お伽話がそうでなくなったら

「英雄…さくら…もう、やめとくれ…!」



久須郎の攻撃に立ちはだかる私と英雄。地面に落ちているのは、一体どちらの血なのだろうか。



「おい…いい加減ぶっ倒れろっての。後ろの二人の首斬れねーじゃん」


「っ、誰が斬らせる、かよ…紫太夫は本来ここに来るべき人間じゃねぇ…絶対に地獄の住人になんかさせねぇからな…」


「英雄…」


「(痛みに耐えて唇噛みしめて、それでも立ち上がる。他人のためにどうしてそこまでできるんですか…。そんなの、この地獄では御伽噺だと思ってたのに…何か…何か…、)」



何もできない自分が恥ずかしい。団寿は心臓を上からグッと握った。


僕は人間界でもそうだった。失敗が怖くて、叱責が怖くて、行動することを止めた。もっと言えば、思考すら放棄した。地獄に来てからもそうだ、目の前の試練から逃れるために、今この瞬間だけ楽な道を選んだ。戦わずして手に入れた何もない道。僕はずっとずっと、ここを歩いて行かなければいけないんだって自覚した時には、もう何も感じなかった。


…でも初めは、僕だって初めは…


この人達みたいに、誰かを助けたくて、医者という職業を選んだんだ…。


…変わりたい。変わりたい。


もう自分の運命は変えられないけれど…自分を変えることならまだできる。僕も戦いたい。



「お、おおおおおおおい…くっ…久須郎様っ…じゃない、久須郎!!ぼ、僕だって戦うぞ…!お、お前なんて、怖く、ないぞっ…!これ以上、さくらさん達を、いじめるなっ…!」


「だ、団寿っ…!?あんた何して、」


「お、思い出したんだ…!僕は、人を救うために、医者になったんだって…!だから、戦うんだっ…僕も!」



…団寿の眼が、さっきとは明らかに違う。音が付きそうなほど震えているものの、何かを覚悟した男の眼だ。



「ほう…裏切り者が…お前から死希望か。知ってるか?輪廻転生の権利を失った地獄の住人が死した後の行く先はどこか…誰もいない、光のない暗闇の世界だ。前も後ろも上も下もない、ただの真っ暗な世界でいつまでかわからない一生を過ごすんだっての。その覚悟…本当にお前にあるかぁ?」


「っひっ…!」



…まずい、久須郎の刃先が団寿に向いた。



「そ、それでもっ…きっと僕は、今のままみんなを見殺しにしたら、後悔するっ…。だったらその暗闇にいるのと、同じだっ…!お、おおおおお前なんか、怖くなんかないぞバカヤローー!!」



ビキッ、


久須郎が額を大きく筋立たせる。



「…決まりだっての!!」



物凄い勢いで久須郎は団寿に走り近付き、ナイフを振りかざした。



「うわぁあああ!」



団寿も血眼になってそのナイフを避けようと身を捩り、自分のメスを久須郎に刺そうとするも、久須郎はそれをものともせず振り払い、ナイフで団寿の脇腹を切り裂いた。



「ぐ、ああああ!」


「団寿!!」


「死ね裏切り者!」



やばい、団寿が殺される!体が勝手に動いた。私はただただ両手で自分の身体を庇うようにして丸め、久須郎と団寿の間に飛び出した。



「さくらぁあああ!」



おばあちゃんの悲痛な声が耳に届いた。









……しかし、


刹那、私の身体は鋭利なナイフが刺さったのではなく、突然宙に浮き、温かい何かに包まれた。




…温かい。

あれ、おかしいな…確かに私今、久須郎に刺されるのを覚悟して…痛みを…、え?





「…………何を手間取っている?」






…私のすぐ近く、頭上から一つ、聞きなれた、恐ろしいと恐怖した声が聞こえる。

ドクン。そして心臓がかつてないほどの動きで音を立てた。


嘘だ。…嘘?この声は、紛れもない、あいつの…あの時と同じ…。




“何を手間取っている?”




私が地獄に来て初めてこいつと会った時と、同じ_______…。



「っひゃっ……百、鬼っ……!?」



そう、最強最悪の番人と言われた冷徹無慈悲な男…百鬼のものだ。



「なっ…………百鬼、だとっ…!?」



これには久須郎も驚きを隠せない。いや、久須郎だけじゃない。おばあちゃんも、英雄も、団寿も…私も。誰一人として眼を疑わない者はいない。久須郎の攻撃を体全身で受けるはずだった私を、咄嗟に抱き抱えて助けてくれたのは…その助けると言う行為と一番無縁と思われた、百鬼だ。呆気にとられてこれ以上言葉が出ない。だが今私を抱えているこの光景も、抱きかかえられている温かい感触も…間違いなく現実だ。



