第7話 表層的なデータベース
※※※※
一ノ瀬アヲイは病院のベッドで目覚めた。見慣れない天井が視界に入ると、彼女は少しずつ、自分の身に起きたことを思い出した。
ジュンに突き飛ばされて階段を落ちたとき、なんとか怪我をしないようにしたんだっけ。
手のひらを掲げると、いま着ている服が、ごく普通の女物のブラウスとスカートであることに気づいた。
あれ?
撮影のために、男装用のスーツを着ていたんじゃなかったの? だいたい、こんな服は私は着ないのに。
アヲイが戸惑っていると、ベッドのカーテンを開けて、女性の医師が入ってくる。薄茶のボブカットで、物憂げな垂れ目の女だ。小柄な体に対して白衣の大きさが合っていないのだろう、手の甲まですっぽりと袖が覆っている。
「よく眠れたかい?」
その人が誰なのか分からない。
「あんた誰だ?」とアヲイが訊くと、彼女は少し驚いたように目を見開いて、それから首を振った。
「アナタが私を忘れるのはいつものことだね。まあいい、もういちど自己紹介するよ。
私は住吉キキ。アナタの主治医だ」
「主治医?」
アヲイは掛け布団を払って起き上がる。「私、階段から落とされて怪我したんだ。それの治療ってこと?」
「階段? 何の話だい?」
そう言われて、アヲイは自分の体を見る。
何の傷もない。痛みすらなかった。
え?
キキは近くの椅子に座った。「悪い夢でも見ていたんじゃないかなあ。アナタがここで眠っていたのは、診察中に頭痛を訴えたからだ。それは覚えてる?」
アヲイは首を横に振った。「ここはどこ?」
「病院だよ」とキキが答える。そして、鏡を見せてきた。
「さて、これが誰だか分かるかな?」
アヲイは自分が映っているのを見て、「私です」と答えた。
「――フゥン。自己認識に問題はナシ、っと」
キキは鏡をしまうと、「それじゃあ自分の名前を言えるかな」と訊いてきた。
「九条アヲイです」
「違うよ」
彼女は否定した。「アナタは一ノ瀬アヲイだよ。そうだろう?」
一ノ瀬?
アヲイは混乱した。一ノ瀬は、彼女の実の両親の名字だった。両親が死んだから、私は九条家に引き取られて今まで生きてきた。だから今のアヲイの名字はヱチカと同じ九条だ――そのはずだった。
え?
「一ノ瀬という名字はもう使ってません。何かの間違いじゃないですか」
「――やれやれ、今までのどんな来院よりも今回は重症みたいだねえ?」
キキは立ち上がった。
「すまないね。アナタの病気は、現代医学では原因も治療法も分からないよ。だから、毎回こうやって症状の進度を確認するしかないんだ」
「? はあ」
「ご両親が控室で待っているらしいよ。今日はもう帰りなさい」
両親?
彼女に促されるまま、アヲイはスリッパを履いた。
「あの」
アヲイは診察室の引き戸に手をかける前に、もういちどキキを呼んだ。
「なんだい?」
「ユーヒチはどこにいるんですか? 彼の居場所を知りたいんだけど」
彼女がそう訊くと、キキは悲しい顔をした。どうしてそんな顔をするんだろうと彼女は思う。
「夢のことは忘れたほうがいい。それはウソの記憶だよ」
アヲイが待ち合わせ室に行くと、父親と母親が心配そうな表情でそこに立っていた。
――死んだはずの両親が生きていた。
彼女が覚えているのは、あくまで十年前の両親だ。だから、そこから考えると少し老け込んでいるように見える。父親は少しばかり覇気を失っているし、母親のほうは、娘を持って神経質になったのか、昔の奔放さをほとんど失ってしまっているようだった。
ただ、それでも、二人が自分の両親だということは一目見てアヲイに分かった。
「父さん」
アヲイが声に出すと、父親がゆっくり近づいて「お医者さんは何て言ってた?」と確認してくる。
「え? いや、別に」
「――そうか」
母親が自分を見ながら涙ぐんでいる。
なんで泣いてるの? 泣きたいのは、私のほうだよ。
だって、父さんも母さんも生きてる。
アヲイの頬を伝う雫を父親がゴシゴシとこすると、「どうしたんだ?」と優しい声で訊いてきた。
「あ、いや――」とアヲイは答えようとする、が、涙腺がほとんど壊れてしまったかのように、涙が止まらなかった。
「と、父さんも、母さんも、い、生きてるのが、嬉しくって――」
その場にアヲイはうずくまった。それを彼女の父親と母親が必死でなだめる。その、家族としての当たり前の優しさを嬉しいと彼女は思う。
アヲイは十年もの間、実の両親の愛情に触れないで生きてきた。
しかし、今、アヲイが地に足を着けて生きているこの世界では、しっかりと彼女は父親と母親に愛されて存在しているのだ。
※※※※
車の後部座席に揺られながら、父親が「えっと」と口火を切る。「アヲイ、今はどのくらいちゃんと覚えてるんだ?」
そんな風に訊かれても、彼女は脳がボンヤリとして上手く答えられない。
「あのさ、父さん」
「どうした?」
「私の部屋にギターってある? エレキギター」
「何言ってんだよ」
赤信号で車を止めると、父親が振り向いた。「アヲイはギター弾いたことなんかないだろ?」
じゃあ、ギター買いたいな、というアヲイのワガママを両親は受け入れて、国道沿いの小さな楽器店に入った。
「娘がギターを習いたいと言いましてね」
「ほー!」
壮年の店長がレジから顔を出して、「うわっ、びっくりしたよ。すごい美人ちゃんだねえ!」と声を出した。
「そうなんですか?」
「うん! 君がロックスターなら、それこそ音楽シーンを全部塗り替えちゃうくらいのカリスマになってるだろうね! いやいや、これ本当!」
「あはは」
アヲイは笑顔を返した。店長の言うことはよく分からなかったが、彼女は、たしかにステージの上でギターをかき鳴らした記憶がある。
――もしかすると、それもただの夢だったのだろうか?
