第9話 破滅的なデベロッパ
※※※※
撮影会のあと、インタビュー前の昼休憩。
西園カハルは個別休憩室で、やっと鷹橋リンドウの弁当を食べ終えていた。
「野菜が多すぎる、マジで――嫌がらせか」
カハルは生育環境のせいか、あるいは遺伝のせいか、二十歳になった今でも味覚が子供のままだ。苦いのや辛いのは少しも全く受け付けない。酒だって甘くないと駄目だ。唯一受け入れられるのは煙草の苦味だった。
それでも、全て食べないと小言を言われるのが癪だから全て食べる。
――リンドウはほとんど壊滅的な生活習慣のカハルに食事を用意し、部屋のゴミを拾い、ときどき彼女が忘れたまま放置している電気料金やガス料金や水道料金の請求ハガキを発掘してくれていた。
彼がそんな作業をする間は、カハルは机に向かって、黙々と次の曲のアイデアをノートに書きつけていた。最初のうちは気後れして、
「いいよ、悪いって。アタシがあとでやるよ」
と抗弁したのだが、リンドウはそういうときは頑固に、
「カハルは、音楽のことだけ考えてればいい」
と言って、作業を続けた。
そしてダラダラと二人はそんな感じで暮らして、ときどきメンバーの水島タクヤを交えて三人で酒を飲んで、練習して、演奏を披露して、気が付くとこんな大手の事務所でカハルはリンドウの弁当を食べている、というわけだ。
大学の音楽サークルで出会ったリンドウが、当時から問題児のカハルになんでそこまで尽くすのか。
それについては、深く考えないようにしている。もっと考えるべきことがあったからだ。
音楽のことだ。
リンドウが「音楽のことだけでいい」と言った事実を、カハル自身はリーダーとして裏切るわけにはいかない。
カハルの頭には『ザ・ウォール』でギターをかき鳴らすアヲイの姿があった。
あれはなかなか良かった。もしアヲイがネットの誹謗中傷で風評を堕としていなければ、西園学派との順位は逆だったかもしれない。
――もっと良い曲をつくるんだ。リンドウとタクヤの演奏に恥じないように。アヲイに負けないように。
カハルはそう考えていた。
そうして、空っぽになった弁当箱を保冷バッグに戻し、先にインタビューの場所を見ておこうと部屋を出た。
――変だった。
妙に騒がしい。スタッフが駆け足で廊下の向こう側から来たり行ったりしている。
――いったいなんだ?
マネージャの吉田が向こうから歩いてくる。
「カハル!? カハルは無事なの!?」
そう言って吉田がカハルの両肩を掴んできても、彼女にはどういうことなのかさっぱり分からない。
「何の話ですか?」
「ああ、うん、無事ならいいの。良かった。ことがことだから、もしカハルの身にも何かあったらって、ずっと心配で」
吉田がこんな風に捲し立てるのは初めてだ。顔に血の気がない。
「いや、ちょっとワケわかんないんですけど」
カハルが素直に混乱を伝えると、吉田が呼吸を整えてから、
「インタビューは中止になるわ」と言った。
「ハァ?」
「――感傷的なシンセシスの九条アヲイさん、このビルの侵入者に突き飛ばされて階段を転げ落ちて、今ちょっと病院に搬送されちゃってるの」
そう吉田は説明する。
「幸い、っていうか、ほとんど奇跡的なんだけど、大きな怪我とか全然ないみたい。だけど、頭に外傷がないのに意識が戻らなくて。打ちどころが悪かったのか、もうどんな事態になってもおかしくない!」
「――なんだ、そりゃ――」
カハルは、自分の思考が一瞬停止したのを感じる。
「犯人は」とカハルは言う。「犯人は捕まったのか。アヲイ突き落としたそいつはどこなんだよ!?」
「まだ見つかってない――」
そう答えながら、吉田は泣いて抱きついてきた。
「カハルが無事で良かった。本当に良かった。これでカハルまで酷い目に遭ってたら、私、どうすればいいか分からなくて!」
何が良いんだよ、とカハルは思った。泣き喚く吉田の頭を撫でながら、彼女は歯を食いしばった。
ふざけやがって、とも思う。
※※※※
「縺ェ繧峨¥」駅のホームには長いエスカレーターがあり、そこを抜けてさらに歩くと改札に辿り着く。
アヲイはエスカレーターを降りたその踊り場で、うずくまって泣いていた。頭の中では、既に二年もの時間が経ってしまっている。
「もうイヤだ」と彼女は言った。「もう、何も知りたくない」
これから、どんなツラを下げてリョウと会えばいいんだよ。
ずっとその場に留まっていたいと考えもする。だが、それでもアヲイは電車を降りる前に聞いたナクスの言葉を思い出していた。
そのままだとかえれない、と言っていた気がする。
――私は、理由はともかく歩かなくちゃいけない。
アヲイは震える両ひざを殴りながら、ゆっくり立ち上がると改札に向かって歩く。
※※※※
アヲイは目を覚ますと、すぐ「暑い」と感じた。そこは中学校校舎の屋上で、アヲイは体育座りで校庭とは反対側を眺めながら意識を落としていたらしかった。日差しが首筋の後ろ側にジンジンと当たる。
知らない校舎だった。
制服も見覚えはない。立ち上がると、Yシャツにズボン姿だった。
――アヲイが元々の世界で通っていた中学校は、女子は全員スカートの制服を命じられていた。もちろんアヲイはその頃とっくに不良だったから、言うことを聞くつもりもなく、それらしい黒パンを履いていた。
何度かは生活指導で問題になったらしいが、それでも卒業までアヲイはズボン制服で過ごしていた。
どうやら、LGBTがどうとか言いたがる意識高い系の教師が勝手に勘違いして庇っていたらしい。
実際には何の関心もないくせに。
――けれど、いま身に着けている制服は、アヲイが覚えているものとは違う。
「ねえ」
屋上の、さらに上から女の声が聞こえた。アヲイは給水塔のほうを見上げる。
アヲイは給水塔の隣に立つ少女を見上げ、次にポケットのスマートフォンで年月時刻を確認した。
平日で授業中のはずだった。
アヲイは、少女に「お前もサボり?」と訊いてみた。
少女はアヲイのほうをにこにこ笑いながら見下ろし、
「もっと、だいじなことしてたの」
と答える。
「何? 大事なことって」
