彼女の秘密と鎖の呪い

第11話 うつつに重なる幻影

 ――久しぶりに、あの夢を見た。


 寝室のカーテンがやさしく開けられる音が聞こえた。手首に触れたあたたかさに、窓からさし込んだ朝日が寝台に光の帯を描いたことを知る。

 ふっと意識が浮かび上がる感覚に、アデリアナは瞼を押し上げる。知らず息を止めていたようで、ゆっくりと吐き出した。天蓋が作る淡い暗がりの中、アデリアナは意識して浅い呼吸をくり返す。何度も、何度も。


「姫様、朝ですよ。お目覚めですか? ……姫様?」


 優しいシェーナの声に、アデリアナはゆっくりと目を開いて、また閉じた。


 恩寵は、気まぐれにアデリアナを訪れる。いまのように、夢や、ふいに目の前に重なる幻影として。

 アデリアナが目覚めるまで見ていたのは、ずっと前から見ている夢だった。

 くり返し見るのは、その夢だけだった。誰にも言ったことのない夢だ。


 そもそも、アデリアナは恩寵についてはほとんど誰にも明かしてこなかった。

 アデリアナの恩寵は、家族にも教えてはならない秘密だった。もちろん、恩寵を授かっていること自体は塔からフィリミティナ公爵家へと通達されたが、アデリアナは何も明かしてはいけなかった。

 アデリアナの恩寵の力が強いからではなく、単純にそれがルーファウスの恩寵と相性がよく、アデリアナにだけは彼の恩寵がうまく働かなかったことから、王太子の恩寵を守る秘密の一つとされたのだった。アデリアナは王城に出入りする者たちが必ずしなくてはならないものとは別に、ルーファウスと自分の恩寵についての誓約を立てている。


 アデリアナのそれは、予知や過去視という名を付けられるほどには強い恩寵ではなかった。もしアデリアナが自分の意思で望んだものを見られるならば、神殿に預けられただろう。でも、恩寵はアデリアナの意思を無視して突然現れる。それは塔で何度調べられても変わらなかった。

 とはいえ、そのことを除いても、アデリアナの恩寵は利益をもたらしやすい類いのものではある。幼いアデリアナはその身分もあって、塔の研究者たちを憂慮させた。


 ――たとえ家族や一番仲のよい人であったとしても、予知に近しい恩寵は迂闊に分け与えてはいけません。悲しみたくないならば、秘密の重さを知りなさい。


 塔の研究者たちは、幼いアデリアナにそうくり返し諭して聞かせた。


 目に見えない誰かの意思がそう見せているのかと思うくらいに、しばしばアデリアナの目には、透明な指先によって必要と振り分けられたがふいに訪れる。目には見えない誰かの透明な声に、何かを選んで行動しなさいと囁かれているみたいに。


「……夢を見たから、ぼんやりしていたの。おはよう、シェーナ」


 アデリアナは微笑んで、身を起こした。


 アデリアナは、ふつうの夢を見ない。もしかしたら覚えていないだけなのかもしれないが、恩寵が何かを見せるときにしか、眠っている間のことを覚えていなかった。

 でも、そんなことはべつに、取りたてて明かさなくてもいいのだ。

 ――あの夢を、最期までずっと一人だけの秘密にすると決めたように。



 その日は、朝から恩寵続きだった。娘たちとサロンで針を刺していると、目の前に幻影が現れだしたのだ。

 アデリアナには、ときどきそんな日がある。まるで夢の上を歩いているかのように、ふわふわと幻影の上を渡り歩いているような、そんな日が。

 思えば、ルーファウスと出会った前後は、本と恩寵が見せる幻影と現実の区別がなかなかつかないでいたものだった。


 現実にうっすらと重なるように見え出した景色に焦点を合わせたアデリアナの姿は、表面上は薄く笑んだまま刺繍をしているように見えるだろう。あと数文字縫い上げたら完成というところまできたときに滴った恩寵の雫が、ひたひたとアデリアナの瞼を濡らしていく感覚は、肌の外側へと伝わるものではない。

 アデリアナの恩寵は気まぐれで時間や場所を選んではくれない。だから、その訪れのたびにアデリアナは公爵令嬢に望まれる慎みと習慣でもって周囲の目を逃れなければならなかった。息を潜めるように、気配を薄くするのだ。もともとアデリアナは本に耽溺しがちな娘であったので、多少ぼんやりしていても見咎められることはなかったし、大目に見てもらえてきたのだけれども。


