何なんだこの女は
地獄に太陽は昇らない。説明するまでもないだろう、ここは地獄だ。二度と陽の元を歩くことのない囚人と、それを罰する鬼たちの住む地獄だ。太陽など必要ない。そんなものを拝むのは、誰しもがとっくの昔に諦めた権利だ。
「…こんなの、苦しみでも何でもないわ…!両親が殺された日からの10年に比べれば…!」
…そんな地獄に、あの女は現れた。眼に宿した太陽を引き連れて。
「…その眼は、この地獄でしていい眼ではないな…」
初めてあの眼を見た時に、俺は見てはいけない物を見たような、そんな罪悪感に襲われた。地獄にはあってはならない孤高の光、この光を消さなければ。脳がそう判断するまでに時間は要しなかった。血の池地獄に落としても、殴り飛ばしても、下種な男たちに犯されそうになっても、体が壊れるほどの重労働をさせても、俺に屈服するどころか屈辱や絶望の表情すら浮かべない。それどころか、他の囚人たちにまで光が乗り移ってきやがった。
女を庇ってマグマ地獄に飛び込もうとするじじい、俺盾を突く花魁女、獣の気配を消した囚人たちをシメていた男。番人である黄緑の奴も、妙な詮索を入れてきやがる。あの太陽に、みな毒され始めて行った。二度と拝むはずのなかった、あの光に。
「…お前は、必ず俺が、殺す…」
俺のあの言葉に嘘はない。地獄に不似合いのあの太陽を沈めるのは俺だ。そして俺が閻魔になる踏み台となってもらう。
だが、何故。
もっと早くに賭けの決着なんてつくと思っていたのに、俺はとどめを刺すことができなかった。どこかいつもあの女に驚かされて、調子を崩されて、奴の存在を粉々に打ち砕くことができなかった。そんな自分の甘さに反吐が出る。今までも慈悲など一切かけてこなかった。なのに何故、奴にだけはとどめを刺せないのか____。
“俺は絶対に人間界に帰るんだ!”
奴を見てると、遠い昔の甘い考えだった愚かな自分が思い出されて…虫唾が走る。
“と、父さん…母さん…、うわぁあああああ!”
…ここは地獄。希望も未来もない。あるのは絶望と屈辱。太陽などいらないのだ。
「探しましたよ、百鬼クン。んほほ」
「…………何の用だ、変態科学者」
「なっ、久須郎クンといい、あなたといい、私を変態呼ばわりするなんて心外ですよ!」
「……要件を話せ」
「無視!?無視なんですか!?ほんとに腹の立つ餓鬼ども…じゃなくて、コホン。要件も何も、あなた会議に出席しなかったでしょう。その伝達をわざわざしなくてはならないんですから…二度手間ですよ」
「閻魔に伝えておけ、これからも参加する気はない、と」
歳ノ成はまたもや怒りを露わにしていたが、そんなことは関係ない。俺は現閻魔と直接言葉を交わす気はない。会議の内容についてもどうせ大した内容じゃないに決まっている。
「閻魔選定が、10日間早まりました」
「…………何、?」
「んほほ、これにはさすがの冷徹無慈悲な百鬼クンも驚きましたか」
「お前…虚偽じゃないだろうな」
「んほほ…信用ないんですね、私。流石にこんな笑えないドッキリは仕掛けませんよ。つまり選定まで実質2週間…我々番人としても力が入るわけです」
「…」
「百鬼クン、私が何を言いたいのか分かります?今までの成績から閻魔候補として抜きに出てるあなたですが、残り2週間となれば確実に番人たちは動き出しますよ。あなたは身の危険を案ずるべきです」
「…お前が親切心でそんなことを俺に言うとは考えにくいが」
「私は争いが嫌いだ。ついでに男も嫌いだ。野蛮で暴力的で汚らしい科学とはかけ離れた下種なものを取り仕切る気は毛頭ない。ただ、あなたが閻魔になった際には甘い汁を吸わせてもらいたい気持ちはあるのですよ」
「…閻魔選定を降りるとでも?」
「んほほ…好きに受け取ってください。そしてもう一つ、媚を売る目的であなたに情報をプレゼントしますよ」
