第8話 野放図なマネジメント
※※※※
アヲイは電車の中で目を覚ます。両親の叱責から逃げ出して、夜遅くの上り電車に乗ったところまでは記憶にあった。
ただ、その前後がはっきりしていない。そして、車両に自分以外は誰も座っていないのが不思議だった。
「ユーヒチの家に行きたい」
そう呟くと、電車はスピードを落とし、
次の駅で停まる。
ひとりの女の子が乗り込んできた。外ハネの多い長い癖っ毛を大量のヘアピンで固定して、ふわふわとしたロリータファッションに身を包んだ少女が、虚ろな瞳で目の前の座席に座る。
そして電車はいつまでも発進しなかった。アナウンスも流れない。
――この子は生きた人間じゃない。直観的にそう感じた。
電光掲示板に目をやると、
「縺薙s縺偵s。次は縺輔i縺ェ繧九§縺斐¥に停車します」
と流れていた。
やっぱり。ここは現実の世界じゃない。
アヲイが少女に視線を戻すと、彼女は、ふへへ、と笑いだした。ガチャガチャとした歯並びが露わになる。
「つらいことがいっぱいあった、ってかおしてるね」
「君は誰なの?」
「しんなぎなくす」と彼女は答えた。
「よぶときは、ナクスでいいよ、アヲイ」
電車が動き出すと、ナクスは立ち上がり、よろめきながらアヲイに近づく。
「となり、すわってもいい?」
「どうぞ」
彼女がアヲイの隣に腰を下ろしても、体温も匂いも何も感じない。その声も、どこか遠くから響いているかのようだった。
窓の外に広がるはずの景色は全く見えない。真っ暗闇のままだ。
ナクスが「ユーヒチのことを、どうしてそんなにすきなの?」と訊いてくる。
アヲイは「えっ」と反応に詰まってから、「好きかどうかは分からない。でもまあ優しいじゃん。カッコいいしさ」と答えると、
「じゃあ、もっとやさしくて、もっとかっこいいひとがいたら、アヲイはそれでいいってこと?」
と、反論してくる。
「違う」とアヲイは言った。
ナクスは、ふへへへと笑う。「ほんとのりゆう、いわないと、このでんしゃからおりられないよ?」
「結婚の約束をしたんだ」と彼女は答え直した。「私がいちばん寂しいとき、私の生きる理由になってくれたから。私も、きっと彼の生きる理由になる」
「じゃあ、ユーヒチがしねっていったらしぬんだ?」
「死ぬよ」
「ふへへへへへへ」
ナクスはお腹をかかえて笑い転げる。それでも、彼女の笑い声では周囲の空気は少しも震えなかった。
アヲイはふと感じたことをそのまま口に出す。
「ナクスは、まだユーヒチのことが好きだから消えることができないの?」
ナクスの動きが止まる。
「ん?」
アヲイが首を傾げていると、ナクスは右手を掲げる。
電車が少しずつスピードを落とし、そして止まった。
どうも「縺輔i縺ェ繧九§縺斐¥」に到着したらしい。
ドアが開いた。
ナクスは言う。「そこをおりると、もっとひどいめにあう。でも、おりないと、かえれない」
「ふうん」
アヲイはそう答えてから立ち上がり、駅のホームに着地した。
売店には誰もいない。振り返ると、ナクスは振り返る形で電車の窓からアヲイを覗き込んでいた。
――そうか、そこからは出られないのか。
ナクスは言った。
「アヲイがあいしたユーヒチは、ほんとうにそのユーヒチなの?」
「どういう意味?」
アヲイの質問にナクスが答えないまま、電車のドアが閉まり、ホームから遠ざかっていった。
無人駅に彼女だけが取り残されていく。
「――さてと、どうしたもんかなあ」
この夢はただの夢ではない。
アヲイは自分の目が覚めるまで、ずっと、縺輔i縺ェ繧九§縺斐¥の駅に佇んでいた。
※※※※
アヲイは電車の中で目を覚ます。両親の叱責から逃げ出して、夜遅くの上り電車に乗ったところまでは記憶にあった。
スマートフォンが鳴る。通話ボタンを押して耳に近づけると、
「マキちゃん! 何やってるの! もうお客さんの予約時間から一時間も遅れてるわよ!」
という怒鳴り声が響く。
誰だ?
ていうか、マキって何だ?
「私はアヲイです」と答えると、
「いまアンタの本名とかどうでもいいでしょ! 相変わらずボケてんのね、マキ。もう先方はキャンセルしたから後日いっしょに謝りに行くのよ。オーケー?」
と、さらに怒られた。
何かめんどくせえな。
「分かった。謝ればいいんだな」
「ほんとねえ、そういう態度、お客様の前ではしてないわよね? ちょっと売れてるからって、そんなだとみんな他のキャストに流れてっちゃうわよ」
キャスト? お客様? 何の話だ?