アヲイは店内を回りながら、店長の「ビビッときたのがあったら言ってね!」という言葉を聞き流す。「アヲイちゃんの場合、体がちっちゃいから、ちょっと小ぶりなサイズのギターのほうが弾きやすいかもだ!」
――アヲイは一本のギターの前で足を止める。
それはFujigenのNeo Classic NTL10MAHだ。
「これ」
彼女は指差した。
「ん? それが気になるのかい?」
「気になるっていうか」とアヲイは言った。「これが欲しいです。これにします」
「他のは見なくていいの?」
「はい」
「――憧れのギタリストでもいるの? その人が使ってたとか」
「いえ」
アヲイは首を振った。「前にこれを使っていたような気がするんです」
「ハハハ!」
店長は笑った。「これからギターを始めるのに、前に使ったことがあるって、どういうこと?」
もっともな疑問だと思った。
「私、やっぱりアタマおかしいスか?」
そう訊くと、店長の態度が急によそよそしくなった。
「――そこに椅子を出すよ。あとストラップも。好きなだけ試し弾きしてくといい」
そしてアヲイは椅子に座り、ギターを構えた。
――あれ?
ピックを持つ自分の手がピクリとも動かないことに、彼女は気づいた。弦を見ても、どこを押さえればどう音が出るのか全く思い出せない。
ギターを弾けなくなってる、私。おかしい。ステージに立ってたじゃないか、前に。
アヲイが呆然としていると、店長が教本を持って再び現れた。
「ジミ・ヘンドリックスだって初心者の頃はあったんだから。気にすることはないよ」
※※※※
家に帰ると、階段を上がって左手に自分の部屋がある。とても懐かしい、とアヲイは思った。
――父さんと母さんが死んじゃったあとは、家も売り払われて、それからずっとヱチカん家だったもんな。
でも、その両親はここで生きている。だから自分の部屋にいられる。
部屋の隅にスタンドを置き、そこにギターを架けると、その他機材諸々の段ボール箱を床に降ろした。
本棚を見ると、精神医学の書物が溢れている。全て見覚えがないものばかりだ。アヲイが読んだことがあるのは、大学のゼミで必要だった哲学書ばかりだったのに。
あっちの世界とこっちの世界では、読みたがる本が違っていたらしい。
置き時計で日付を確認する。ばっちり平日だ。
「父さん」とアヲイは呼んだ。「私、今日は大学行かなくてよかったの?」
「――アヲイは半年前から休学中だよ。今はゆっくり休むときだと思ってね」
「ふーん」
実感が伴わない情報だった。大学に通っていないというのなら、私は毎日何をしているのだろう。不明だ。
父親はゆっくりと部屋に入ってきた。「なあアヲイ」
「ん?」
「父さんたちは、アヲイが生きてるだけで幸せだよ?」
「えっ」
「だから、急いで治そうとか、頑張って早く大学に戻ろうとかは考えなくていいんだ」
「――そっか。分かった。ありがと」
アヲイが笑うと父親も表情が崩れる。
「アヲイのギター、ちょっと弾けるようになったら教えてくれよ。聴いてみたいと思ってる」
「ははは。うん」
なんだか面白い要望だと思った。
父親が出ていくと、アヲイはカレンダーを見た。明日の枠に「ヱチカとライブ」と書いてある。
――ヱチカとライブ?
アヲイは机の上にあるスケジュール帳を開いた。
《朝、ヱチカが迎えにくる。コンプレックスプールのライブがある。ヱチカがベースの男の子を気に入ってるらしい》
そう書いてある。
――コンプレックスプール?
ユーヒチがやってたバンドだ! とアヲイは思う。たしか私たちと合流して感傷的なシンセシスになる前は、そんなバンド名だったはずだ。
こっちの世界でもユーヒチとの接点はあるわけだ。
「へえ」
顔が少し赤くなった。なんだ、会えるじゃんかよ。
アヲイはスケジュール帳の隣にあったフリーノートをめくる。
《頭の中の大事な記憶がどんどん消えていく。たぶんもう同じ入試を受けても合格できないよね。自分が信じられないくらいバカになってくのが悲しい》
そう書いてあった。
バカになるくらいのことが何なんだよ、どうでもいいだろ、と、アヲイは少し不思議に思った。さらにページをめくる。
《不気味な夢。ありもしない両親の死》
両親の死。それはアヲイにとっては現実だった。
《両親の死後、私はヱチカの実家に引き取られた。だけど、どうしてそんな夢を見たのか分からない。私のせいで大勢の人が不幸になってしまった。その世界では、私はただの邪魔者だった。出すぎた夢を持つな、という忠告夢だろうか。私はギターなんて触ったこともないのに。やめて下さい》
アヲイはだんだん嫌な気分になりながら、さらにページをめくった。
《お前は誰だ!!!!
ねえ誰なの!!!!
私の脳ミソをグチャグチャにするのはもうやめて!!!!
何が目的なの!!!
お前のことなんか知らない!!!!》
ボールペンで、強い力で大きく殴り書きしたのが最後のページらしい。そこで終わっていた。
「なんだ、こりゃ」
アヲイはフリーノートをゴミ箱に捨てた。
「――わけわかんねえ」
彼女は服を脱いで、部屋着に着替えた。部屋着の場所は覚えていた。覚えていた? それで表現が正しいか分からない。ともかく知っていた。
そうして家屋の階下から、夕食が用意できたことを知らせる母の声がする。
「――ギターは弾けなくなってるけど、父さんも母さんも今は生きてるんだ。それで良かったじゃないか」
そうアヲイは思った。
※※※※
翌朝。
アヲイがベッドで眠りこけていると、車のクラクションが盛大に響いた。ぷっぷー、という音だ。
「ああ? うざ」
頭を抱えながらカーテンを開けて窓を開けると、家の前の道路に豪奢なベンツが停めてあり、その運転席に九条ヱチカが乗っていた。
「へ?」
「アヲイねーちゃん!!」
車のドアを開けて呼んでくる。そのあと、彼女はもういちどクラクションを鳴らした。
ぷっぷー。
そうだ、今日は出かけるんだった。
アヲイは「家に入って待ってろよ。支度するから」と声を張ると、窓を閉め、タンスから洋服を取り出す。
――んん?
