ!!」

 防音設備は完璧だ。ヱチカの怒鳴り声は問題にならなかった。監視カメラ越しに部屋を見ることができる店員も、若いカップルの痴話喧嘩をいちいち止めたりはしなかった。

 そんなものに関心を持つ余裕なんか誰にもないのだ。

 俯くヱチカの瞳からぼたぼたと涙が落ちると、ユーヒチのシャツ、肩のあたりに染み込んで消える。

「なんで、みんなアヲイねーちゃんのほうがいいの!」

 父親はアヲイにばかり期待した。

 母親はアヲイにだけ嫉妬をした。

 そしてアヲイねーちゃんは、家を出た。

 大して机に向かわないままW大に受かってプラプラしている姉を見ていると、真面目に勉強するのもバカらしかった。

 色んな男の人と付き合った。男の人と付き合っているときだけは自分が必要とされていて気持ちよかった。最後は自分が飽きるか、もしくは相手が耐えられなくなった。

 私は別にユーヒチさんじゃなくてもいい。たまたまアヲイねーちゃんも一緒に好きになったから、ムキになっただけだ。

 なのに、振られると結局傷つくのがヱチカの心だ。

 彼に拒否されて、初めて、もう自分は限界なのだと分かった。

「誰でもいいよ」

 ヱチカは呟いた。カラオケ画面からつまらない新曲の宣伝が聴こえる。

「誰でもいいから、アヲイよりヱチカが良いって言ってよ――」

「ごめん」

 ユーヒチが顔を上げる。投げつけられたマイクの角で額を切ったらしい、血を流している。

「俺も、なんでアヲイが好きなのか分からない」

「じゃあいいじゃん! ヱチカでいいじゃん! どうして私じゃダメなの!?」

「ごめん」

「順番だってヱチカちゃんが先だったのに!」

「うん」

「どうせアヲイねーちゃんもヱチカちゃんも、ナクスさんじゃないんでしょ!? じゃあ、どっちだって同じじゃん!」

 ヱチカは叫んでから、自分の口を手のひらで覆った。

 ――ナクスさん?

 誰のこと?

 ユーヒチの目つきが少しだけ変わった。

 彼は自分のバッグを手元に引き寄せた。ヱチカは、その様子を見ながら、

「あの、私、今なんて――」と、思いついた言葉を順番に吐き出していく。

「ヱチカ」とユーヒチは額の血を拭った。

「その手紙は、アヲイが書いたものじゃないだろ? ヱチカは嘘をつきながら笑うときに、左の瞼だけ強く閉じすぎるんだ」

「えっ?」

 彼は野球帽を被った。それは、アヲイのトレードマークだった。

 ヱチカは我に返る。「あの、ユーヒチさん、血――」

「大丈夫」

 ユーヒチは笑って、ふらふらとカラオケルームを出ていこうとした。

「待って」

 彼女が呼びかけると一度だけ振り返り、

「ヱチカのお姉さんは、俺がなんとかする」

 そんなチグハグの答えを残して、去って行った。

「待ってよぉ」

 ヱチカが呟くと、あとはカラオケが最近の選曲ランキングを紹介する声だけで、最近ではいちばん売れたテレビアニメの主題歌が流れた。鬼になってしまった妹を助ける清く正しいお兄ちゃんの物語だ。

 強くて、カッコよくて、自分の足で立っている、つまりヱチカとは何の関係もない女性の歌う歌だった。

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