アヲイが戸惑っていると、電話の主が言った。
「とりあえず、池袋のいつものバーで拾ってあげるからそこ来なさい」
スマートフォンを切ると、周囲の乗客が冷たい目でアヲイを見つめている。
――なんなんだよ。ちょっと電話しただけだろ。
舌打ちして、アヲイはとりあえず状況を確認するために自分の服装と荷物を確認した。
男装用のレザースーツと黒のシャツ。ブランドのバッグには大量の札束と名刺が入っていた。
名刺には「マキ」そして「レズビアン風俗・シンセシス」と印字されていた。
※※※※
初めは電話を無視して、そのままユーヒチのアパートに向かおうとも思った。しかし、バッグの中には、少し前に受け取ったはずの合鍵がなかったし、スマートフォンにも、彼の連絡先はなかった。
――また別の世界に来たんだ。
池袋で降りる。とりあえず精算機に寄ってICカードの残高を確認した。
残り五十八円。
仕方なくサイフを開き(このサイフもバッグと同じくバカみたいに高そうだったが、アヲイにはブランドとかは分からない)ピンの一万円札でチャージする。指でパラパラすると、お札は残り四十枚は入っている。
とりあえず前の世界よりは金持ちになっているらしい。それは良いことだった。
アヲイは改札を抜け、待ち合わせ場所行こうとするが、そこでいつものバーの場所など知らないことに気づく。
先ほどの電話の主にもういちどかけた。
「お疲れ様です。アヲイというか、マキですけど」
「どうしたの?」
「いつものバーってどこですか?」
沈黙。
電波が悪いのか? アヲイは少し待つ。
「――ねえマキ。アンタ、本格的におかしくなったんじゃないわよね? ヘンな薬とかやってない?」
「してないっす」
アヲイは答えた。
「脳ミソがブッ壊れてるのは昔からだと思いますけど」
教えて貰ったバーは、「九条アヲイ」の頃に見かけたことのあるクィア・バーだった。名前は「パララックス・ビュー」。略称はPV。
ドアを開けると、いちばん手前のテーブルに着いていた大男――いや、女か? 分からん――が、
「マキ!」
と呼びつけた。たしかに電話と同じ声だ。アヲイは手を挙げる。
向かいの椅子を引いて腰を下ろし、レザーのジャケットを脱いでいると、
「いったいどうしちゃったの? アンタ、何かにつけて生意気なコだけど、理由のない反抗はしないって思ってたわよ」
と説教してくる。
「理由のない反抗?」と笑って、アヲイはハイライトを咥えた。「ジェームズ・ディーンかよ」
バーテンダーの女がテーブルの上にワインを置く。「マキくんはいつものね。これ好きでしょ?」と囁き、それから向かいの客に笑いかけた。「ヒコ姐さんもあんまり叱らないで。可哀想」
彼女の片方の耳に八つ九つのピアスが開いていて、ジャラジャラと輝かせながら去っていくのをアヲイはただ見ていた。
ヒコ、と呼ばれていたこの巨人がアヲイ(=マキ)の今の上司みたいなものなのだろう、と、彼女はなんとなく状況を掴んだ。
「悪気はないんですよ」と、アヲイは手酌でワインをグラスに注いだ。「上手く言えないし、信じてもらえないかもしれないですけど、それは本当です」
ヒコはじっとアヲイを見る。
「マキ、もしかして辞めたいと思ってるの? だったら正直に言ってちょうだい」
「え?」
「よくあることなのよ。そうやって『何も不満はないですよ』って顔をしてて、あるとき、フラっといなくなっちゃうの。そういうのってさ、一緒に商売してる身としては切ないじゃない? だから正直に言って?」
「――いえ、別に。今は何も考えてないですよ」
アヲイはワインを口に含んだ。この世界の自分が何をしている人間なのか、正直、全く分かっていない。分かるまでは、このヒコという人とも話をしていたい。それが本音だ。
「だったらいいの」とヒコは言って、財布から万札を五枚出す。「好きに飲んでて」
そう言うと、彼女(彼?)は重たそうな体でのっそりと立ち上がり、店から出て行こうとした。
「え、ヒコ姐さん、待ってよ」とアヲイは呼んだ。「訊きたいんだけどさ」
「何?」
「私の寝床って、どこだっけ? ――あはは、ほんと今日は物忘れが激しくってさあ」
アヲイが誤魔化し笑いをしながら訊くと、
「阿佐ヶ谷の女子寮アパートでしょ。ホントに今日はヤバいのね。あとで住所も送信しとく」とヒコは答えた。
それから、
「――マキはアタシを『ヒコ姐さん』とは呼ばない。いつも『ヒコちゃん』って呼ぶでしょ」
そう言いながら、ヒコはアヲイを疑り深い目で見つめていた。
「アンタ、本当にマキ?」
ヒコが去るのと入れ違いに、一人の女性がバーに入ってきた。
「あら、お初ですかあ?」
「ええ、まあ、そうです」
そんな挨拶をしているのを訊きながら、アヲイは、自分のテーブルに一万円札が五枚も散らばっていることに気づいた。
――やば。こんなんすぐ隠さないと。
アヲイは急いでそれを取り、
バッグの中に隠そうとする。が、一枚だけひらひらと踊りながら床に落ちてしまい、慌てて拾おうとすると、先ほど入店したばかりの女性が代わりに取ってくれた。
「ありがとう、助かります」
アヲイが礼を言うと、その女性は、「あ、いえ、その、ぜんぜん」と、妙に口ごもりながら紙幣を渡してきた。
――?
アヲイが首を傾げていると、女性はさらに顔を赤らめながら、「あの、これも落ちてました」と、アヲイの名刺を差し出してくる。
――レズビアン風俗の名刺。
アヲイが、あー、と思いながら受け取っていると、彼女は熱に浮かされたような表情で、「あのう、いっしょに飲みませんか?」と誘ってきた。
「すごいすごい! ネットで調べたとおりなんですね」
女性がカクテルを飲みながら、アヲイに話しかける。
「ネットのとおりって、何が」
「だから、その――私みたいな、シスヘテロじゃない人たちが集まる場所なんだって知って」
しすへてろ? アヲイは呆れた。小難しい片仮名を使うのは苦手だ。
愛の在りかたは個人ごとに違うというだけなのに、それを無理やりカテゴリーで分けようとするから、意味不明に複雑になるだけの話じゃないだろうか。
そしてカテゴリーをつくろうとする連中ってのは、いつだって本当の意味での多様性なんか知らないんだ。
――こういうことをアヲイは言語化できないが、
直観的に理解していた。
女性は「それで、その――マキくん、でいいのかな?」と顔を寄せてくる。「そう呼んだほうがいいの?」
「アヲイでもいいですよ。そっちが本名ですから」
「そ、そうなんだ。じゃあアヲイくんね」
距離が近い、と思った。
「アヲイくんって、ごめんね名刺見ちゃって、えっと」
女性はカクテルを飲み干す。「そ、そういうことしてる人なの――?」
「そういう?」
「だから、その、女の子だけど、女の人とエッチなことするお仕事っていうか――」
「ああ」
アヲイはなんだかウンザリしてきて、二本目のハイライトに火を点けた。「そうみたいです。でも、だったらなんなんですか?」
アヲイが女性を見ると、相手は慌てた様子で、「ご、ごめんね? あの、なんて言ったらいいか――」と両手を胸の前でまごまごとしている。
その仕草に、アヲイは見覚えがあった。誰だっけ?
なんにせよ、そんなに私相手に緊張されても困るぞ、という気持ちになる。
女性はしばらく黙っていたが、やがて、
意を決したようにアヲイに耳打ちした。
「いくら?」
――は?
アヲイは女性の顔を見た。相手は肩を揺らしながら、アヲイの両手をぎゅっと握って、息が荒くなっている。
その姿を見て思い出した。こういう女性をアヲイは人生の中で何度か見たことがある。もっとも、その記憶が本当かどうかは分からないが。
いま思い出せる数では、
中学生のときに11回。
高校生のときに13回。
大学の2年間では7回。
こんな表情で女の子に告白されたり、友達のつもりで出かけた先で迫られたりした。あの子たちと同じ顔をしているとアヲイは思った。
そのときはただ、よく分からなくて、返事に困ってしまっただけだ。そしてそのたびに、リョウに助けてもらった。
でも、今は違った。
――いくら? 私の体っていくらなんだ?