なんというか、どれも自分の気に入らない感じだ。
スカートなんて履かないのに、大量にある。実際に「スカートなんて履かないし」と口に出して言ってみた。うん、この違和感は本当だ。
――人生の選択肢が違ったら、趣味とか価値観ってこんな違うの?
寝汗で濡れた下着を変え、なんとか見つけた数少ないジーンズに足を通す。でも、トップスはどれも身体のラインにぴったりする可愛い系のブラウスで、全部イヤだった。
あ、そうだ、とアヲイは思う。
両親の寝室にそっと忍び込み、父親の洋服が入ったタンスを開けた。「父親の洋服が入ったタンス」がどこなのかは勝手に覚えているらしい。
――やっぱ便利、この脳ミソ。
黒いTシャツに腕を通すと、ダボダボになった。鏡を見て「ま、いちおうこれでいいや!」と納得する。
ギターケースを背負って一階に降りると、ヱチカは両親と談笑していた。先に洗面台に寄って顔を洗い、歯を磨いてから、リビングに入る。
「ヱチカ、お待たせ!」と呼びかけると、彼女と両親が振り向き、直後、三人の表情が固まった。
――あれ?
母親が「その服、どうしたの?」と訊いてくる。
――やべっ。
アヲイは「ああ、えっと」と言い淀む。「今日はこれで出かけたい気分というか」
「何それ」
母親が冷たい声で問い詰めてきた。「それ、お父さんの服でしょ。どういうつもりなの?」
「え、え」
アヲイは父親に目線を送る。――助けて。
彼は静かに「――どうしてもそれを着ていきたいか?」と訊いてきた。
「う、うん」
「理由はあるんだろう? 話してごらん?」
「――自分の服が急にイヤになったんだよ。私、こういうほうが好きなんだ。スカートももう履きたくないから、全部捨てといてよ」
「――そうか」
父親は目をしばしばさせて、頬をかいた。その仕草がユーヒチに似ているとアヲイは思った。
いや、逆だ。ユーヒチが父親に似ている。
母親が黙り、ヱチカが心配そうに全員をおろおろと眺めていると、父親が静かに結論を出した。
「分かった。いってらっしゃい」
ベンツの助手席に乗り、後部座席にギターケースを置くと、ヱチカがおかしそうに笑いだした。
「? 何?」
「アヲイねーちゃん。ライブやるんじゃなくて聴くだけ側なのに、なんでギター持ってきてるの?」と彼女が訊いてくる。「っていうか、アヲイねーちゃん、ギターなんて弾けたの?」
「ああ、えっと」
別の過去では天才的に弾けたんだよ、という本心は言わず、アヲイは、
「最近始めたんだよね」とだけ答えた。「サイン貰おうと思ってさあ。なんか持ってきちゃった」
――なかなか良い嘘だな、と我ながら思った。
「そっかぁ」
ヱチカはベンツを発進させる。
アヲイは「ヱチカこそ、いつの間に免許取ったの?」と訊いた。
「えぇ?」
変な声を出しながら、ヱチカはカーステレオをスマートフォンと無線接続する。「そんなの去年のことじゃん。忘れちゃったの?」
「――うん、ごめん。覚えてない。ほら、脳ミソ壊れちゃってるからさ、私」
アヲイがそう答えると、ヱチカはハッとした顔で、次の赤信号に捕まるまで全く何も言わなかった。
そうして車が停まると、
「アヲイねーちゃん、ごめんね。ヱチカちゃん無神経だったね」と謝罪した。
「そんな謝んないでよ」とアヲイは笑う。「逆に申し訳ないよ」
「ううん、ちゃんと謝らせて」とヱチカはアヲイのほうを見た。カーステレオはEmerson, Lake & Palmerのアルバムを流している。
エチカはハンドルから手を離して、アヲイの頭を優しく撫でた。
「アヲイねーちゃんの病気、早くよくなるといいね?」
「――ん、ありがと」
そうして青信号に変わった。
ヱチカは「じゃあ、アヲイねーちゃんが許してくれたから、これでこの話はおしまいだね!」と努めて元気そうに言った。こんな風に実は人を思いやれるというのがヱチカの良さなんだな、とアヲイは改めて思った。
「あ、そうだ!」とヱチカは言う。「ヱチカちゃんのカバンに入ってるポスター持ってって!」
「ああ、これ?」
運転席と助手席の間に置かれたエルメスのバッグをアヲイは持ち上げ、小サイズのポスターを取り出した。
ピアノのコンサートのそれだった。
「ヱチカちゃん今度ひとりでやるんだぁ!」
たしかに、そこには九条ヱチカの名前が書かれていた。
アヲイは「ピアノ続けてたの?」と訊いた。
「ええ? なんでえ? ヱチカちゃん天才なんだから辞めるわけないじゃん!」
彼女は笑った。その表情をアヲイが知ることは今までなかった。
――そうか。こっちの世界だと、ヱチカはピアノやってるんだ。
なんで?