「…」
「久須郎クンが、かつてないほど揺らぎを見せているあなたの隙をつこうと狙っています。蛇は獲物を前にすると、長い舌を伸ばして思ってもみない隙間からも食い入ってくるので、気を付けてくださいね。では」
歳ノ成は姿を消した。残された僅かな薬品の匂いと、最後の言葉が鼻に付く。どちらも俺の心を不快にさせるものだった。
:
「げほっ、げほっ…!」
苦痛には、慣れこそが必要だと、心底思う。人間は負の感情や外傷には滅法弱い生き物だ。そこに慣れるためには希望を捨てることだ。希望や期待を捨てられない、そんなことを言うのは本当の苦痛を味わっていない者だけだ。
「どうした4771番。もう降参か」
閻魔選定まで2週間となった、閻魔の意図は分からない。不満は募るが残りが少なくなったからと言って、俺の閻魔昇格は変わらない。それにあの男には言うだけ無駄だ。残り14日、多くの囚人を輪廻転生させれば更に実績が伸びるはずだ。
これからはより過酷な重労働を課すことにした。先日の岩運びなんて比にならないほどの過労。足場のおぼつかない岩道で、ひたすらに鉄材を運び積み上げる。泣きを言ったり放棄したりする者は血の池に沈める。あの女も、息を切らして働いている。足組みしながらそれを眺め、今にもあの女が鳴いて詫びるのを心待ちに待った。
「降参なんか、するか…!絶対に人間界に帰るんだからね…!」
「ほぅ…まだそんな口が利けるなら仕置きが足りないようだな」
この期に及んで、俺を見上げて睨みを利かせる。だが今日は一つ、この女の様子で不可解なことがある。今日は、あの女の俺を見る目が、いつもと少し違う。一体何だ。いつものように地獄に不似合いな太陽を宿しながらも、その眼には雨が降っている。晴天の空に、雨が降っているような不思議な天気をしている。
そういえば、地獄には太陽がない代わりに雨も降らなかったな。この女の眼の中に、雨というものを何百年ぶりに見た。それが何を意味しているかは分からないが、俺は不思議とこの
眼から視線を逸らすことができなかった。
「…百鬼、あんたは一人じゃないよ。」
「…………………………………………………………………………は?」
俺にしたら、反応速度が今までないほど遅れたと思う。それに、出したことのないような声が出た。それは聞いたことのない言葉だったからに他ならない。憎悪に汚されていない純真な言葉だ。まるでこの女の太陽が言霊になったかのような塊だ。俺はこんなもの知らない。こんな眩しいもの知らない。
…消さなくては。
その一心で、気が付くと俺は腰を上げて女の前に早足で近付いた。そのまま首をへし折るために、力強く右手を女に伸ばした。
終わりにしよう。調子を崩される数日間を、煩わしい胸騒ぎを、解雇される過去を____この賭けを、全部。
終わりにすれば、また元の地獄に戻るだけだ。元の俺に、揺るぎのない俺に____…太陽のない世界に戻るだけだ。
…むぎゅ、
「っ…、ひゃ、百鬼、?」
…できなかった。また、できなかった。
首をへし折ろうと伸ばした右手は、女の首ではなく、そのまま両頬へと伸びた。両頬を右手で掴むことで終わったこの一連の動作に、女は不思議そうに俺を見た。
忌々しい太陽。
何故俺の前に現れた。
消したいのに。
消せない、太陽。
「…何故逃げなかった。今俺はお前の首をへし折ろうとしたが」
「…いつもみたいに、怖い感じがしなかったから」
慈悲。こいつの眼に降る雨は、慈悲そのものだ。そして太陽は、希望そのものだ。
本当に、まるで…
あの頃の自分を見ているようで、何とも言えない気持ちが生まれる。
快晴の中雨が降る、そんな気持ちだ。
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