アヲイは混乱していた。
女性はアヲイの手を握ってきた。「きゅ、急にこんなこと言ってごめんね。だけど、最初に見たときから、ダメなのこんな、男の子よりもずっと男の子っぽくて、だってすごいんだもん。ごめんねダメだよね私、急に」
「えっと――」
アヲイが返事に窮していると、さらに女性は声を大きくしながら、
「い、いまだと、じゅ、十万円いけます」
と言ってくる。
「十万円?」
べっとりとした不快感がアヲイを襲い、咄嗟の反応ができなくなった。
眉間に皺を寄せながら、女性の顔をもう少しきちんと確認しようとする。
今のアヲイには、自分のそういう仕草が、却って相手の劣情を煽ってしまうということに気づいていない。
「あ、あの、ATMに行けば、二十万だったら――」
「ねえ、そこのお姉さん」
別のテーブルで飲んでいた女が、彼女の肩に手を置いていた。「大声で売り買いの話をしすぎだよ。ここは初めて?」
「あ、あ――」
女性が振り返ると、肩に手を置いた女――二十代の、長い栗色の髪を結わえた長身の美形――が、にっこりと笑った。
「愛は金で買えないよ、なんて言わない。実際、買えるしね。でも、そこにはある種の礼式があるんだ。お姉さんは、今日は落ち着いてもう帰ったほうがいいんじゃないの」
「あ、あの、ごめんなさい。私、でも――」
「相手が困ってるからさっさと失せろって言ってるのが分からない?」
栗色が凄むと、女性は怯みながら酒代を置き、バーを出て行った。
「やれやれ」と栗色は苦笑した。「アヲイくんって呼ばれてたよね。大丈夫だった? それとも余計なお世話だったかな?」
「いや、えっと、なんか助かったかも」
サンキュー、と、アヲイは答えてから、自分を救ってくれた栗色の髪の女を見た。
その容姿と声色に覚えがあることに、アヲイはこのとき初めて気づいた。
「――リョウ?」
アヲイは思わず、その名前が口から漏れていた。
「リョウじゃん。なんでここにいるの?」
――アヲイを助けてくれたのは、かつて「九条アヲイ」だった頃に幼馴染としてずっと自分のそばにいた、そして、同じバンドにいた篠宮リョウだった。
※※※※
アヲイがリョウの名前を知っていることについて、リョウは最初のうちは「もしかしてライブを見てくれてたりとか?」とか、色々訊いてきた。だが、アヲイが言葉を濁しているうちに、何か察するところがあったのかなかったのかは分からないが、
「とりあえず飲み直そう」と誘ってきた。
この世界ではリョウとは初対面だった。たぶん九条家に引き取られていないのだろう。
アヲイは、ひとつ前の世界で、ヱチカやモモコがどんな風に変わってしまっていたかを思い出した。私はこの世界に組み込まれていて、だからこそ、私の選択ひとつひとつが世界の在りかたを変える、と。
調べなければ分からない。
明け方の始発に乗り、アヲイとリョウは高田馬場で降りた。
「ちょっと歩いたら、私のアパートあるから」
リョウは改札を通る。「好きな映画とかある? それ借りて帰ろうよ。ここのレンタル店、24時間営業のあったはずだから」
アヲイは「あー」と生返事を返す。「じゃあ、『鉄人兵団』とか?」
リョウが振り返る。「なにそれ?」
アヲイは男装のネクタイを緩めた。「ドラえもん」
リョウの部屋に上がって、アヲイは「この衣装、ずっと堅苦しくてイヤだ」と言いながら脱いだ。
リョウは苦笑いしながら「私の着替えを貸すよ」と言ってくれる。
「ねえ」とリョウは言う。
「ん?」
「アヲイ、でいいよね? あのさ、私の名前を知ってたのはバンドのファンだからじゃないでしょ?」
「あー、えっと」
「嘘つかなくていいって」
「――バンドのファンだからじゃない」
「やっぱり」
リョウはベッドに腰かけた。部屋には大量のベースと、キーボード、ギター。それからマイナーな恋愛漫画と社会学・ジェンダー論の概説書が本棚に収められていた。そういう細部は元々の世界と変わらない。
でも、リョウは元々の世界では高田馬場ではなく阿佐ヶ谷に住んでいたはずだ。アヲイにはそれが分からない。
「なんで高田馬場のアパートなの? 割高じゃない?」
「そうだけど、大学から近いしさ」
「へー、W大なんだ」
「うん。何かヘン?」
もちろん変だ。リョウは元々の世界ではW大に進学していない。同じ偏差値くらいのJ大学に進んでいたはずだ。
W大に進学したのは、むしろ「九条アヲイ」だった。
ここでもズレが生まれている。
アヲイはそれについてちょっと考えてみる。私がW大に行く世界ではリョウはそこに行かない。私がどこの大学にも行かずレズ風俗で働いている世界では、リョウはW大に行っている。
――もしかして、私と同じ大学がイヤだったのかな?