アヲイの質問に対して、少女は手招きする。仕方なく梯子を昇って、給水塔の置かれたブロック、少女の隣に立った。
少女は「まひるのながれぼしにいのると、ねがいがかなうの」と言った。
「え」とアヲイは驚く。「見えないよ、真昼に星は」
「みえるよ、しらないの?」と、少女はからかうように笑う。
「それってさ」とアヲイは言った。「真昼に星は見えないから、流れ星も見えない、人の願いは叶わないっていう教訓みたいな話でしょ?」
「みえる」と少女は答える。「ねがいはかなう。ほんとのせかいにとどけば」
「本当の世界って、なに?」
「――もうしってる。ここじゃないどこか」と彼女は笑った。
「ふうん」とアヲイは感心して、それから「名前、教えてよ。私は川原アヲイ」と握手の手を差し出した。
「しんなぎなくす」と少女は言って、アヲイの手を握り返す。
アヲイは十四才で、ナクスも十四才だった。そんな夏がどんな人間の人生にもあって、それは何年経ったって色褪せることがない。
これは言いすぎだ。
ともかく、アヲイはナクスとよく遊ぶようになった。授業をサボって近場のショッピングモールをぶらつき、ナクスの吸う煙草を貰って最初はむせた。
ナクスの母親は新しい男と遊んでいて、家にはいつも誰もいなかった。
アヲイはその部屋でナクスのギターを渡され、言われたとおり練習した。「良いギターじゃない? これ。ナクスが買ったの?」
「オヤジのギター」とナクスは答えた。「ほんとのオヤジのやつ。アヲイも、ひいていいよ?」
あとで知ったが、ナクスの父親は、数十年前に一世を風靡したアーティストだった。大親友のロックスターの自殺をきっかけに、薬物にハマって、今は三度目の有罪判決を受けて収監されているらしい。
母はそんな父に愛想をつかしてナクスごと逃げ出し、かといって真面目に育児をすることもできなくて、他の男たちと恋に落ち続けて、今は五人目だった。
「でもさあ」とナクスは言った。「おとうさんよりかっこいいひと、いないんだ。みんな、ギターも、うたもへたくそだし、ぜんぜんかあさんをしあわせにしないの」
「そっか」とアヲイが答えると、ナクスは笑顔を晒す。
「わたし、ゆめがあるんだ。いちばんしあわせっておもったときにね、もう、それいじょう、つらくならないように、きれいにしんじゃうの」
そして、アヲイはナクスのギターの腕前を知った。彼女の指は正確無比に、そして大胆に「譜面通り」と「好き勝手」の狭い間でオリジナルな音を奏でていた。
――カハルも、セツナも、ガロウも、そして私も、誰ひとりナクスより上手くなかった。いや、上手いとかじゃなくて、ギターとひとつになって、一匹の血に飢えた豹のように音を出せるのはこの世界にナクスだけだった。
ロックミュージックの歴史を本当に揺るがすべきだった天才は、いちども世の中に出ることはなく、ここにずっといたのだ。
そうして、アヲイは思い出す。
――私は「この世界」でナクスにギターを教わって、そして、だからこそ他の世界でも弾けるようになったんだ。
ナクスがよく弾きまくる曲があって、アヲイもそれが好きだった。
Jimi HendrixのVoodoo Childだ。
Well, I stand up next to a mountain
And I chop it down with the edge of my hand
Yeah
ねえ、あたしはおやまのとなりにたって、
チョップでそれをぶちこわすの
いえーい
Well, I stand up next to a mountain
And I chop it down with the edge of my hand
Well, I pick up all the pieces and make an island
Might even raise a little sand
Yeah
ねえ、あたしはおやまのとなりにたって、
チョップでそれをぶちこわすの
でね、ぜんぶあつめて、しまをつくるんだ
すなもちょっともりつけたりして
いえーい
‘Cause I’m a voodoo child
Lord knows I’m a voodoo child, baby
だって、あたしはブードゥーチャイルド
かみさまはしってる、あたしがブードゥーチャイルドだって
I want to say one more last thing
I didn’t mean to take up all your sweet time
I’ll give it right back to ya one of these days
HaHaHa
さいごにひとこといいかな?
あなたのすてきなじかんを、とっちゃうつもりはなかったの
だから、そのうちかえすね
あはは
I said, I didn’t mean to take up all your sweet time
I’ll give it right back one of these days, oh yeah
Oh yeah
あなたのすてきなじかんを、とっちゃうつもりはなかったの
だから、そのうちかえすね
おー、いえーい
If I don’t meet you no more in this world
Then I’ll meet you in the next one
And don’t be late
Don’t be late
このせかいで、もうあなたにあえないなら、
じゃあ、らいせにするね
だから、おくれちゃだめ
おくれちゃ、だめだよ?
‘Cause i’m a voodoo child voodoo child
Lord knows I’m a voodoo child, baby
Hey hey hey
だって、あたしはブードゥーチャイルド
かみさまはしってる、あたしがブードゥーチャイルドだって
あはっははは
I’m a voodoo child baby
I don’t take no for an answer
Question no
Yeah
あたしはブードゥーチャイルド
だめだなんていわないで
しつもんはナシ
いえーい!