 刺繍の上にほんのりと重なって浮かびあがったのは、イゼットの悲しそうな顔だった。

 イゼットは誰かに縋りついて、けれども優しく振りほどかれて泣いていた。うまく泣き方がわからないでいるような、そんな顔をしている。痛々しい表情だった。

 そんなイゼットの傍にいるというのに抱きしめてやらない誰かの顔は、けれども影になっていてよく見えない。

 もっと教えてくれたら、何とかしてあげられるのに。

 唇を噛んだとき、横からほっそりとした手が伸ばされた。はっと顔を上げると、ふと幻影がかき消えて、穏やかな笑みを浮かべたイゼットの顔だけが瞳に映った。


「アデリアナ様も刺繍がお上手ね。もうすぐ完成でしょう?」


 どうかなさった? と囁かれて、アデリアナはゆるゆると首を振る。

 いつもどこか陰りを帯びているようで、でもそこが不思議な魅力になっているイゼットの秘密を、勝手に覗いてしまった気がした。


「ぼうっとしてしまって……。こんなに長い間ひとつのものを作ったのは、久しぶりだったものですから。わたし、不真面目なんですの」


 不真面目ということばにイゼットは笑って、アデリアナにだけ聞こえるように囁いた。


「ねえ、お茶会ができていなかったわね。明日のお三時はいかが? 私たち、ちょうど何も予定がないでしょう」


 清潔で凜とした花の香りがして、ほんのわずかに肩が触れ合った。

 踊りの時間のときにも感じたことだが、イゼットには少しだけ親密で、けれども親密すぎない距離感を心がけているようなところがある。それは慎ましくて好ましい振る舞いだ。

 でも、ルーファウスとの間にあるような近しさを知っていると、少しだけその正しい距離感がさみしいものに思われた。ひどく勝手な感情とわかってはいたけれど。


「もちろん。じゃあ、わたしの部屋においでくださいな」


 アデリアナは微笑んだ。何度か機会はあったのだが、リンゼイ夫人のことが解決していなかったので、なかなかイゼットを誘うことができず申し訳なく思っていたのだった。

 アデリアナも積極的に人と関わろうとしないし、イゼットもおそらくそうだろう。

 でも。もう少しはやく、自分から誘えていたらよかった。

 アデリアナは、ぽつんとそう思った。



 お針の時間のあとは、そのまま娘たちで昼食を取った。

 花園入りでの楽しみの一つは食事だが、アデリアナには少々量が物足りなく感じられる。とくに昼食はそうだ。屋敷にいるときはほとんど動かなかったから支障はなかったが、花園では色々と予定をこなさないといけない。それに加えて、離宮から王城の図書館を訪ねた日などは少々歩くし頭も使うしで、夕方にお腹が鳴ってしまうのだ。


 今日は、昼食後にルーファウスと散歩の予定が組まれていた。またお腹が空きそうな予定だ。まあ、ルーファウスは幼なじみだし、お腹の音くらい聞かれてもいいのだけれど。

 香味野菜と塩を揉み込んで低温でじっくりと火を通したあと、表面をかりりと焼き上げたカギュエの肉にナイフを差し入れながら、アデリアナはもっと量があったらよいのにと思った。付け合わせの甘いチェリスカの実と、酸味のあるソースが肉本来の旨みと合っていて、とてもおいしい。もう気持ち程度に量があったら、もっといいのに。

 でもジャンにそんなことを言ってしまったら、きっと自分の皿だけ量が増えてしまうだろうから、味の感想だけ伝えようとアデリアナは決める。


「アデリアナ様、今日は王太子殿下とのお散歩ですわね」


 向かいに掛けたガートルードに話しかけられて、アデリアナは顔を上げた。

 どことなくアデリアナの腹具合に気づいていそうな給仕が、さりげなくパンをひとつ追加してくれる。ありがたく受け取ることにして、アデリアナはええと頷いた。


「そういえば、アデリアナ様が一番後なんですのね。殿下とのお散歩、みんなもう一通り終えましたのよ」


 ティレシアがパンを小さくちぎりながら笑うのに、アデリアナはそういえば……と娘たちで付き合わせた予定を思い出した。そして、いたずらめいた笑みを浮かべる。


「お散歩って、どれくらいかかりますの?」


 アデリアナの問いに、ガートルードが顔を赤らめた。それは、最初に散歩の予定が回ってきたガートルードが、図書館行きたさに言ったのと同じことばだったので。

 ほかの娘たちもそのときのことを思い出したのだろう、思わずといったようにくすくすと笑う。


「アデリアナ様ったら!」

「ふふ、ごめんなさい。あのときのガートルード様、お可愛らしかったものだから」


 顔を赤らめるガートルードを微笑ましく見守っていると、今度はティレシアがユイシスを意味ありげに見た。ちょうど大きく切り分けた肉を口に入れたばかりのユイシスが、その視線にうぐ、と動きを止める。