結論を出せないでいると、リョウはコップにお酒を注いでいった。
アヲイはコップを手に取って、「あのさ。笑わないで聞いてくれると嬉しいんだけど」と話し始める。
「笑わないよ。何?」
「――リョウを知ってるのは、ええっと、ウソの記憶の中でそれを知ってるからなんだよ。リョウとは幼馴染だったの」
そうしてアヲイは話し始めた。最初の世界では、アヲイは両親の死後、キリスト教系の児童養護施設に預けられる。
そこでユーヒチと出会い、結婚の約束を交わす。
第二の世界では、アヲイは遠縁の九条家へと引き取られる。ヱチカが義妹になり、流れ的にモモコのイジメ被害を止め、リョウと出会う。
リョウのバンドに参加するが、元メンバーが脱退し、そこでユーヒチたちのバンドと合流する。結果として、メジャーデビューへの切符を手に入れた。しかし、その代わりに元メンバーに恨まれて、階段から突き落とされる。
両親が死なない世界では、アヲイはヱチカの夢を挫折させない代わりに、モモコへのイジメも止められない。
そういう身の上話を、ちゃんと全部伝えた。
「だから、リョウのことも知ってる。今のバンド名はダズハント。バンドメンバーは、たしかサエとジュンでしょ?」
そう訊くと、リョウは腕を組んだまま、考えごとをしているように見える。
「あ、いや」とアヲイは言った。「信じないなら別にいいよ」
「そんなことは言ってない」とリョウは呟く。
「ちょっと考えさせて。それまでは、変に疑うようなことも言わないから」
そう彼女は答えた。
※※※※
そこからの二年間は、少なくともアヲイにとっては、特別なことは何も起きない日々だった。
阿佐ヶ谷のアパートに帰ってみると、アヲイはチェヨンという韓国人の女の子とルームシェアをしているようだった。
「アヲイ! 外泊するなら連絡しろよ!」
「ごめん」
「もうメシつくってやんねーぞ!」
「えー、困るよ。許して?」
「っだ! その顔でしおらしく謝んなよ、ズリぃよ!」
チェヨンは日本のヤクザ映画とかヤンキー漫画で日本語を学んできたから、言葉遣いが荒っぽいのが良いとアヲイは思う。
そうして、チェヨンの料理を食べて寝て、仕事の日はチェヨンにメイクと男装を仕立てて貰うのを繰り返していた。
思えばアヲイは、今まで一度も自分の手でメイクをしたことがない。元々の世界では、必要な時にリョウに整えてもらっていた。
この世界ではチェヨンに、そしてときどき客にしてもらう、という感じだった。
仕事仲間とその話題になると、いつも驚かれた。「ヒモ体質ここに極まれりだな」と笑われたりもする。
そうだろうか、とアヲイは首を傾げた。
――私だけじゃないと思うんだけどな。
他の女たちにしたって、たとえ物理的には自分の手だとしても、メイクをしているのは実際には他人の手だ、という気もする。
そういう意味のない考えに耽ったり、ぼーっとしたりしながら、アヲイは結局その仕事を続けていた。
孤独な女たちの前で王子様を演じるのは、思ったよりも気楽なものだと分かった。女同士のセックスは、少なくともアヲイにとっては本当のセックスじゃないからシリアスにならなかった。
客の趣味にも色々あって、アヲイの身体を舐めたり指を入れたりする女たちばかりでもなかった。椅子に座るアヲイの目の前で自分を慰める子もいたし、アヲイの薄い胸に抱かれて泣きながら別の女の子の名前を呼ぶ奴もいた。
そういう彼女たちの性欲が、家電量販店に流れるBGMみたいに左の耳から右の耳へ抜けていく日々だった。
それ以外だと、リョウと改めて友達になって、いっしょに遊んだり彼女のライブを聴きに行くくらいしかやることもなかった。
――そしてその二年間、アヲイはユーヒチには一度も会わなかった。
ユーヒチのバンドアカウントを確認すると、彼女がこの世界で目を覚ます数週間前には、既に活動を休止していた。
シシスケのアカウントを調べた。
《手ごたえのなさを感じる。この世界には何かが、誰かが足りていない。なのに今の俺ではそれを埋めることができない》
休止直前そんな投稿をしていた。
ガロウのアカウントも調べた。YouTubeでゲーム実況したり、ときどき思い出したように「弾いてみた」を投稿する以外には別に動きがなかった。
そしてユーヒチのアカウントは完全に止まっていた。もともとバンドの宣伝用につくっただけのものらしい。
試しにフォローもしてみたが、反応はない。
――この世界に来てから二ヶ月後くらいに、ユーヒチのアパートを訪れてみたことがある。インターフォンを鳴らしても誰も出てこない。郵便受けも表札も真っ白になっている。
立ちすくんでいると、隣室の大家らしき人が出てきて、アヲイを不審そうな目で見つめた。
「えっと」とアヲイは言葉を繋ぐ。
「ここに住んでいた人の、昔の友人なんですけど。川原ユーヒチくん、っていう」
そう答えると、大家は警戒心を少し解きながら、「その子なら数日前に引っ越したよ」と教えてくれた。
「引っ越し?」とアヲイは繰り返した。「えっ、どこに引っ越したとか分かります?」
「――そこは個人情報だから」
大家は最初よりも強い警戒心を剥き出しにしながらドアを閉める。
アヲイとユーヒチを繋いでいた線が、ブツンと切れてそのままになった。
アヲイはヒコ姐さんに指定された女たちの家やホテルに向かって歩きながら、ときどき、ユーヒチに似た背格好の男性とすれ違うことがあった。
最初のうちは、駆け寄って回り込み、相手の顔を確認していた。そしてそのたび、赤の他人であることが分かって落ち込んだ。
あるときは早足に歩く男を追いかけ、その肩を掴んで振り向かせたこともあった。見ず知らずの男が、アヲイの剣幕に怯えながら「なんだよ?」とこぼした。
「いえ、人違いです。すみませんでした」
そんな経験を何度も積み重ねるうちに、アヲイは、もうユーヒチに似た男を見かけてもいちいち振り向くことさえダルいと思うようになっていた。
――だって、どうせユーヒチじゃないんだろ。
半年ほど経ってから、アヲイは、自分がユーヒチの所属大学を知っていることを思い出したが、それだけでは心が動かなくなっている自分に気づいた。
チェヨンの料理を食べる。シャワーのあとの髪を乾かされていっしょに寝る。リョウと遊ぶ。客に抱かれる。
あるとき、リョウがライブの中でロックナンバーの古典をカバーしていた。歌いながら感極まって泣き出すリョウを、アヲイは綺麗だと思った。
RadioheadのCreepだった。
When you were here before
Couldn't look you in the eye
You're just like an angel
Your skin makes me cry
あなたがここにいたとき、
目なんて見れなかった。
あなたはまるで天使だし、
私はその素肌に泣いた。
You float like a feather
In a beautiful world
And I wish I was special
You're so fuckin' special
この美しい世界の中、羽毛のように浮かんでいて、
私も、特別になれたらな。
あなたがすごく特別だから。
But I'm a creep, I'm a weirdo.
What the hell am I doing here?
I don't belong here
でも私は気持ちの悪い、汚らわしいヤツなんだ。
なんでここにいるんだろう?
居場所じゃないくせに。
I don't care if it hurts
I want to have control
I want a perfect body
I want a perfect soul
傷ついたっていい。
自分を制御したい。
完璧なカラダが欲しい。
完璧なココロが欲しい。
I want you to notice
When I'm not around
You're so fuckin' special
I wish I was special
私がいないときも、
気づいてほしいの。
あなたがすごく特別だから。
私も、特別になれたらな。
But I'm a creep, I'm a weirdo.
What the hell am I doing here?
I don't belong here
でも私は気持ちの悪い、汚らわしいヤツなんだ。
なんでここにいるんだろう?
居場所じゃないくせに。
She's running out the door.
She's running out
She's run run run run
彼女がドアの向こうに駆けていく。
彼女が駆けていく。
走って、行って、逃げて、駆けて、
駆けていく。
Whatever makes you happy
Whatever you want
You're so fuckin' special
I wish I was special
あなたの幸せが何であれ、
あなたの欲望が何であれ、
あなたはとても特別なの。
私も、特別になれたらな。
But I'm a creep, I'm a weirdo,
What the hell am I doing here?