そして、アヲイがナクスのギターの足下に及んだその翌日、それは高校二年生の夏、彼女は大通りに飛び出て車に跳ねられて死んだ。
彼女と出会ってから三年後のことだった。
あとは簡単だった。ナクスにもう関心のない彼女の母親が病院に現れると、ナクスの脳死判定に簡単に署名を済ませた。そしてドナーカードの記載に従って、ナクスの体は切り刻まれた。
手術室に入るまで、ナクスの心臓は動いていた。
アヲイは半狂乱になって「生きてるだろ! 生きてるだろ!」と叫んだ。
――それがアヲイに流れ込んできたユーヒチの記憶だった。
※※※※
「縺ェ繧峨¥」駅の出口改札の、すぐ手前。
アヲイは油断すると過呼吸になりそうな首筋と胸元を押さえながら、よろける足下で出口に辿り着こうとしていた。
彼女の脳に注ぎ込まれていくユーヒチの悲しみが、勝手に涙と鼻水を垂れ流させていく。バチバチバチッ、と頭の奥で火花が弾けた。
「『俺は』」とアヲイは声を漏らした。
「『もうナクスがいないのに、なんで、まだ生きてるんだろう?』」
改札まであと一歩、というところで彼女は体のバランスを崩して倒れ、四つん這いになる。さっき自分の口を突いて出たのは、自分の感情では全くない。
ずっとそれを抱えてきたユーヒチの感情だ。
何が、ユーヒチに助けてほしい、だ。クソ。
私は、じゃあ、ユーヒチを助けられるのか?
「う」
逆流した胃液を、なんとか留めようと右手で口もとを押さえるが、耐えきれず、指の間から大理石のタイルの上にボタボタと吐き出す。
本当に悲しいとき、人は嘔吐するのだ。
「――げえええええ」
視界がぼやけた。
私は大好きなユーヒチの痛みにさえ気付けなかったんだという気持ちと、ユーヒチは私にナクスのことを何も喋ってくれなかったじゃないか、という気持ちで頭がグラグラと揺れていく。
やがて、アヲイは意識を失い、改札機のへりに指をかけたその指がずるずると力をなくしていき、地面に落ちていく感覚のなかで倒れ伏した。
そうして眠ったアヲイの姿を、
すぐそばに立っていたナクスは悲しく見つめていた。
アヲイはもう起き上がらない。
もうダメなのだ。
「ほらね」とナクスは呟いた。
「ユーヒチがそばにいてあげないから、どんどんひどいめにあっちゃったよ。アヲイが」
※※※※
ミチルは、素っ裸のままベッドの上でスマートフォンをいじっていたが、不意に起き上がり、
「やばいかも」
と声を出した。
デスクで作業をしていた佐倉タカユキと、ソファで詩集を読んでいたその兄ユキナガが、ミチルに向き直る。
二人は同時に「どしたん? ミチル」「なんかアカンか」と訊きながら、ミチルの両脇に腰を下ろした。
彼女は「これ」と言って、スマートフォンを見せた。
ツイッターの投稿で、大学病院に搬送されていく一人の女の子が遠巻きに撮影されている。同行しているのは、前に見たことのある、マイヤーズミュージックの職員だ。
そして、次の投稿。
初台オペラシティビルの長い階段の下で女の子が倒れている。
ミチルがスマートフォンをピンチアウトして画像を拡大してみせると、その少女はシンセシスの九条アヲイだと分かった。
「はぁん?」とタカユキは声を上げる。
画像に添付されたテキストはこうだ。
『いま女の子が突き落とされた。犯人は逃げてるって。マジでヤバい!』
「――撮っとるヒマあるかい、このボケが。ハゲワシと少女ちゃうぞ!」
タカユキが声を荒げると、兄のユキナガが顔を寄せる。
「ハゲワシに狙われた少女はフェイクやったけど、アヲイが突き落とされたんは本当みたいやなあ」と感想を述べた。
ミチルが「何が起きてるの?」と二人に訊く。
タカユキはゆっくり立ち上がる。「知らん。お騒がせの王子様がまた何かやらかしてん。しょーもないわ」
ユキナガは彼女の肩に腕を回す。「怖いか?」
「うん、怖い」
ミチルはそう答えた。「こんなこと、普通に起きちゃうんだなあって」
「ミチルが痛んだのとはちゃうやろ?」
彼はそう囁いて抱きしめ、弟のタカユキを見つめた。
「おいタカユキ、今ミチルが情緒やわ。また二人で慰めてやらなアカン」
「へいへい」
タカユキは服を脱ぐ前に、いったん眼鏡を外す。
「ミチルちゃん、ええか?」
――この世のだいたいの不安や心配ごとはオメコしとけばパーにできるわ。なんでそれ知ってて、どいつもこいつも、いちいち世の中のこと怖がんねん。アホらし。金にならんことなんか全部ザーメンとアクメ汁に溶かしてサヨナラしとけや。
それとも、女という生物には、タカユキの知らない恐怖が世界に溢れているように見えるのだろうか?
――どうでもええわ。バカが。
そうして、いつもどおりの3Pが始まる。兄のユキナガがミチルに咥えさせながら、タカユキは彼女の股に顔を突っ込む役だ。
※※※※
そして、九条アヲイは現実で目を覚ました。
「――は?」
頭の中では、おおよそ五年と三ヶ月が経過している。自分がどこにいるのか思い出せない。それに、自分が何者なのかも分からない。
アヲイは病院個室のベッドで横になっていた。栄養失調を心配されたのだろう、左腕に点滴も打たれている。
上半身を起こすと、病室に、自分以外に人間がいることが分かった。
まず、部屋の隅にうずくまるようにして、篠宮リョウが眠っていた。趣味っ気のない毛布を肩にかけている。おそらく、病院から貸し出されたものを被って体を冷やさないようにしているのだろう。
そして向かいのパイプ椅子に、おかっぱ頭の眼鏡の女が座っている。
斉藤ネネネだ、と分かった。キラークラウンのリーダー兼ドラム担当。
彼女はアヲイを見て、「起きたの?」と言って本を閉じた。書物のタイトルは『ビル・ブルーフォード自伝』だった。
「アヲイさん、ちょっと待っててね。いま病院の人を呼んでくるから」
「そんなのどうでもいい」
アヲイが答えると、ネネネは振り向く。
「どういうこと」とネネネが訊くと、
「私の名前は?」
アヲイはまず自分が知りたいことを順に訊いていく。
「名前って――アヲイさんでしょ?」
「名字は?」
「九条だったと思うけど。もしかして、起きたばかりで混乱してる?」
アヲイはベッドから足を降ろして床に触れた。そうか、この世界では九条だ、と思う。
「ネネネ」とアヲイは呼んだ。「ここは病院だと思うけど、なんで私の病室にいるの?」
「シシスケに頼まれたんだよ。あいつ、こういうときは人遣いが荒い。別に私はもうシシスケとは何の関係もないのに」
「えっ、知り合いだったの?」とアヲイは訊く。その言葉に、ネネネは頭をぼりぼりとかいてから振り返った。
「まあね」
「だけど、シシスケが見守ってくれてても同じだと思う」とアヲイが呟くと、ネネネは肩を落とした。
「あいつは堅物だから、女の子が昏睡している部屋に男を入れるのが嫌なの。自分自身のことも含めて、だけど。だから、私のことを呼んだわけ。まあ、リョウさんだけだと保たないっていうのは分かってたし」
リョウ。
とアヲイは思った。現実のリョウは、毛布にくるまって眠ったままでいる。
ネネネは息を吐く。
「いやあ、びっくりしたよ。あなたが病院に搬送されたと知ってから、ずっと、そこで見守ってた。私が来て、寝ろって言わなかったら、死んじゃってたかも、だよ。まったく大した友情ってやつ?」
友情?