――私が義姉になっていないからだ、とアヲイは思う。
小さい頃、ヱチカが苦戦しているピアノ曲を横で見ていた「九条アヲイ」は、
「ちょっと貸して」
そう言って生まれて初めて触れたピアノで難なく弾きこなしてしまったことがあった。
ただ、認められたかったのだ。ヱチカが上手にピアノを弾いて母親に褒められるなら、私もそうすれば褒めてもらえる、と。
きっとこの家の子供になれる、と。
だが、その日から、アヲイはピアノを弾くことを義母に禁じられた。ヱチカの母親はアヲイの頬を張り倒すと、こう言った。
「アンタがいるからヱチカが自信を持てないの。分かった? ヱチカが絵を描きたいと言ったらアンタは絵筆を折りなさい。ヱチカが歌を歌うならアンタは喉を潰すのよ。――ほんとに、薄気味悪いわ」
アヲイは笑って泣きながら義母の言いつけを守った。
「分かりました。お義母さん。言うこと全部聞きます。だから捨てないで下さい。この家にいさせてください」
――後日、ヱチカもピアノを辞めた。
「アヲイねーちゃんのほうがずっと上手いのに、なんでアヲイねーちゃんがピアノやめなくちゃいけないの!? ヱチカちゃんが下手くそなせいって言うなら、ヱチカちゃんだってもう弾かないもん!」
――はは、そんなことがあったな。とアヲイは思う。
こっちの世界ではヱチカはピアノの演奏を捨てずに済んでいるのだ。そうして、ちゃんと世の中に評価されるようになるまで努力できている。
私がいなかったおかげで。
――よかった、と思えた。
そうしてヱチカが威勢よくハンドルを切って交差点を曲がる。
※※※※
ベンツは池袋サンシャインシティの駐車場に停まった。
「丸一日停めたって、4000円もかからねえぜい、ベイビー!」
ヱチカはそう笑って外に出て運転席のドアをバム! と閉める。
「ここらの書店かゲーセンでモモコちん拾うからあ、アヲイねーちゃんもどこかで時間潰しててよ」
と彼女は言う。
はーい、とアヲイは思った。そして財布を開ける。
昨日までの自分はお金を全然使わなかったらしく、軍資金はたっぷりある。彼女は、自分の服装をもういちど見下ろして確認した。
――やっぱりあんまり気に入らない。特に靴がパンプスだ。これだと動きにくすぎるや。
アヲイはスポーツ用品店にに入って白いスニーカーを選ぶ。
ついでにメンズの野球帽を買って、すぐ目深に被った。
――やっと落ち着いた、いつもの自分っぽい。
父さんのシャツは、まあ、このままでいいか。
以前の自分が履いていたパンプスについては、こっそりと、サンシャインシティ施設内のゴミ箱に捨ててしまう。
そうして書店に向かった。むろん意図はある。雑誌で情報を得たかった。
――私の両親が生きていて、私が両親のもとで育っていたことで、既にヱチカの人生には影響が出ている。ということは、自分が気づいていないだけで、なんかこうバタフライエフェクト的に日本史が変わったりしていないだろうか。――ともかくそういう情報を得ておかないと、今後の会話でボロが出ちゃうし。
アヲイは書店に入る。すぐに目に入るのは、今年半期の芥川賞受賞作の平積みだった。タイトルは、前に自分が知っていたものと同じだった。
――中身はどうだ?
念のため、アヲイはハードカバーを手に取ろうとした。そのとき、隣にいた女の子と手が触れてしまう。
「あ、ごめん」
アヲイがそう言うと、
「すいません! すいません!」
と、相手の女の子は平謝りしながら、こちらから遠ざかっていった。アヲイは戸惑いながら、
「あの、どうぞ、これ」と言って本を相手に差し出す。「読もうとしてたろ?」
「い、いえ、そんなことは、なくて、いえ、ないとも言えなくてすみません!」
「なんだよ」
アヲイはムッとしながら、その声に聞き覚えがあることに気づいた。
――それは間違いなくモモコの声だった。
「モモコか?」
アヲイがそう訊くと、モモコはいったん「ひいっ!」と身を竦めてから、恐る恐るこちらを覗き込んできた。
「あ、アヲイ先輩――? なんですか?」
「そうだよ?」
彼女は答える。
アヲイはモモコを見ながら、
――これがモモコなのか? と、呆然とする。
体のサイズがひと回りほど横に大きくなっていて、肌も荒れている。髪はどう見たって美容師が手入れしたように見えない。たぶん、自分で切っているのだ。かつて元の世界でグレていた昔のアヲイ自身のように、だった。
――はあっ?
アヲイが黙ったままでいると、ヱチカが書店に辿り着いて二人を見つけた。
「あ、もうここで合流してたんだ? それじゃあ、今からライブ会場に歩いていきますよ~!」
そう言って先陣を切りながら、ヱチカはアヲイに耳打ちする。
「モモコちん、やっと外に出れるようになったんだから余計な話はNGだからね?」
「やっと、外に?」
アヲイには訳が分からない。「モモコも大学休んでるってこと?」
「――モモコちんが大学行ってるわけないじゃん。小学校からずっと不登校だよ?」
「――え」
アヲイは頭が真っ白になる。モモコは東大理Ⅱに合格していて、今ではソフトウェア工学の専攻を視野に入れていたはずだ。
なんでだろう。アヲイは必死に考える。
モモコは小学校時代にイジメを受けていた。ヱチカにはそれは止められなかった。じゃあ、誰が止めた?