I don't belong here
I don't belong here
でも私は気持ちの悪い、汚らわしいヤツなんだ。
なんでここにいるんだろう?
居場所じゃないくせに。
居場所じゃないくせに。
あるとき、チェヨンが「わたしさあ、留学終わって国に帰ったら、語学教師なってちゃんと稼ぐんだ」とベッドで言った。
「ふうん」とアヲイが返事すると、
「わたし、アヲイのこと結構気に入ってるよ。ぐうたらだけど顔いいし、酷いことも言わない。他にやることとかないんなら、いっしょに国来るか?」
そう言ってアヲイを大きめの胸で抱きしめる。
――日本から出ていくのか? 私は。
そういうのも悪くないかな。
と思った。
※※※※
リョウの部屋で、アヲイはチェヨンから借りた少年漫画をめくっていた。リョウといえば、アコースティックギターの手入れを続けている。
「今度のライブが最後かも」と彼女は言った。
「なんで?」
「就職活動とかあるし。サエさんとジュン先輩は要領いいから並行できてたけど、私はね」
「仕事が決まったらまたやるんでしょ?」
「仕事によるよ。行きたいとこ全部お祈りされて失敗してどうしようもないところに決まったら、未来のことは正直分からない」
「――そっかあ」
「アヲイはどうするの? レズ風俗だったっけ、ずっと続けてたら経営側になれたりするわけ?」
「韓国行くかも」
「へえ? まあ、いいかもね」
リョウはピックを手に取って、調整し終えた弦をひととおり鳴らした。和音が響いた。
ピタゴラス先生の素敵な発明。
アヲイは漫画を閉じてリョウを見た。「向こうに行っても連絡するよ。で、ずっと友達でいよう」
「ちょ、やめ」とリョウは手のひらで自分の顔を隠す。
「何?」
「なんか泣きそう」とリョウは半笑いになった。「アヲイって、今だから言うけど、めちゃくちゃ私のタイプの顔だよ」
「そうだったの?」
「ごめんね、あんまり言いたくなかった。ちょっと、好みすぎて、ハマったら底なし沼だろうし」
そういうリョウの告白にアヲイは軽く動揺していた。
そんなこと、リョウに言われたことはなかった。
――そういうものなのだろうか?
アヲイは元々の世界のリョウを思い出していた。アヲイの忘れ物の面倒を見て、問題児のアヲイの代わりに大人と交渉して、声をかけてくる男の人を追い払って、グレていたときにバンドに誘ってくれて、化粧を教えてくれた。
アヲイはそれを、かけがえのない友情みたいなものとずっと思っていた。
間違いだったのだろうか。この世界で、リョウはクィア・バーに顔を出す同性愛者だった。そんなことさえずっと知らなかったのだ。
アヲイが黙っていると、リョウがギターを渡してきた。
「それじゃ、試しに何か弾き語ってほしいな」
「簡単なのしか弾けないと思うよ。もしかしたら、何も弾けないかもだし」
「それでもいいよ。持ってみて」
リョウに促されるまま、アヲイはギターを受け取り、ピックを右手指に挟んだ。
――あれっ?
弾ける。
アヲイは自分の頭が全ての演奏を覚えていて、何でも弾けるということに気づいていた。
リョウが怪訝な顔をする。「ん、どうしたの?」
「弾けるんだ。何もかも」
「――あはは」
アヲイの答えにリョウが笑った。
アヲイも笑う。どうしてだろう。ユーヒチといっしょにいた世界では、ゼロから練習するしかなかったのに。
そうだと思いついて、元々の世界でリョウがつくった曲を弾き始めた。
『十字架の幾何学』
『ミショーの絵画』
『蒼い花』
アヲイは立て続けにリョウ作曲の歌を弾き語る。この世界では彼女はそれを書いていない。全て、アヲイボーカルのためにつくられた曲だからだ。
アヲイがバンドではなく、孤独な女たちの王子様をしているこの世界では、これらの楽曲は生まれない。
アヲイが弾き終わっても、リョウは反応をしない。
「これも歌ってみるかな」
そう言って、アヲイは『マルセル、愛ってなんだ?』を弾き語った。
そういえば、ヱチカが「詞が暗い」と言って嫌った曲だったような気がする。でも、ユーヒチは、たしかこれを気に入ったんだっけ。
報われない片想いの歌だ。
そうしてアヲイが歌い終わると、
リョウは、音もなく泣いていた。
「えっ」とアヲイが声を出すと、
「ごめん、ごめん!」とリョウが溢れてくる涙をティッシュペーパーで受け止めながら、それでも繰り返す「ごめん」の声がどんどん涙に染まってダメになっていくのが分かる。「ごめんね、急に!」
「リョウ、どうしたの」
アヲイがギターを脇に置いて寄り添うと、彼女はもっと肩を震わせた。
リョウは「――その曲、書いたの、私?」と言った。
涙のせいで荒げた呼吸を落ち着かせながら「アヲイが言う元々の世界で、私、それ書いたの?」
そんな風に訊いてくる。
アヲイとしては、少し迷ってから、
「そうだよ」と答えるしかなかった。
リョウの泣き声がさらに大きくなる。
――どうしちゃったんだよ、リョウ、とアヲイは感じていた。リョウは私と違って、いつも立派で、大人で、私のワガママを呆れながら聞いてくれる人だったのに。泣いてるとこなんか初めてだ。
アヲイは、彼女の背中をさすった。
リョウは泣きじゃくりながら、
「アヲイの言うこと、信じるよ」と言った。
「何?」
「そっちの世界の私は、きっと小さい頃に、心がまだ無防備な頃にアヲイに会っちゃって、ずっと、ずっと、アヲイのことが好きで、それを我慢してたんだよ。そうじゃなきゃ、こんな哀しい曲なんか書けるわけないんだ、普通」
混乱しているリョウの背中をさすって抱きしめながら、アヲイは困っていた。
――リョウはずっと、私を好きだったの?
いつも私のことを助けてくれたのは全部、リョウが、私のことを好きだったからなの?