アヲイは分からなかった。
リョウが自分に抱いている感情は、きっと現実の世界でも、友情ではないだろう。
それは覚えていた。
罪悪感で胸がネバネバしていった。
アヲイは左腕から点滴の針を抜く。途中でネネネが「ちょっ、何してんの?」と言ってきたけれど、それはあまり関係ない。
私の体に要らないものは要らない。
とにかく、いまリョウが目を覚ましたら、私はどんな顔で言葉を交わせばいいか分からない、というのがアヲイの気持ちだ。その前に行動したかった。
――リョウの愛に私は何も返せていない。私はダメ丸出しなんだ。もう、会って話すのだって辛い。
アヲイは病室の簡易ベッドを降りて「服と、あと、荷物はどこ?」とネネネに訊いた。
ネネネが指差した荷物置き場からバッグを取り出し、着替えて、野球帽を頭に被った。
「私は、どのくらい寝てたの」と訊く。
ネネネは首を振った。「アヲイが階段から落とされてからだいたい丸七日くらいだけど。その間、みんな大変だったんだ。西園カハルだって朴セツナだって、皆信じられないくらい取り乱しちゃってて」
――たった七日!?
とアヲイは思った。
頭の中で過ぎていた五年間は、リアルではたった七日なのだ。何だよそれ。
「――ははは」
頭痛がする。
アヲイは今すぐ自分のアパートに帰ろうと思った。とにかく、現在、感じているこの世界が現実であることを確かめないと、また脳ミソがおかしくなりそうだった。
アヲイが病室を出ようとすると、ネネネが「とりあえず皆には目を覚ましたって連絡しとくよ」と言う。
連絡? そうだね。
※※※※
ここ数日の三島モモコといえば、彼女とチユキとの共通の知人や友人たちから、ぽつぽつと絶縁のラインが届くか、黙ってブロックされていることに気付くか、そうした出来事が断続的に起きていた。
「あの噂ってマジなの? モモコ」と同じサークルのメグちゃんに言われたので逆に「噂って?」と訊き返すと、
「とぼけてんじゃねーよ!」と返信が来て、そこから既読がつかなくなった。
――話にはだいぶ尾ひれがついていて、チユキの彼氏だったバンドマンをモモコが寝取った、と解釈している子もいた。
たぶん、チユキがわざと自分寄りの嘘をついたわけではないだろう。噂を広めようとしたわけでもないと思う。
そういう子ではない。
――結果的に似たような事態を引き起こしたとしても。
チユキの相談に乗った相手が、彼女の話の曖昧さに釣られてか、あるいは面白おかしさのためか、もしかしたら正義感ゆえに、話を脚色して、それの収集がつかなくなっているのだ。
と、モモコは分析することで自分の冷静な部分を保とうとする。
「そんなの誤解だ」と言い切れればいいのに、肝心のところは事実でしかないわけだから、モモコも対応が分からなかった。
――チユキちゃんがガロウさんを好きだったことも、ガロウさんがチユキちゃんを振ったことも、私がそんなガロウさんとここ最近まで仲良くしてしまっていたことも、全部本当なのだ。
新しくラインが届く。同じサークルでゼミもいっしょのアーちゃんだ。
「私、友達けっこういたんだ――」と、モモコはぼそっと呟く。
アーちゃんは「ごめんね、よく分かんないけどさあ。皆からモモコとはもう喋んなって言われちゃって。ちょっと色んな子がカッカしてるし、ほとぼり冷めるまではそんな感じでよろしくね?」と送ってきた。
モモコは「あ、ううん、気にしないで。皆も間違ってるんじゃなくて、なんか話が少し独り歩きしちゃってるみたいっていうか。まあ、私のせいなんだけどね。チユキちゃんとも、あとでちゃんとお話するつもりだよ」と送信した。
既読はつかなかった。
自分が先ほど送った文面の必死さを見て、モモコは自虐的に笑った。
「え、これ、どうしよう」
モモコは呟いた。
履歴を再見する。ボランティアサークル副幹事長の藤森さんからのメッセージだった。
《チユキちゃんは何日も女子大のほう休んでるみたいだけど。モモコ、どうしちゃったの。こういうトラブル起こす子だって思ってなかったよ。正直ガッカリしたな。下半期の会費は要らないから》
藤森さんはカッとなるタイプで、こうなったら、幹事長の田中先輩だって気弱に言うことを聞くだろう。
「どうしよう、どうしよう」
モモコは、自分の呼吸が浅くなるのを感じながらチユキにもういちどメッセージを送る。
《チユキちゃん、お願いします。もういちど話を聞いてほしい。返信待ってるから》
既読はつかなかった。
――チユキも女子大に通わなくなっているらしいが、モモコもそういえば、ここ数日は全く大学に通えていなかった。
お父さんが頑張って稼いでくれた学費を、色恋沙汰でグチャグチャに無駄にして、心を削られて、友達が離れていくことに消耗している。そしてそれが今の私なんだ。
「――なにか、食べよう」
モモコは自分にそう言い聞かせて冷蔵庫に向かい、冷凍パスタを取り出して皿に載せる。
スマートフォンが震えた。
――チユキちゃん!?