百鬼は、腕の中にいる私へといつもの冷酷な視線を落とした。相変わらずの無表情。でも…前と違うのは、背中に百鬼の独特な冷たい空気が当たってもぞっとしないこと、死をイメージさせられるような闇深い圧を感じないこと、全身から冷や汗が吹き出さず、呼吸も困難にならないこと、背中が潰れてしまいそうにならず視線を逸らさなくても大丈夫なこと。たくさんあった。それを肌で感じた途端、私はやっと実感した。


あぁ、この人、私を助けてくれたんだって。


そしてその安心感から、自然と頬に一筋の涙が伝った。その涙が百鬼の眼の中に映って、太陽のような光が宿ったように見えたのだ。



「っ……ど、どういう、ことだっての…!?ひゃ、百鬼が…あの百鬼がっ…自分のとこの囚人を助けたってのかっ…!?」



百鬼が私を抱えているあまりの光景に、今度は久須郎が囚人顔負けの青白い顔をして震え出した。それを聞いた百鬼は、無表情のまま、暫く久須郎を見つめて、やっと口を開いた。



「……助ける?どこの世界の御伽噺だ?俺はそんな難儀なことはしていない」


「ふぎゃっ!」



そう言ったと思ったら、私を支えていた両腕が離れていきなり地面に突き落とされた。いや、せめてもっと低い位置から落とせよ…!と思ったが、相手は今まで私をたくさんの地獄に落としてきた百鬼だ。寧ろ投げ飛ばさなくてありがとうくらいかもしれない。



「いや…!今俺の攻撃から風篠さくらを明らかに庇ったっての…!俺だってその、信じられねぇけど!!」



…うん、久須郎、テンパってるね。気持ちはわかるよ。地球がひっくり返っても起こるはずのないことが起こったから未だに震えてるんだよね、分かるよ。



「…甚だしい勘違いだな蛇小僧。ただ…この女を虐げていいのは、俺だけだ。ただ、それだけだ」


「な、何ですとぉおおお!?」



ちょ、助けるんじゃなくて自分が虐げるために庇ったのこの人ぉおお!?あんなに感動シーンだったのに!?私この後結局こいつに葬られるの!?



「…4771番」


「いやぁああやっぱり冷酷無慈悲だぁああ。」


「…おい聞け、今すぐ殺すぞ」


「は、はい何でしょうかぁあああ!」


「……退いてろ」


「……えっ?」


「…邪魔だから俺の近くから退いてろと言った」


「えっ…あ、うん…」



…それは、今から百鬼が久須郎と戦うから離れてろ、ということでいいのだろうか…。あの冷徹無慈悲の百鬼に、そんな眼を向けられると…こっちの調子が狂う。



「…でも、百鬼は、」


「…お前、どの分際で俺のことを気遣っているんだ?俺がこんなカスに手間取るとでも?笑わせるな。このカスなど全くもって俺の足元にも及ばない」


「な、なっ…!ぐっ…!百鬼てめぇっ…言ってくれるじゃねぇかっ…!昔からお前のそういうスカした態度がすげぇムカつくんだっての!」


「それから…愚かな勘違いはするな。決してお前のためにこのカスを消すわけじゃない。俺は自分の玩具に手を出されるのが物凄く嫌いなだけだ」


「って聞けってのぉおお!んでもってカスカスカスカス言うなぁあああ!」



全く久須郎の言葉を聞こうとしない百鬼に、私が呆れ顔になる。そしてご丁寧に私の僅かな希望の考えをしっかりと打ち砕いたものの、私には少なからず百鬼が助けてくれたようにしか思えない。あの寂しそうな目に、一瞬私の涙の光が映った時…あんたの闇が少しだけ晴れていた気がしたから。その光に、私はやっぱり希望を賭けたい。



「おばあちゃん…英雄、団寿、今のうちにこっちに行こう…!」



まだ戸惑いを隠せていない3人を引き連れて、百鬼と久須郎から数メートルほど離れた路地裏壁際まで離れる。ここまで二人の巨大すぎる圧は十分届いていた。相変わらず空気はピリつき、増してや百鬼が来たことで冷たくなっている。



「百鬼…相変わらず読めねぇ気色の悪い奴だっての…!まぁいい…お前を倒して俺が閻魔筆頭候補になる最大のチャンスじゃん…。お前、俺が噛み殺してやるっての」


「…相変わらず煩くてかなわないな…。御託はいいから、さっさとこればいい」


「っこのっ…!やっぱりお前だけは大嫌いだっての!!殺す!!」



眼にも見えない速さで久須郎と2匹の蛇が、百鬼に食って掛かった。




シュバッ…!




「あ……れ?」


「…………お前の刃が、俺に届いたことがあったか?」



血が噴き出たのは、久須郎だ。百鬼は一歩たりとも動かずに、いつの間にか抜いた二刀で、久須郎の身体を十字型に斬ったのだ。



「ぐ、ぐぎゃぁあああ!」


「……俺の機嫌を損ねた時点で、お前の負けだ。蛇小僧」



久須郎が苦しみの声を上げる中、百鬼の言葉と刀を鞘に納める音が静かに響いた。

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