いや、別に困っていたわけではなかった。
胸の奥に広がるのは、グズグズとした罪悪感だけだ。
「そんなわけ」とアヲイは否定しかけた。「だって、私、――なんでリョウの気持ちに気づけなかったの?」
リョウが自分を見つめる。
アヲイは軽く息を呑んだ。
「――好きな人に気味悪がられるのが怖かった」
リョウが口にする言葉ひとつひとつが、時効のない罪のようにアヲイを抉る。
リョウは言葉を繋いだ。「自分が女の子しか愛せないって分かるまで、ずっと悩んでた。そういう間にもし本気になれる子が現れたら、ははっ、壊れちゃうよ。つらすぎるよ。そっちの世界の私は、とっくに壊れちゃってるんじゃないの?」
アヲイが何も反応できないでいると、リョウは深呼吸をして、
「ごめん」と言った。「ちょっと故障してた」
「リョウ」
「ああもうアヲイは、なんでこんなタイミングでこっちを刺激してくるかなあ。海外行くんでしょ?」
「えっと」
「――ごめん、ほんとに、ちょっと我慢できないな」とリョウは言い、
アヲイの唇を塞いだ。
三十六秒後、押し倒されたアヲイの体を押さえながら舌と舌を離し、
「くそっ」とリョウは笑う。「ごめんね、好きだよ。ああ、やば、めっちゃ好きだ」
※※※※
その日はリョウに抱かれ続けた。喉が渇いたり腹が減ったりすると二人で何か飲み食いして、そうしてアヲイがタイミングを見計らって帰ろうとすると、「行かないで」と腕を引かれて押し倒されて、というのを何度も何度も繰り返した気がする。もしかしたら三ループか四ループくらいだったかもしれない。
アヲイが疲れ果ててリョウの腕枕に頭を乗せて横になっていると、リョウのほうは、自嘲するみたいにくすくすと笑った。
「なんか、そっちの世界の私のぶんまで、アヲイに気持ちをぶつけちゃってるかな?」
と彼女は言った。アヲイは痛む。
明確な言葉にはならなかったが、私はリョウの好意に気付かず、無自覚に利用してきたのだ、という感情になった。疎まれたり嫌われたりすることには慣れたつもりでも、自分を好きでいてくれる人を傷つけることにはアヲイは慣れていない。
そうして、その疚しさのなかで、アヲイは今のリョウの性欲を拒むことができなかった。
結局アヲイはリョウの家に泊まって、チェヨンが待つ自分のアパートに帰る。そのとき渡された次の解散ライブ用のチケットを、もう、どうすればいいか分からない。
――最初から、私がいなければよかったんだ、と不意に思えた。こっちの世界ならリョウは苦しくなくてよかったのに。暗い曲も書かなかった。
玄関を開けるとチェヨンは寝ていた。
そうして七日後、アヲイはリョウのライブに行くためにチェヨンにメイクされていた。
「今日は遊びにいくだけか?」とチェヨンは訊いた。
「うん」とアヲイが答えると、
「仕事の日より、そういうほうがもっと綺麗な顔にしたるわって思うぜ」
「え、なんで?」
「なんでかって、客に妬いてるよ、私」
チェヨンの言葉を聞く。そうだ、私、ちょっと前までこの子と韓国に住むかもって思ってたんだっけ、とアヲイは思い出す。
ぐちゃぐちゃしてくる。
「チェヨン」とアヲイは言った。「いつもありがと。何もできない、こんな私に、よくしてくれてさ」
「なに言ってんだバカヤロー!」とチェヨンは笑う。
湿っぽいのはいいから読み終わったら漫画返せよ、と彼女は茶化した。
アヲイは渋谷駅を出て、ライブハウスへの道のりをスマートフォンで確認した。
ライブチケットは右手に握りしめていた。ポケットにしまったり、バッグに入れておいたりできない。そんなことをしたらすぐ見失ってしまう気がした。
――私はチェヨンの優しさに甘え続けたいのか、それとも、リョウの気持ちに応えたいのか?
あるいはどちらも断って、このまま王子様を演じ続けて朽ちてしまえばいいのか。
クラゲみたいに死体が消えればいいが、アヲイは人間なので死体は残る。その死体を拾いたがる女も客の中から出てくるだろう。
たった昨日、小さな学習塾を経営する女性に買われたあとで、こんな風に言われたことを思い出した。「よかったら、私の家で暮らさない? だって、あなた、結局は行くところないんでしょう?」
アヲイは奥歯を噛む。どんな選択肢も心地いいのに、安っぽいゾンビ映画のように空しいのはなんでだろう。
しばらくして信号が変わった。
向こうから歩いてくる男女に関心を持たず、アヲイは渋谷のスクランブル交差点を渡った。フォーマルなスーツに身を包む人間もいれば、平日なのに何をしているのか分からないような服装の中高年も多少いる。
いずれにしろ、アヲイとは関りがないのだ。ビルの広告と街頭演説の音だけがキンキンしていた。
そしてその場で、アヲイはリクルートスーツに身を包んだ川原ユーヒチとすれ違った。
※※※※
アヲイは立ちすくんだ。
――ユーヒチ?
その背中に三十代半ばのスーツの男がぶつかる。彼は舌打ちして、アヲイのほうに振り向きながら「止まってんじゃねえ、クソガキ!」と吐き捨てようとして、そうしてアヲイの表情のせいでその罵声を二割だけ引っ込めたかのようにブツッブツッと叫んだ。
ユーヒチだ。
そうアヲイは思った。そして、そう思うと、両足は彼に向かって走り始めていた。
人ごみへとぶつかる。罵声や愚痴が聴こえる。そんなものはどうでもいい。大柄な男性にぶつかると、彼は心底鬱陶しそうに両腕を大きく払った。そしてそれがアヲイの右頬に当たって、パチンッという音がする。
男性の手の爪が伸びていたのか、アヲイの顔にひとつ切り傷ができた。腕の下をかいくぐって走り出すと、じわじわと血が滲んで一筋だけ顎のほうに滑り流れた。どうでもよかった。
ユーヒチはスムーズに世間をかき分けていき、駅の改札を抜けようとしている。
行かないでよ、という気持ちと同時に、
なんで今さらなんだ、と思ってしまう。
改札にICカードを合わせると、警告音が鳴り、残高不足を知らせる。
ユーヒチは、駅構内にどんどん進んでいった。
――今からチャージしにいって追いつけるの? そんなの絶対無理だ。
「ユーヒチ!」と叫ぼうとして、その声は駅前の街頭演説にかき消されてしまった。
《政治を元気にしていこうじゃありませんか! 経済を元気にして! ここにいる皆さんすべての給料を底上げする! 給料が上がる経済を実現したいと思います! 生きることは学ぶことであり! 学ぶことは生きることだと思います! 学びたいと思う人が、学びを諦めなくていい、返さなくていい――》
うるせえうるせえうるせえ! うるせえ!