モモコはカルボナーラをその場に放り出して、ラインの画面を表示させた。チユキちゃんではなく、同じサークルのルミちゃんからのメッセージで、
《消えろクソ女》
と書かれていた。
「――え、えっ」
モモコの手からスマートフォンが落ちた。
動悸がしてくる。
「――どうしよう、どうしよう、どうしよう。違う。そんなつもりじゃないの。誤解だって。どうしたら分かってくれるんだろう。皆。ねえちょっと違うんだって。信じてよ私のこと少しは」
モモコの頭では、小学生の頃、同級生にイジめられていたことがフラッシュバックしていた。
そうだ、あのときもモモコは、クラスのボス猿女の好きだった男の子がモモコに優しくした、という、それだけの理由で迫害された。
どんな風に解決したんだっけ。
アヲイ先輩が助けてくれたんだ。カッコよく。
でも、もう私たちは、アヲイ先輩が他人を殴ったり蹴ったりして解決するような年齢じゃない。そういう単純な解決が許されるような世界ですらない。
それにアヲイ先輩はこの七日間、ずっと眠り続けているのだ。
「どうしよう――」
モモコはラインの宛先に、ガロウを見つけた。
「私、どうしたらいいですか?」
そう呻いてメッセージを途中まで書き、消し、書き、消す。
ガロウさん、助けて下さい。と思いながら、
「――全部あなたが悪いんじゃないですか!」
そんな風に金切り声を上げ、モモコはうずくまるしかない。
※※※※
アヲイが病院の1Fまで降りると、入院患者用の食堂入口に、ガロウとシシスケが立っていた。
ガロウは「おい、寝てなくて大丈夫か」と訊いてきた。
アヲイは「むしろ、寝すぎて頭痛いや」と答える。「精密検査とかは問題なかったって聞いたよ。家に帰る」
そうして周囲を見渡した。病院には色んな人がいるのが分かる。
――そういえば、病院が嫌いだったせいでほとんど来たことがないから、知らなかったんだ。
老婆の車椅子を押す夫らしき老人がいたり、色塗り絵本で暇を潰している、全身の膨れ上がった小さい子供がいたり。不安そうに椅子に座る年若い男性を、隣でずっと励ますように雑談をくっちゃべる同い年くらいの女性がいたり。
病院は、父さんと母さんを助けなかったから嫌いだ。とはいえ、病院を責めるのは変だったのかもしれない。
教会と同じくらい、病院には、人間の生まれる瞬間も死ぬ瞬間もセックスの苦楽も詰まっていて、つまり人生そのものだった。
アヲイが「ユーヒチは?」と訊いてみると、
シシスケが「ここにはいない」と答える。
「あいつは買い物中だ。まあ、リョウがテコでもアヲイの部屋から動かなかったし、二人ぶんの日用品も含めて、諸々の雑用係、だよ。それに病院の手続きもな」
「そうなんだ?」
「今後に関するマイヤーズミュージックとの交渉も、事件捜査協力も、プロデューサーと付き添いのメディア対応も、今あいつがだいたい全部やってくれてるような状況だ」
シシスケが説明してから軽く溜息をつくと、ガロウも呆れたようにアヲイを見た。
「そんなのオレらに任せとけって言ったのに、ユーヒチの野郎はよ、『面倒事は俺が引き受けるから、アヲイをちゃんと静かに寝かせてあげてほしい』だってよ」
あんなの、まるで――。
と、ガロウは言いかけてから口をつぐんだ。
アヲイには、ガロウの言いかけてしまったことは聞こえなかったが、思っていることは分かる。いつもの体質だった。
《あんなの、まるで、不安や悲しみで爆発しそうになっているのを、無理に自分を忙しくして抑え込んでいるみたいだった》
ガロウは今のユーヒチにそういう印象を抱いているのだと分かる。
アヲイは「そっか、分かったよ」と答えた。「ユーヒチには早く私が起きたって伝えて」
「当然だ」とシシスケが答える。「ユーヒチはこの七日間、ほとんど寝ずに動き回ってる。そろそろ休ませとかないと今度はあいつが入院沙汰だ。アヲイの退院手続きはこっちでやっておく」
「サンキュー、シシスケ」
アヲイは答えながら「あれっ?」と思った。
――私、今、ユーヒチに会えなくてホッとしてる?
何でだろう。
ずっとユーヒチを見つけたら駆け寄って、話して、一緒にいたいって私は思い続けていたはずなのに。今はあんまりそうじゃない。
会いたくない、ってわけでは決してなくて、会うのが怖い。
何を話せばいいんだろう。
――ユーヒチにどんな顔で会えばいいんだろう。
ユーヒチのことが好きか?
うん、好きだ。
結婚したいか?
したい。したいっていうか、するって決めてる。
じゃあ会いたいの?