決まっている。九条家に引き取られてヱチカと同じ小学校に通うことになった自分が止めてみせたのだ。暴力的に。イジメの加害者にひとりずつ生き血を流させるような方法で。
クズは自分の痛みがなければ何も学ばない。体罰を禁じられた教師はクソガキに何も教えることができないフニャチン以下のカスだ。
九条アヲイが、義理の妹であるヱチカの味方をしたかったから、モモコは助かった。
――この世界では、それが起きていない。誰もモモコを助けていない。
だからモモコは今、こんな風になってる。
アヲイがモモコのほうを振り返ると、彼女は、卑屈そうにえへらえへらと笑いながら、鈍臭い歩みで自分の後をついてきた。
なんだよそれ、とアヲイは思った。
エチカがこんな風にモモコを構っているのは罪滅ぼしのつもりだ。それは分かる。それをいちいち責めるつもりはなかった。
ただ、アヲイは、いま自分が生きている世界が少しも正しくないということに気づいた。
※※※※
ライブが終わったあと、ヱチカとモモコはすぐに駐車場に戻ろうとしたが、アヲイはその場に留まった。「ギターにサイン貰いたいし、他に用事も色々あるからさ、先に帰っててよ」と彼女は言った。
ヱチカはじっとアヲイを見て「アヲイねーちゃん大丈夫?」と訊いてきた。
「大丈夫だよ。何が?」
「なんか、酷いことが起きそうだと思って。――ただの勘だけど、ちょっと怖いよ」
「ははは」
ぜんぜん気にしなくていいよ、うちの両親にもそう連絡しておいて。そう伝えて二人と別れてから、アヲイはライブハウスに戻った。
だが、ハコの中に入ることはできなかった。
待ち受けに「関係者ですか?」と訊かれる。
「そうです!」と答えようとして、いや、こっちの世界だと違うのかと思い直し、「ファンなんですよ、私」と言い換えた。
待ち受けは「ああ――」と頭を掻いた。「すみませんね、前にそう言って中に入った子がトラブル起こしたことがあって。ギターの人と痴情のもつれっていうのかな。だからごめんなさいね」
そうですか、分かりました、と答えてアヲイはその場を離れた。
今ごろ、ライブハウスの中で打ち上げをしているところだろう。それが終わったら二次会の席に移動する。
そのときユーヒチに会えばいい。
手持ち無沙汰になったので、近場のコンビニに入って酒を買い、ハコの出口が見える場所で飲んだ。
このとき自分のしていることがほとんどストーカーじみている、とか、そういう判断をアヲイができるわけがなかった。――もしかしたらモモコの一件が、彼女を動転させていたのかもしれない。
だいたい1時間と30分が経過したあたりで、コンプレックスプールの三人はライブハウスから出てきた。
――来た!
彼らが路地裏に入った時点で、アヲイは飲み残しの缶を捨てて駆け寄った。
「ユーヒチ!」
ユーヒチが振り向く。あっちの世界と同じだ。整った目鼻立ちと、左右非対称の瞳の色。短く切り揃えられた黒髪。
「えっと――」と彼は言った。「どなたですか?」
「私! 私だよ、ユーヒチ! アヲイだってば!」
こっちの世界にも、ユーヒチがいる。
その嬉しさで、胸がいっぱいになる。さらに近づこうとすると、
「ああ、ごめんね」と、ガロウが彼女の肩を押さえた。
「オレたちさあ、そういうファンサはしてねえんだよ。でも、応援ありがとね」
そう言って彼女をあしらおうとする。
「ガロウじゃん。ガロウも久しぶりって感じだなあ!」とアヲイは言う。
不審がるガロウにアヲイは話しかける。
「ねえ、ガロウ、ちょっと取り次いでよ。ユーヒチは忘れてると思うんだけど、私は覚えてるの、ユーヒチのこと!」
アヲイが思わず笑みをこぼしながら訴えると、ガロウがユーヒチに振り返り、
「知ってる奴か?」
と訊く。
――ユーヒチは黙って首を横に振った。
ガロウが冷たい目でアヲイに向き直る。「な、知らないってさ」
「そんな――」
アヲイは言葉に詰まりながら、シシスケを見る。彼は我関せずという感じで、こちらに目も合わせなかった。
こっちの世界では私はただのファンで、相手は似たような女の子を大勢処理しなくちゃけないバンドマンだ。
どうしたら話を聞いてくれるだろう?
アヲイは少し考えてからユーヒチを見つめた。
「そうだ、ユーヒチ。私、ユーヒチの住所知ってる。
前に泊めてくれたじゃんか。
大塚駅から徒歩で十分のXXXXってアパートのXXX号室に住んでるでしょ!」
アヲイは言葉を続けた。
「ほら、ただのファンじゃないんだって! ユーヒチ! 話を聞いて! ねえっ!」
彼女が言葉を重ねれば重ねるほど、ユーヒチの表情は凍りついた。
「てめえ、いい加減にしろ!」
しびれを切らしたガロウがアヲイの肩を押す。アヲイの身体は平気でよろめいて、足元のおぼつかない彼女はそのままよろよろと倒れた。
怪我はない。都合よく路地裏にあったゴミ捨て場のゴミ袋がクッションになって、彼女を受け止めた。
「あ、え」と声を出しながら、アヲイはガロウとユーヒチを見上げた。
ガロウの表情に、すぐ「やりすぎた」という後悔の色が浮かぶ。
――こういう場面で悪人になりきれないのがガロウという男だ。
だが、すぐにその色を消して、ゴミ溜めのアヲイを見下ろしながら「ケッ、イカレ女がよ!」と吐き捨てた。
ユーヒチがガロウの肩を掴む。
「やりすぎだろ。相手は女の子だぞ」
ガロウはその腕を振り払い、
「うるせえ!」
と怒鳴った。
「甘えんだよユーヒチはよぉ! どうせこういう連中は日本語なんか通じねえんだよ! 脳ミソ狂ってんだからよ!」
――ニホンゴガツウジナイ。
誰のことだ?