――教育無償化を訴える正しい政治家の声を背にして、アヲイは改札機に手をついて飛び越えた。
周囲の声が上がる。呆れと驚き。
ユーヒチは埼京線ホームへの通路を歩いていた。またしてもアヲイは人にぶつかる。
「――ユーヒチ!」と彼女は大声を張り上げた。
そこで初めてユーヒチは振り返った。髪型も就活生風に少し変わっている。
アヲイは息を荒げ、両膝に手をつきながら、なんとか次の言葉を探そうとする。
きっと、こんなものもう呪いだ、と思った。ユーヒチを見ると体が言うことを聞かなくなって、何も考えられなくなってしまった。
ああ。
好きなんだ。
アヲイが右手に握っていたはずのライブチケットは、誰かとぶつかったときにふわりと浮いて離れ、渋谷の地面に落ちると、通行人に踏まれてグチャグチャになってもうとっくに使いものにならなくなっていることに彼女は気付かない。
ユーヒチは、少し戸惑うように「あの、俺ですか?」と訊いてきた。
アヲイは自分の体を両腕で抱きかかえた。
彼と会うまで何でもなかった今の仕事が、急にイヤなもののように感じられた。もしこの職業のせいでユーヒチに嫌われたらどうしよう、という不安で、震えが止まらなくなった。
――それは、ずいぶんと都合のいい感情だと思った。
「っあ」
アヲイの口から声が漏れる。
ユーヒチに再会したとき言うべき言葉は、ずいぶん昔に決めていたはずだった。
ひとつ前の世界でトラブルになった反省から、アヲイはぐうたらな頭を使って、不自然にならない挨拶を考えていた。
《前にバンドをやっていましたよね? 私、そのときのファンなんですよ。こうして会えて感動しています》
それを言えばいいだけのはずだったのに、今この状況では全てが場違いだった。
ユーヒチが心配そうにアヲイを見つめる。なんで、私を覚えていないユーヒチなのに優しいんだろう。
「助けて」
アヲイがやっと絞り出せた言葉はそれだった。自分でも意味不明だ。
「ねえ、私のこと助けて、ユーヒチ」
ユーヒチが手を伸ばし、アヲイの頬の前で躊躇うように止まる。
「血が出てますよ。手当てしないと――」
「ユーヒチ、ねえ、助けてよ」
「大丈夫、落ち着いて」
「――私、あと何回ユーヒチに会ったら、私のこと思い出してもらえるの?」
ユーヒチはハンカチを取り出す。
「いったん、これで押さえてて」
ハンカチで傷口を押さえろってこと? ハンカチで傷口を押さえたら私のこと思い出してくれるの?
後ろから駅員が駆け寄ってくる。彼女は膝から崩れ落ちた。
駅員がユーヒチに気づき、軽蔑したような視線を送る。
「この子、無賃乗車だよ。あなたは? 知り合い?」
「そうです」とユーヒチは嘘をつく。
「すみません、遠距離恋愛の彼女なんですよ。俺に会いたいって言って急に来ちゃって、で、俺のこと見て走っちゃったみたいです。本当に申し訳ないです。お金ならちゃんと払いますよ」
ユーヒチがすらすらと嘘を並べ立て、駅員たちを宥めている。
私がユーヒチに嘘をつかせてるんだとアヲイは思った。
ああ、でも、その嘘が本当だったらどんなにいいだろうとも彼女は考える。
※※※※
ユーヒチの新しいアパートは上石神井にあった。応急処置で貼られた絆創膏をぺりぺり剥がされ、改めて消毒スプレーを右頬に吹きかけられると、産声みたいに遅れてズキズキとうるみ出す。
「痛い――」
「ごめんな、もうちょっとじっとしてて」
アヲイは部屋を見渡す。本棚も楽器も全部ある。
どうして引っ越しなんかしたんだよ、という疑問も、いつでも訊ける状況になると、特に急ぎの用事ではなくなってしまった。
――どの世界でもそうだったように、アヲイの話に、ユーヒチはイエスもノーも言わなかった。ただ少し困った顔をして笑い、
「嘘をついているようには見えない」
と答えるだけだ。
そうして、アヲイがソファに寝転んで本を読んだり、ギターを借りて弾いたりしているうちに、ユーヒチは当然みたいに二人分の夕食を用意していた。
「さっきアヲイが弾いてた曲、いいな」
こっちの世界でもユーヒチは『マルセル』を褒めるんだな、と、面白かった。
「この曲、リョウがつくったんだよ」
「ダズハントのリョウのこと? そんなの、ライブでやってたっけ――」
「説明できないけど、マジで」
アヲイはパスタをくるくるする。
音楽雑誌の表紙は、メジャーデビューしたキラークラウンが飾られていた。巻頭のインタビューは、バンドの最新アルバムが何かの賞を撮ったらしい西園カハルだ。
それがたぶん、二年間という時間だった。何も起きないでいるには長すぎる時間だけど、特別なことが起きるには少し足りない。
「ユーヒチの家、しばらく遊びにきていい?」
「いいけど、アヲイは就職活動どうするの?」
「えっ? ユーヒチのお嫁さん」
「はははは」
そうして二人でセックスをした。この二年間の間に積もり積もった穢れを、全てユーヒチの身体に洗い流してほしかった。
朝起きて、シャワーを借りて、出ていくときに自然にキスをした。
「次もしようよ、エロ」
「分かった」
アヲイは電車に乗って帰る途中、窓の外の景色を見て、おおっ、と思った。彼女の目に、ちゃんと三原色で綺麗だった。差し込む太陽が車内の埃を照らし、座席のモケットのスンとする匂いが分かる。
電車の窓が半分くらい鏡になると、アヲイの男装姿が景色に透けて映った。
ちゃんとした仕事を探そうと思う。今までが駄目だったわけでもないけど、ユーヒチに心配かけないやつにしよう。
アヲイはホームに降りると、まずヒコ姐さんに「今度飲みに行きませんか」と電話した。その声の調子で察したのか、
「寂しくなるわね、ホント。マキの隠れファンってキャストにもけっこういたのに」
と言われた。
アヲイも正直、切なかった。
「ごめんね、ヒコちゃん」
「理由とか、ちゃんと教えてくれるの?」
「好きな人ができたんだ」
そう答えると、沈黙のあと、ヒコ姐さんが大声で笑うのが受話器から聞こえた。
「あのマキが、そんなベタな理由で辞めるの、ちょっと面白くない?」
「私はベタで、古臭い女なんですよ。わりと」
通話を終えると、アヲイは次にチェヨンにラインを送った。
《いろいろ考えたけど、私、やっぱり日本に残ることにするよ》
《そうかよ》
《あ、起こしちゃったらごめん》
《日本に来てから色んな女に会ったけど、恋愛的にアリなのはアヲイだけかもしらん》
《ありがとう》