――よく分からない。
会いたいけど、会ったときに、会う前よりも寂しい気持ちになってしまうような気がして私は怖くなっている。
頭痛がしてくる。
難しいことは、もう考えたくない。つらいことはもうイヤだ。
「じゃ、あとはお願い」と言ってアヲイがその場から離れようとすると、
「待って! 待ってください!」
と、女の子の声が聞こえた。病院着で、頭髪を綺麗に剃られた中学生くらいの少女がアヲイの隣に駆け寄ってきた。
「あの、感傷的なシンセシスのアヲイさんですか!」
「え? うん」
「すごい! わっ私! ファンなんです!」
少女は抱えていたスケッチブックをめくった。
「アヲイさんの歌聴いて、元気でてきて! この前の治療も薬が重くなってメチャクチャ大変だったけど頑張ったんですよ、私っ! すごい、会えるなんて!」
「そうなんだ」
アヲイはこんな場所でファンを見つけて、嬉しかった。
「病気、頑張ってね――って、もうとっくに頑張ってるよね。ごめん」
そうアヲイは答える。
「いえいえ、頑張ってって言って下さい! もっと頑張ります! それで、あのサインとか――お願いしてもいいですか?」
「ああ、いいよ」
少女の熱い視線に負け、アヲイは彼女から油性のマジックペンを受け取り、自分の本名を書こうとする。
あれ。
手が止まる。
アヲイは少女の目を見て、
「ごめん、私の名前、なんだっけ?」
と訊いた。
※※※※
同時刻。
ユーヒチは新宿のファミリーレストランで昼食をとっていた。
――病院のベッドで眠っているアヲイの姿は、ユーヒチには、かつて治療室で横たわっている死に際のナクスにほとんど重なって見えてしまっていた。
ナクスは俺が見守る中で、彼女の母親に脳死判定の同意サインを書かれて、その体をバラバラにされてこの世から消えた。
数日前まで、あんなに、野良猫みたいに動き回っていたのに。
俺といっしょにいたいと言ってくれていたのに。
そんな思い出が甦ると、ユーヒチはもう、これから起こるだろう対外的な面倒事を全て引き受けて動き回ることに決めていた。
とにかく体を動かして、何も深いことは考えずにいたかった。ユーヒチが事務処理にさえ協力していると、社員がコーヒーを持ってきて、
「ほんとは君の力を借りるのも、おかしな話なんだけどな」と言った。「アヲイのそばにいてやるべきだとは思わないのか?」
「リョウがやってくれてますよ。俺はとりあえず、何かしてたいです」
と答えた。それは本音だった。
眠り続けるアヲイをリョウは黙って見つめ続けて、手を握り、呼吸を確かめ、「アヲイ、そろそろ起きる?」と語りかけていた。そして力尽きると、ネネネと交代しながらすぐそばで毛布にくるまって寝ている。
――リョウは強いな、とユーヒチは思う。
ナクスが死んだとき、ナクスのそばに居続けて、結局彼女が死んでしまったという出来事を俺は繰り返したくないんだ、だからアヲイのそばに居続けることができない、とユーヒチは感じていた。
そうこうしているうちに、五日ほど経って、アヲイを突き落とした寺田ジュンは警察署に出頭した。
不思議と、彼女への憎しみは湧かなかった。ジュンは聴取室で泣きじゃくりながら「自分でもどうしてあんなことをしてしまったのか正直分からない。ここまでするつもりは全くなかった」という旨の告白を続けた。
聴取控室、でっぷりと太ったベテランの担当刑事は眉間を掻きながら、ユーヒチを見る。
「まあ、細かい事実確認はアヲイさんが起きて、ちゃんと落ち着いてからって話になるでしょうけどね」
「そうですね」
「――川原くんは随分冷静ですね」
「別に俺が感情的になって彼女に怒鳴っても、アヲイが目を覚ますわけじゃないでしょう」
「そりゃ、そうなんですが」
ユーヒチはジュンをしばらく観察してから、控室を出ていこうとした。
「川原くんは」と担当刑事が言う。「少しは休んだほうがいいですよ。あたしから見りゃ、あそこにいるジュンちゃんよりも、君のほうが怖い顔してますよ」
「気をつけます」
ユーヒチはそう答えながら、ドアを閉めて廊下を歩いていった。
そんな風にして、現在、ユーヒチが事務仕事をこなし続けた昼食どきにレストランにいると、ガロウから、
《アヲイが目を覚ました》
そう連絡が来た。
ウェイトレスが軽食を置いていくので、手を挙げて呼び止め、「ビールを下さい」と注文した。
ここ数日はまともに眠れていなかった。酒の量が増えていた。
そうか、アヲイが起きてくれたのか。と思うと、ユーヒチは全身の緊張感が抜けていく。
――よかった。
ユーヒチはテーブルに両肘をついて、手のひらで顔全体を覆っていた。
アヲイは消えていかない。ずっとその知らせを待ちながら疲弊していたような気がする。
ユーヒチは七日前、アヲイの病室を去るとき、
「また、俺を置いていくのか?」とか、
「今度も、俺を連れて行ってくれないのか」とか、
そんな、身勝手な感傷に身を任せていた。そんな自分自身が、ようやく恥ずかしかった。
――事件の数日前、ライブが終わった夜更けにアヲイとセックスしたあと、ユーヒチの腕の中で彼女はこんなことを言った。
「ユーヒチと一緒だから、怖いことなんか何もない」
「そっか」
「ユーヒチは、何か、怖いことある?」
「どうして?」
「私のテレキャスで、全部ぶっ壊してあげたいんだ」
彼女がそう訊くので、
「俺の目の前で誰か死んじゃうのはイヤだ。そういうのはもう耐えられない」
と答えた。これは本音だった。
アヲイは、ハハハッ、と笑って彼の胸に飛び込む。
「安心して? 私はずっと死なないであげる。――マジで無敵だから」
そんな風にしてふたりは、またキスをした。
――アヲイのどこが無敵なんだよ、バカか。
ユーヒチは両手で顔を抑えながら、自分が情けなく泣いていることに気が付いた。ナクスが死んだときでさえ涙は溢れなかったのに、どうして今このタイミングなんだろうと思った。
「あっ」と声を漏らすと、もう止まらなかった。
「ああああ――」
駄目だ、声が溢れていく。
いつからこんなにアヲイを好きになったんだろう。最初にステージを見たときか。酒の席で皆でふざけてはしゃいだときか。ふたりきりで初めて彼女の裸を見たとき、ではないと思う。美味いピザをつまみながらビールを飲んだときか。もしかしたら、そうかもしれない。
あるいは、ユーヒチの腕にアヲイの手首が押さえられながら、ゆっくりと彼の腰が動くのに合わせ、彼の性器がアヲイの腹を満たすと彼女の声が漏れたその声に結局は惹かれたのだろうか。仮にそうだったとしても、誰にも責められたくなかった。
ウェイトレスが置いたビールに、ユーヒチは手をつけられなかった。
――俺は、かつてナクスを失ったようには、アヲイを失いたくない。
そんな風に、ユーヒチは今さらに自覚した。
※※※※
都内全域に低気圧が襲い掛かり、大雨注意報がスマートフォンの天気予報アプリに流れてくる。そのせいなのだろうか、アヲイの頭痛は、病院を出たときよりもさらに酷くなる。
こめかみが痛んだ。頭蓋骨を伝って顎の骨にまでその痛みがじわじわと広がっていくと、舌の根っこの辺りも熱くなった。
駅構内のコンビニで傘を買う。
きっぷ売り場の路線図を見つめながら、アヲイは自分がアパートへの帰り道を忘れていないか確認した。
池袋駅で有楽町に乗り換えて、氷川台駅で降りると徒歩十分で家に着く。と、念のため道のりをきちんと思い出してから改札に入る。
――あれ?