ああ、私のことだ、とアヲイは思った。
――イカレ女が。
誰のことだ。
それも私のことだ、とアヲイは思った。
ガロウはユーヒチの背中を強引に押して、行こうぜ、と呼びかけると歩を速めていった。シシスケも眼鏡の位置を直しながら二人についていく。
そうして、アヲイだけがひとり、ゴミ袋のベッドの上で置き去りにされた。
「――はは、はは」
彼女はゆっくり起き上がろうとして、
「痛」
肩に傷を負った。ゴミ袋のなかに針金のハンガーがあったようで、飛び出した金属がアヲイの肩を切り裂いて血を滲ませていた。
父親から借りたTシャツも破けてしまった。
――アヲイは自分の両手をじっと見つめる。
それは、ギターを弾くことができない手だ。
ユーヒチとの間に何の接点も持てない手だ。
「――ああああ!」
アヲイは怒鳴って両手で自分の太ももを殴りつける。鈍痛。しかし、胸の痛みに比べたら何でもないような感覚だった。
次にアヲイは自分の頭をポカポカと叩く。
「なんだよこれ」と声に出して呻いてみる。
「なんなんだよ、このクサれ脳ミソ――!」と叫んでみる。
ユーヒチといっしょにいることのできた世界に帰りたい。ユーヒチと結婚の約束をした元の世界に戻りたい。
自然と涙が浮かび、アヲイはそのまま、うずくまって路地裏で泣いていた。
足音が聞こえ、自分の前で止まる。顔を上げると、
川原ユーヒチがそこに立っていた。
「――はあ?」
アヲイが呆れていると、
ユーヒチはその場に膝をついて、「立てる?」を手を差し伸べてきた。
アヲイは頬の涙をぬぐう。「なんだよ、イカレ女のところに戻ってきたのかよ?」
「うん」と彼は答える。「二人には、忘れ物をしたって言ってきたよ。――上手く言えないけど、心配だったからさ。えっと、アヲイさんだっけ」
アヲイはユーヒチの顔を見た。「どうせ信じてないくせに、なんで、心配なんだよ?」
ユーヒチはアヲイから目をそらさず答えた。「君が嘘をついているようには見えない」
※※※※
それが最も自然な成り行きかどうかは知らないが、アヲイはユーヒチのアパートに招かれていた。
彼女の無事を確認したら一人で帰すとか、ガロウとシシスケとの二次会に合流するとか、そんな選択肢も彼にはあったのかもしれない。けれど、アヲイの肩の切り傷を見て、ユーヒチの顔色が変わる。
「痛む?」
そうユーヒチが訊くと、アヲイは条件反射のように、また涙が溢れる。別に大したダメージじゃない。ただ嬉しいとは思った。
「よかったら、俺の家で手当てするよ。あいつらに連絡を入れるから、ちょっと待っててな?」
「いいの?」
「――正直、今のガロウと飲んだって何も楽しくないよ」
ユーヒチが険しい顔つきでスマートフォンを操作している、その表情がアヲイには不安だった。
「ねえユーヒチ、ガロウは悪くないよ。――たしかに私の脳ミソって異常だし、ちょっと突き飛ばされただけだよ」
「アヲイが異常だったら傷ついていいのか?」
強い反論だ。
「や、そんなこと言ってないけど――」
アヲイが困っていると、ユーヒチが軽く息を吐き、それから頬をかいた。
「――ごめん。アヲイがそこまで怒ってないのに、俺が勝手にキレてたら迷惑だな」
彼はスマートフォンをしまった。「アヲイも親とかに連絡入れたほうがいいよ。泊まりになったりしたら心配しちゃうだろ?」
「えっ、そうなんだ?」
「え?」
「子供が家に帰らないと、親って心配するものなの?」
アヲイには、そんな経験がないから分からない。九条家に引き取られた世界では、どこに何泊してフラついていても何も言われなかった。むしろ、家にいるほうが義母に白い目で見られていた。
ユーヒチは「そうだよ、心配するさ」と答えた。
大塚駅から徒歩十分のアパート。
ユーヒチの部屋の様子は、あっちの世界で泊まったときと何も変わらない。ただ、音楽雑誌の最新号の表紙がアヲイには目新しく映った。
――ガールズロックの新時代! と銘打たれた特集号の表紙で、西園カハルと朴セツナの二人がコスプレをキメていた。カハルの男装スーツ姿に対して、セツナがシックなドレス姿だ。
カハルともセツナともアヲイは話した記憶がある。でもそれはもう、随分遠い歴史上の出来事みたいになってしまっていた。
ユーヒチが「着替え、俺のしかないけどいいか?」と彼女に訊きながら、木製の薬箱を取ってきた。
「あ、うん」
「自分で消毒できる?」
「むずい。背中じゃん」
「分かった。じゃあ脱いで」
アヲイは父親のシャツを脱ぎ、上半身だけ下着姿になった。あぐらをかく。
ユーヒチは背中に回って膝をつくと、「染みるよ?」と言ってからアルコールを吹きかけた。
「いたっ、たたた!」
「駄目、じっとして」
「いたい、あ、うう」
切り傷がズキズキと残響して、側頭部まで脈打つみたいだった。
ユーヒチが「よかった。傷は浅いよ。これなら病院に行かなくてもいいな」と言いながら、最後に布のガーゼを押し当てて、テープで固定した。
アヲイは荒くなった息を整えながら、「てか、ユーヒチめっちゃ慣れてるね」と言った。
「え? ああ。昔は少し不良やってたからさ。こういうのはよくやってた」
そうなんだ。
意外。
アヲイがユーヒチのTシャツを新しく着て、ついでにユーヒチのジャージを履かせてらうと、彼のほうは冷蔵庫から冷凍食品を取り出してレンジに入れる。
そして酒瓶とコップがテーブルに置かれた。
ユーヒチが「タバコ吸うなら、換気扇の前に灰皿とライターあるから」と言った。
そう言われてアヲイは、自分がこの二日間ハイライトを吸っていないことに気づいた。なぜだろう。こっちの世界の身体はニコチン浴びてないのか。
レンジが加熱を終えた。ポテトとチョリソーとミートソースのスパゲティ。
アヲイは「あのさ」と切り出した。
「ん?」
「ユーヒチの家に、これからも遊びに来ていい?」
「でも、大学とか大丈夫なの?」
「アタマの病気だから休学中で、やることないんだよ。ユーヒチと会うくらいしかさ」
「はは」
ユーヒチはフォークでポテトを刺した。「じゃあ、ギターの練習に時間を使うといいよ。それにバイトとかもすればお金は手に入るしさ」
アヲイはチョリソーを口に放り込む。
「そっか、バイトとギターか!」
アヲイは、なんだか目の前がパッと開けた気になった。
その日から約三ヶ月、アヲイはユーヒチのアパートに入り浸っていた。
ときどき日用品を取りに家に帰る。母親にはガミガミ言われるけれど、そんなの関係なかった。――じゃあ母さんの言うとおりに家でジッとしてたら、頭が治って大学に行けるのかよ? そう思った。
どうせ行き詰まりの人生だ、好きに生きさせてほしい。
ユーヒチがアパートにいるときはPCでいっしょに音楽を聴いたり、映画を見たりした。ユーヒチが大学に行っている間は、ギターを練習する。
それでも時間が余ったときはアルバイトに応募して金を稼いでみた。倉庫のピッキング作業やティッシュ配りをして日当を封筒で受け取った。わりと気に入ったのは、発売前のゲームで遊んでバグを見つけたら報告するやつだった。
手っ取り早く稼ぎたいなら、体を売るほうが早いんだろうなとは思ったが、ユーヒチ以外の男の人に自分の体を許すくらいなら死んだほうがマシだと感じた。
そしてユーヒチの口利きで、彼の知り合いが店長をしているレコードショップで月給制のバイトを始めてみた。
何日かすると、ガロウがユーヒチに連れられて、バツの悪そうな顔をしながらCDをレジに置いた。そして、頭をぼさぼさとかき回しながら、
「あのときは悪かったよ」と言った。
アヲイは笑った。
「気にしてないよ」と彼女は言った。「ガロウはそういう奴だもんな!」
そうしてアヲイとユーヒチの飲み会には、ガロウとシシスケも加わるようになった。あるとき、ベランダでガロウと煙草を吸っているとき、「ユーヒチのこと、マジで頼む」と言われたのが嬉しかった。