《泣くからしばらく帰ってくんな、ボケカス》
最後にアヲイはリョウのアパートを目指した。ぼんやりとしていた気持ちは、まるで、カッターナイフで鋭く研いだ鉛筆みたいにもう真っすぐになっていた。
※※※※
そんな風に都合のいい夢ばかり見て人生を回すことなんかできないんだよ。
※※※※
リョウのアパートのチャイムを鳴らすと、だいぶ経ってから彼女は出てくる。目が充血していて、片手にチューハイ缶を持っていた。吐息からアルコールの匂いがする。
リョウはボーっとアヲイの顔を見つめてから、
「入って」
とだけ言った。アヲイは靴を脱ぎ、いつものようにベッドに腰かける。
リョウのベースと、ギターと、シンセサイザーを順に眺める。
テーブルの上にはダズハントの自主制作CDがあり、真っ二つに割れていた。たぶんリョウが自分で割ったのだろう、と思うと、アヲイの胸に重たい鉛がズシンと落ちてくるみたいだった。
「どうして」とリョウは酒を飲んだ。「ライブに来てくれなかったの? 最後のライブだったのに。けっこう盛り上がったんだけど」
「ごめん」
「いや謝らなくてもいいけど、なんで?」
アヲイは俯く。
リョウに酷いことをしたとは思っている。しかし、昨日に時間を巻き戻したとしても、やはり同じように酷いことを私はするんだ。
――なんだ、それ。
後悔も反省もなく人は人を傷つけることができる、ということをアヲイはこのとき初めて学んだ。
「ごめんね」とリョウは苦笑する。「アヲイを困らせたいわけじゃないし。ああ、お店の用事とか? 気にしないよ」
アヲイはリョウを見る。まだお酒を飲んでいる。「私も飲もうかな」と不意に口を突いて出る。
「いいね、朝からお酒」とリョウはアヲイの隣に座って新しいストロングゼロをアヲイに渡す。
アヲイがプルタブを引いて飲み終わるまで、リョウは黙ってタブレットで曲を流していた。
Pink FloydのThe Dark Side of The Moonだった。
リョウは缶を飲み干すと、音楽を止め、また新しい缶に手を伸ばそうとして、やめて、アヲイの腰に腕を回した。
「アヲイ」と彼女は言う。「寂しかったよ。ちょっと慰めて?」
「えっ」
リョウが体重をかけると、アヲイは簡単に押し倒されてしまう。抵抗できないわけではないのに、彼女への罪悪感で体に力が入らない。前もそうやって長いあいだ性器と口唇と乳首を弄られて、何度も何度も身体を痙攣させた。
「――ごめん、リョウ」
「どうして? 別にいいでしょ」
リョウは顔を近づけてくる。鼻の頭と鼻の頭が触れ合っても、アヲイは自分の唇を噛んでキスに応じない。
「アヲイ、意地悪しないでよ?」
リョウはゆっくりとした手つきで、アヲイの男装スーツのネクタイと、ズボンのベルトを外した。アヲイはなんとかリョウの両肩に手をかけて、押し戻そうとする。上手くいかない。
「アヲイだって前、よかったでしょ? しようよ?」
「駄目、できない」
「――そんなこと言って、ぜんぜん抵抗してないし」
そうしてリョウがアヲイの胸元に顔を寄せて、そこで、動きが止まった。
「リョウ?」
「なんで?」と、リョウが少し離れて言った。泣きそうな顔だった。
「なんで? アヲイ、男のニオイがする」
そんなの彼女の錯覚だ、という思いと、きっとユーヒチの匂いだ、という思いでアヲイは混乱するしかない。
「わ――」
アヲイはやっと言葉を振り絞った。
「私の体、もう、ユーヒチのモノだから、リョウとはそういうことできない」
世界を崩壊させる核爆弾のスイッチを押すほうがたぶん気楽だな、と思った。
リョウは、一瞬「はっ?」という音を漏らして、それから、どこも見ないでハハッ、と笑い声を上げた。
「なにそれ?」とリョウは言う。「ユーヒチくんとそういうことしてたってこと? 昨日。だから、私のライブにも来てくれなかったってこと? はっ? それで私の部屋にのこのこ来てそれ自慢してそれ聞かされてる私って何なの?」
「そんなつもりじゃ――」
「ふざけんなよ! お前! ふざけんな!!」
パァン! と耳の奥で音が響いて、一瞬、何が起きたか分からなかった。
少し遅れて、それはリョウがアヲイの右頬を平手で張った音だと分かる。絆創膏が剥がれた。
「ごめん」
アヲイは言った。「ごめん、リョウ」
リョウは肩で呼吸しながら、アヲイの左手首を掴んで押さえながら服を脱がせていった。
アヲイの脳内で記憶がチカチカと光る。ユーヒチの声が聞こえる。
この世界でも私はユーヒチと一緒だ。
「――ああああ!」
彼女は咄嗟に、右手で自分のバッグを掴んで、それでリョウを殴った。
「ッ痛」
鞄の中身がバラバラにこぼれていく。財布。そして、レズビアン専用風俗店『シンセシス』の「マキ」の名刺。
アヲイは最後の力を振り絞って、でも、それしかできない。
リョウに大したダメージはない、肉体的には。ただ、リョウが深く傷ついているのを表情で悟る。元々の世界でもこんな風に傷つけてきたのだと思うと、もうアヲイは、少しも動けない。
リョウは名刺を拾う。
「ユーヒチくんはさ、これ、知ってるの? アヲイの仕事」
「――え?」
「知らないなら、ちゃんと教えてあげないと駄目なんじゃないの? ね」
リョウは囁いた。そんな風に彼女が残酷なことを言うのは、傷ついた自分自身をもっと傷つけるためだということがアヲイには分かった。
「そうだよ、アヲイ。こういうの後々ばれたらトラブルになるんだから、ちゃんと言っとかないとさ」
リョウは言いながら泣いていた。アヲイは、チェヨンの言葉を思い出していた。
《なんでかって、客に妬いてるよ、私》
彼女の涙がボタボタとアヲイの顔や体に落ちる。アヲイはもう裸だった。そうしてリョウもゆっくりと脱ぎ始める。
「アヲイが言いにくいなら、私がユーヒチくんに会って教えてあげるよ」
「やめて」
「ユーヒチくんにだって知る権利があるでしょ? 自分の女になるんだから、そうだよね?」
「やめてよ」
「アヲイが普段は、王子様のふりなんかしてさ、どんな薄汚いオバサンとかブス女に触られて体をベトベトにして穢されてるのかってさあ! ねえ!! アヲイ!!」
「ああああ!! やめろ!!」
アヲイは叫んだ、が、それでもリョウを芯から拒むことができない。
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