アヲイは立ち止まった。
私の家は阿佐ヶ谷のアパートなのに、なんで氷川台に向かおうとしていたんだろう。
頭痛がさらにうるさくなる。
スマートフォンを確認する。たしかに階段から突き落とされたあの日から七日間が経過していた。
――そうだ、チェヨンに連絡することを忘れていた。きっと心配してメッチャ怒ってるだろうな。
ラインを開いて、彼女にメッセージを送ろうとする。眠り続けていた間は仕事もできていなかったんだし、ヒコ姐さんにもお詫びの報告をしておかないと。
――は?
立ちすくんでいるアヲイは、後ろから通行人に突き飛ばされる。「ボーッと立ってんじゃねえよ!」と罵られながら、彼女は体のバランスを崩してそのまま倒れ伏してしまった。
スマートフォンはアヲイの手から離れて床に叩きつけられると、液晶画面はバキバキに割れてしまった。
「――はは」
のそのそと起き上がって、改めて端末を拾うと、電話帳の一覧を開く。もちろんチェヨンの名前も、ヒコ姐さんの名前もそこにはない。
そんなものはここでは全てウソの記憶で、この世界では夢の話でしかないのだ。
何年間も向こうにいた、という感覚が、現実の手触りを希薄にしているらしい。
アヲイは突き飛ばされた肩の痛みで、ほんの少しの間だけ正気に戻ると、本当の家があるはずの氷川台に向かって移動し始めた。
道行く人が「マキ! 待ってよ!」と叫ぶのを聞いて思わず振り返ってしまう。自分のことじゃない。
ゆったりした服装の女性が、自分の娘を走りながら呼ぶ声だった。
「やべえ」とアヲイは呟いた。
――私はマキじゃない。
一ノ瀬アヲイでもない。
もう一ノ瀬という名字は使われていない。
両親はとっくの昔に死んでいるのだから。父さんと母さんは私を置いて死んでしまったのだから。
耳たぶの裏側が頭痛でバクバクと脈打ち、雨が降り始めるとさらに脳ミソが痛み、視界の全てがぼやけていった。
気休めにイヤフォンをつけて、お気に入りの音楽アルバムを垂れ流す。
Sex PistolsのNever Mind the Bollocksだ。
最寄りの駅を降りて歩き始めると、雨の勢いはもっと増していた。
――すまないね。アナタの病気は、現代医学では原因も治療法も分からないよ。だから、毎回こうやって症状の進度を確認するしかないんだ。
ウソの記憶の中で主治医だった住吉キキの言葉を思い出しながら、傘を差して道を急ぐ。とにかく自分の家を確かめたい。
そしてベッドに入って眠ろう。リョウのこともナクスのこともユーヒチのことも、混乱が収まったあとで考えればいい。ややこしいことも哀しいことも、もううんざりだ。
住宅街は、大雨のせいで人通りは全くなかった。公園のある十字路を曲がってさらに歩けば、そこにアヲイのアパートがあるはずだった。
アヲイは公園のベンチに、ひとりの男が座っているのを見つけた。
彼に傘はない。
カッパも着ていない。
「――?」
アヲイが水たまりを避けながら男を見ていると、彼も、アヲイに気づいて立ち上がった。
身長190を超える体躯に、ウェーブのかかった髪が濡れている。彫りの深い顔立ちと、光を映すことのない瞳。
ジーンズにTシャツの、シンプルな出で立ち。
「よう、おれの女」と彼は言った。小さな声なのに、雨音を避けるように彼女の耳に届く。
――トワがそこでアヲイのことを待っていた。
※※※※
アヲイは公園の中に入る。地面は雨粒でグチャグチャにぬかるんでいた。
「なんでここにいるんだ」
「階段から落ちたときに、アヲイのバッグも散らばったよな。おれが助けたんだ。だから学生証に書かれた住所も知ってる」
「――ストーカー野郎が」
彼女が吐き捨てても、トワは笑うだけだった。
「アヲイは、今まで何年くらいトんでたんだ?」
「はあっ?」
「その調子だと五年とか六年ってところだろ? しかも初めてだ。まあ、最初は混乱するもんなんだ。セックスと同じだよ」
遠くで空が輝き、雷の音が鳴る。
ビシッ――、と、頭の骨にヒビが入るような痛みが響く。アヲイは思わず呻き声を上げ、両手で自分のこめかみを押さえた。
傘がその場に落ちる。アヲイも目の前のトワと同じように、やがて、全身が雨に濡れた。
トワは笑顔のままだ。
「アヲイ、おれのところに来いよ。そのイカれた脳ミソの正しい使いかたを教えてやる。楽しいぜ。いちど味を占めたら」
「なにが」
「だから、おれのモノになれよ、アヲイ」
「ふざけんな」
アヲイは痛みに耐えながらトワに近づいていく。
「あんまりゴチャゴチャ言ってると、そのツラまた蹴っ飛ばすぞ」
「ハハハハハ!」
トワは声を張り上げて笑うと、不意に幼い男子小学生のような顔になる。
「――アヲイは、何回やってもおれには勝てないぜ?」
心底からかうような言いかただった。
苦痛と怒りで、首筋が灼けるように熱い、とアヲイは感じた。
――なんでこんな奴に絡まれなきゃいけないんだ!