彼は言った。「あいつ、ああ見えて脆いからさあ。あいつの女になるなら、ちゃんと分かっててほしいわけ」
「――うん、任せて」
とアヲイは微笑む。
そうしてユーヒチとは、キスもセックスもするようになった。
ギターの練習時間がたっぷりあったおかげで、アヲイはある日、ひとつのUKロックを通しで弾き語れるようになっていた。
夜。ユーヒチが缶チューハイを飲みながら「ロックアーティスト、一ノ瀬アヲイの初ライブだなあ」と笑った。
アヲイも笑って「黙って聴け」とふざけた。そして弦を鳴らした。
こんな歌詞の歌だった。解釈したのはアヲイ本人だから間違いはあるかもしれないが。
OasisのWonderwallだ。
Today is gonna be the day that they're gonna throw it back to you
By now, you should've somehow realized what you gotta do
I don't believe that anybody feels the way I do about you now
今日がやってきて、みんなが君に投げ返してくる。
君は今ごろ、自分が何をすべきか気づいてるんだ。
私は信じてるよ、私よりも君を想ってるヤツはいないって。
Backbeat, the word is on the street that the fire in your heart is out
I'm sure you've heard it all before, but you never really had a doubt
I don't believe that anybody feels the way I do about you now
君の心の灯火は消えてしまったと、通りでは噂になっていて、
君も聞いていただろうけれど、気にも留めなかったんでしょ。
私は信じてるよ、私よりも君を想ってるヤツはいないって。
And all the roads we have to walk are winding
And all the lights that lead us there are blinding
There are many things that I would like to say to you, but I don't know how
私たちが歩く道はグニャグニャだし、導いてくれるはずの光も眩しすぎて、
言いたいことはたくさんあるけれど、どうすりゃいいかな。
Because maybe you're gonna be the one that saves me
And after all, you're my wonderwall
きっと君が、私を救ってくれる人だから。
そして結局、君が私のワンダーウォールだから。
Today was gonna be the day, but they'll never throw it back to you
By now, you should've somehow realized what you're not to do
I don't believe that anybody feels the way I do about you now
今日がやってきたけれど、みんな何も投げ返してこなかった。
今ごろ君は、自分が何をしなかったのか気づいてるんだ。
私は信じてるよ、私よりも君を想ってるヤツはいないって。
And all the roads that lead you there were winding
And all the lights that light the way are blinding
There are many things that I would like to say to you, but I don't know how
君を導く道はグニャグニャだったし、照らしてくれるはずの光も眩しすぎた。
言いたいことはたくさんあるけれど、どうすりゃいいかな。
I said maybe you're gonna be the one that saves me
And after all, you're my wonderwall
言ったけど、きっと君が私を救ってくれる人なんだ、そして結局、君が私のワンダーウォールなんだ。
I said maybe (I said maybe) you're gonna be the one that saves me
And after all, you're my wonderwall
言ったけど、きっと君が私を救ってくれる人なんだ、そして結局、君が私のワンダーウォールなんだ。
I said maybe (I said maybe) you're gonna be the one that saves me
You're gonna be the one that saves me
You're gonna be the one that saves me
前にも言ったよ、きっと君が私を救ってくれるって。
私をたすけてくれるって。
私をたすけてくれるって。
アヲイが歌い終わると、ユーヒチが優しく拍手した。
「たった一ヶ月でここまでできるのって、すごいよ。アヲイって才能あるんじゃないか?」
「ふふふ」
彼女には、彼の言葉がお世辞なのか本気なのかを判断する力もなかった。弾いてみたい楽曲を弾けるようになっただけだ。なんとなく歌詞が好きだ。
ユーヒチはお酒を飲んだ。「これならさ、アヲイもバンドとかやって、ライブハウスで演ってみたいとか思わない?」
「あー、――」
アヲイは目を泳がせる。たしかにライブの楽しさは前の世界でちゃんと知っている。でも私なんかがギターボーカルになったせいでリョウのバンドはメチャクチャになったし、ネット上の誹謗中傷もあったし、と、アヲイは嫌なほうの思い出もちゃんと覚えている。
そしてジュンは私を階段から突き落とした。そのくらいしっかり恨まれていたんだ。
「や」
アヲイはユーヒチに目を合わせて笑顔をつくる。「私は別にユーヒチに聴いてもらえるだけでいいんだ。ロックスターとか、ウンザリだ」
※※※※
アヲイが真夜中にふと目を覚ますと、ユーヒチはジャージだけ履いた格好で、彼女に腕枕をしながら深く眠っていた。
アヲイのほうは全裸だった。そうだ、昨日何度もセックスしたんだっけと思い出す。仰向けにさせられて、無駄な抵抗をしないように手首を掴まれて、何度もお腹のところを突き上げられたのが良かったな。
アヲイは起き上がってピースを一本取り、換気扇をつけてゆっくりと吸い込む。喫煙者なら誰でも知っていることだが、セックスのあとのタバコはやたらと美味い。体に残った倦怠感と世界のデカダンスがシンクロする。
スマートフォンを手に取ると、母親から心配の連絡が来ていた。普通に鬱陶しかった。
ただ、アマゾンで買ったエフェクターが実家に届いている頃だし、そろそろいったん帰ったほうがいいだろうという気がした。
彼女は火を消すと、もういちどユーヒチの腕の中に戻った。
「へへへ」と笑いが漏れる。ねえユーヒチ、これからもいっぱい私のギターを聴いて。そうして、いっぱいセックスしよう。
ユーヒチが眠りながら、たぶん無意識だろう、もう一本の腕をアヲイの背中に回した。
アヲイは流されるまま彼の胸に顔をうずめて、鼻孔でゆっくりと呼吸する。彼の、少し汗ばんだ男の人の匂いがした。
そのとき、ユーヒチが「ナクス」と言った。
ナクス?
――誰だろう?
アヲイは眠気に耐えながら、彼の顔を見る。
ユーヒチの目尻に涙が浮かんでいる。なんとなく切なくなって、アヲイはそれを舌で舐め取った。
あれはなんだったんだろう? と思いながら、アヲイはコンビニでハイライトとビールを買って久しぶりに自分の家に帰ってきた。
ん?
玄関の門のところで母親が立っていた。たしかに帰宅時間はちゃんと伝えたけれど、わざわざ待ち伏せしている意味が分からない。
「アヲイ、どういうつもりなの?」
「え?」
「ヱチカから聞いたよ。友達のところに泊まってるって嘘なんでしょ? ほんとはバンドやってる男の人のところに入り浸ってるって。何考えてるの?」
「別にいいじゃん。だいたい、友達なのは本当だよ」
アヲイは戸惑った。母親は怒っているが、どうして怒っているのか全く分からなかった。
「ちょっと待って」と母親は言って、アヲイが持っていたビニール袋からハイライトを取り上げた。
「これは何?」
「何って、タバコじゃん」
「私はそんなこと訊いてないでしょ。なんでアヲイがそんなもの買ってるのか訊きたいのよ」
「吸ってるんだよ。昔からそうなんだよ。今さらガミガミ言うな」
アヲイが口答えすると、母親の目尻がキッと吊り上がるのが分かった。
なんなんだよ。
母親は怒鳴る。「アヲイは今までこんなに長く外泊したこともなかったでしょ。門限だって守ってた。タバコも吸わない! いったいどうしちゃったの!?」
「そんな」とアヲイはたじろいだ。なんで怒鳴られてんだよ。
母親にとって、私は本当の娘じゃないんだ、とアヲイは今さら悟った。母さんが愛しているのはこの世界でずっと生きてきた「一ノ瀬アヲイ」であって、その記憶を持たない私のことじゃない。
だからこんなケチばっかつけてくるんだ。
アヲイがただ呆然としていると、母親がハイライトをポケットに隠す。
「とにかく、これは没収するから」
「は? 待てよ。なんだよそれ!」
「アヲイはこんなの吸う子じゃないでしょ!?」
アヲイは母親の手首を掴む。
「返せよ! 自分で稼いで買ったんだ、文句言うな!」
「何それ? ねえアヲイ、まさかだけど変なバイトしてないよね?」
「はあ?」
頭痛がしてくる。
「母さん、何言ってんだよ」
「念のため聞いておくけど、そういう、体を売るようなことはしてないよね? って言ってるんだけど。だって今のアヲイじゃあ何しでかすか分からないもの。だってもう私の知ってるアヲイじゃないもの! そういうことも実際あるでしょ!」
「――ふざけんなクソババア!」
カッと頭に血が上ると、アヲイは止まらない。気づくと母親に平手を食らわせて、よろめいたその体を足蹴にしながらタバコを取り返していた。
二人の様子に気づいた父親が家から出てくる。
父さん。
アヲイは父親の姿を見てほっとした。ねえ父さん。母さんが意地悪ばっかり言うんだよ、なんとかしてよ。
しかし父親は、客観的に見れば当然のことなのだが、母親のほうに寄り添った。
「大丈夫か?」と彼が呼びかけると、母親は情けなくすすり泣いている。
――え?
アヲイが呆然としていると、父親はアヲイを静かに睨みつけてきた。
「アヲイ、母さんに謝りなさい」
「なんだよ、それ、母さんが悪いのに!」
アヲイはゆっくりと後ずさる。
父親は首を横に振った。「アヲイ、事情はちゃんとあるんだろう? それはきちんと聞くよ。でも、暴力を振るうのはダメだ。分かるだろう? まずは母さんに謝りなさい。そしたらいくらでもアヲイの話を聞く」
「イヤだ!」
アヲイは怒鳴った。
頭痛がさらに酷くなり、キーンと鳴る。
「母さんは人を殴るより酷いことを言ったんだ! 私のこと本当の娘じゃないみたいに! だったら先に母さんが謝れよ! 謝れ!」
「アヲイ!」
父親が叫んだ。「おまえ、母さんを殴っておいて何とも思わないか! いつからそんな風になった、アヲイ!」
初めて聞く父の怒声に、びくっ、と肩が震える。
なんだよ、もう。
アヲイは動悸がしてくる。
「なんで、――なんで、父さんも母さんも生き返ってくれたのに、ぜんぜん私の味方じゃないんだよ」
瞳が小刻みに揺れた。ボタンを掛け違えたように、さっきまで楽しかった世界が勝手に地獄になった。
父親は首を振る。「生き返り? 夢の話はもうやめなさい」
夢の話?
――夢の話なんかじゃない! ウソの記憶じゃないんだ!
アヲイは踵を返して通りに走り出していた。耳の奥で母親の泣き声がこんな風に言っている。「もうあの子は私たちのアヲイじゃない。まるで別人でしょ」
クソ! クソ! クソ!
アヲイは泣きながら、また駅に駆けていく。とにかくここを去りたい。
ここじゃないならどこでもいい、どこでもいいから別の場所に行きたい、とアヲイは思った。
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