雨の中、アヲイはトワを目がけて走り出した。帽子が脱げる。
飛び掛かり、体をねじりながら左足でトワの腹を蹴り上げる。
「お」とトワが声を出し、衝撃をかわすように後ろに退いた。
アヲイは足を戻したバネでかがみこみ、地面の泥を取って投げつける。
トワは両腕で顔面をガードし、泥のせいで視界が潰れないようにした。
その隙に彼の右膝を蹴り、逆関節の打撃だ、そのダメージがトワに響いているうちに今度は左の脇腹に高スピードでトーキックを食らわせる。
「がっ」
トワがよろめくのを見逃さず、彼の腕を掴み、自分に勢いよく引きつけながらその額に頭突きを与えた。
少し狙いがそれ、トワの鼻柱に自分の頭頂部がぶつかったのを感じる。
彼の動きがしばらく止まった、だから、そのシャツを掴んで太ももを踏み台にすると勢いよく飛び上がり、アヲイは両膝でトワの頭を固定すると体をガクンと倒してそのまま重力に身体を任せる。
――トワは後頭部から、地面に叩きつけられた。
雨は止まない。――ぬかるんだ大地で、彼に大した威力はないだろう。
アヲイはトワに馬乗りになる。ムシャクシャして、心底こいつをぶちのめしてやろうとする気持ちがどんどん強くなる。
トワは笑った。
「すげえ。アヲイ、お前最高だよ。楽しすぎるぜ――!」
「ああああ!」
怒鳴り声を張り上げながら彼の顔を殴った。
左の拳で殴る。トワの鼻の穴から血が飛び散る。
右の拳で殴る。トワの口唇の端から血が流れる。
もういちど左で殴る。
右で殴る。
左で。
右で。
左。
右。
「――ッツ!」
アヲイは左手に痛みを覚えた。拳の第二関節に深い切り傷ができて血が溢れる。殴ったときに、トワの鋭利な犬歯に肉を持っていかれたのだ。
その一瞬、動きが緩んだ瞬間、アヲイは両腕をトワに掴まれていた。ぎりぎりぎりと手首に力を入れられ、骨のきしんでいく音が頭を支配する。
「どうしたアヲイ? ――もう殴ってくれないのか?」
「クソが!」
アヲイはすぐに立ち上がって、今度は彼を踏みつけようとした。しかし、それが失敗で、重心の浮いた彼女の体はすぐに彼の力に捕らえられる。
トワには喧嘩の作法も何もない。ただ力任せに彼が両腕を振り回したら、アヲイの華奢な体は三メートル先、公園の中央に向かって投げ飛ばされていた。
転がり、雨水をたっぷりと含んだ芝生の上で、彼女は泥まみれになった。
トワは立ち上がり、『ショーシャンクの空に』みたいなポーズで血まみれの顔を雨で洗い流した。
「やっぱ、アヲイに殴られるのって気持ちいいよ」
と彼は言った。
「頭の中の霧が、スッーと晴れてくぜ」
雷の位置が近くなっていた。空が光るのと、切り裂くような雷鳴までの時間が短くなってきている。
トワは濡れた前髪をかき上げ、額を出した。アヲイは苦痛に呻きながら、四つん這いに体を起こそうとしている。無駄な足掻きだな。
彼は彼女の頭髪をむしるように左手で掴み、強引に立ち上がらせた。
「楽しいぜ! なあっアヲイ! ハハハハ!」
右手で腹部を殴りつけ、ついでに頬を平手で張り倒す。
するとアヲイの目に殺気が戻り、彼の腕に噛みついてきた。
「っ痛ぇ!」
再び二メートルほど、強引に投げ飛ばす。
アヲイが泥の中を転がる姿を眺めながら、トワは自分の腕を確認した。
右肘から先の血肉、少しだけ抉れていた。
その痛みで、トワの頭の霧はさらに晴れてくれる。普段は思い出せない本当の記憶をちゃんと取り戻すことができる。
――おれには沖田レインという親友がいる。
そして今のおれは、頭の悪い女優との不倫スキャンダルで無期限の謹慎中だ。その女の名前は橋本アスカだ。あいつ、よかったな。首輪をハメられて家畜扱いされるのが大好きな変態マゾ女だった。結婚してるなんて知らなかったけど。
アヲイの与える痛みがおれをおれの世界に取り戻すことができるんだ。
「おい、起きろ。もっとおれを痛めつけろ」
トワが近づく。それに応じるかのように、彼女もよろめきながら立ち上がった。
「ううううう!」
と、唸り声を上げている。こんなの、もう手負いの獣だ。
「そうだアヲイ、おれをこの世界に戻せよ。お前じゃなくちゃ駄目なんだ」
彼はジーンズのポケットから中古品のバタフライナイフを取り出すと、アヲイの前にそれを投げ捨てた。
「おれのモノにならないなら、せめて、それでおれを刺せ。寂しいのはもうイヤなんだ。おれをこの世に引き戻せ」
「うううう、うううう!」
彼女は、歯を食いしばりながらそのナイフを拾う。ギラついた刃を開く。
「いいぞ、アヲイ。その調子だ。それでおれを殺れ」
「うう、うう! ――があああああああ!!」
「おれを殺せ! 殺せ! アヲイ!!」
だが、次の瞬間、アヲイはナイフを手放し、膝から崩れ落ちた。
えっ。
トワは駆け寄って抱きかかえ、彼女が再び倒れないようにする。
「――アヲイ?」
彼女は両目をぼんやりと開いたまま、鼻から大量の血を流して気絶していた。たぶん頭痛に耐えられなかったのだろう。彼女の鼻血は唇を伝って顎の先で滴っていた。
そしてその血も、大粒の雨が洗い流していく。
――あ?
トワの頭を再び霧が覆っていくのを感じると、直後、目の前には、彼の両腕に抱きかかえられて気を失ったアヲイがいた。
泥だらけだった。
「――酷いな。誰がこんな目に遭わせたんだ?」
トワはそう思う。アヲイを痛めつけたのは誰だ。彼女は大丈夫だろうか?
トワの瞳に光が戻る。アヲイの顔にかかった髪を払ってやると、小さな動物を慈しむような、優しい気持ちが久しぶりに湧いてきた。
「アヲイはもうおれと同じだ」と彼は言った。「おれと同じで可哀想なヤツだ、お前は」
雷がもういちど鳴る。
――アヲイを家に連れ帰って介抱してやろう、とトワは思った。そのために、運転手を呼ばなければならない。
「アヲイ、もういちいち悩むなよ」とトワは呼びかけながら、彼女を抱きかかえて歩き始める。
「これからは、その脳ミソ、おれのためだけに使え」
――この日を境にして、感傷的なシンセシスのボーカルギター、九条アヲイは完全に消息を絶った。
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