「聞いたわよ? ユイシス。あなた、王太子殿下とのお散歩で、王立騎士団の稽古を見たいって言ったんですって?」


 むぐむぐと咀嚼するユイシスが何も言えないでいる間に、娘たちはあらあらと顔を見合わせる。


「そういうのもありでしたの? わたくし、普通に春のお庭を見て終わりましたわ」

「私は塔の前にある庭園でしたわ。薬草園と兼ねられているそうですけれど、綺麗なお庭でした」

「まあ、イゼット様は珍しい場所ですのね。私は先の王妃殿下のお庭でした」


 次々と話す娘たちの話を聞いていたアデリアナは不思議に思って、首を傾げた。


「みなさん、違う場所でのお散歩ですのね……? てっきり、一緒かと思っていましたのに」


 イゼットとガートルード、ティレシアが顔を見合わせて、ふふと笑った。ユイシスは給仕から差し出された水を飲んでいる。


「それはね、アデリアナ様。わたくしたちがこうしてお喋りすると王太子殿下も分かっておいでだからですわ」


 代表して言ったガートルードのことばに、アデリアナはそういうものなのね、と思う。


「だって! 王太子殿下がいいっておっしゃったんですもん……!」


 ようやくのことで作法を守った状態で発言できるようになったユイシスに、ティレシアがからかうように笑った。


「知っているのよ。あなた、王太子殿下と武芸のお話ばかりしてるのでしょ」

「な、なんでそんなに王太子殿下と私の話をしているのー!」

「あら、するに決まっているじゃない。ほかの皆さまの話を王太子殿下から伺うのは楽しいもの」

「ええっ……あ、アデリアナ様もですか? 私の話、聞きました!?」


 仲の良いふたりのやりとりをのほほんと眺めていたアデリアナは、急に水を向けられて瞬いた。


「ええと……わたしはその、あんまり皆さまのお話はしていないかも……? 最初に、皆様にどんな印象を抱いたのかについてはお訊ねを受けましたけれど」


 ユイシスの恥ずかしそうな顔を見て、つい。アデリアナも、少しだけいじめたくなってしまった。


「このあとのお散歩で伺ってみますわね」

「いいです! 聞かなくていいです!!」


 ぶんぶん首を振るユイシスに笑みを隠しきれない様子でいながら、イゼットがそれで? と訊ねた。


「アデリアナ様は王太子殿下と、いったいどんなお話をなさいますの?」


 ふと、娘たちの視線がアデリアナに寄せられた。

 どことなく落ち着かない気持ちがしながら、アデリアナは食後のデザートに出されたチェリスカのゼリーを口にする。咀嚼している間は話さなくともいいからだ。

 だが、そんなことは娘たちにもお見通しのようで。アデリアナが慎ましく口を動かしている間、さやさやとおしゃべりを交わす。


「私は王太子殿下と女神の花合わせをしました。お強すぎてまったく歯が立ちませんでしたけど。丁寧にご指導くださいましたわ」

「え、ティレシアが負けたの? へえ、王太子殿下、相当な腕をお持ちなんだね。こんど私も手合わせをお願いしてみようかな」

「あなたは武芸とか手合わせといったことから離れなさいよ、たまには」


 ティレシアが言う「花合わせ」とは、女神が愛した品々を駒にして四角く区切られた盤面の上で戦わせる遊戯だ。シンプルだが戦略的な仕組みで、貴族の嗜みともされている。女神を意味する花の駒を奪われたら負けになるために、花合わせと呼ばれているのだ。


「わたくしは……ずっと刺繍とか、女神様のお話でしょうか。王太子殿下はわたくしの話をたくさん聞いてくださって、王城にあるシシリア嬢のお品についても教えてくださいました。それで、空いた時間に見に行っているのですわ」


 ガートルードの話を聞きながら、アデリアナはふと、息を止める。

 宝石のように細かくカットされたグラスに入れられた赤く透き通るチェリスカのゼリーの上に、うっすらと霞がかかって――うつつに、幻影が重なってゆく。


「皆さまそれぞれですわね。私は殿下と学舎でご一緒させていただいていましたから、その頃の話が多いかしら……とはいっても、あの頃はそう親しくさせていただいていたわけではなかったのですけれど。先生方のこととか、同級生の現在とか、そんな他愛のない話ですわ。……ねえ、アデリアナ様」


 つんと横から肩をつつかれて、アデリアナはひゃっと小さく声を挙げる。

 隣に座ったイゼットが、もうと言って苦笑した。


「そろそろ、アデリアナ様も教えてくださいな」


 ややあて、幻影はふんわりととろけるようにかき消えた。

 そうですわね……と呟いて、アデリアナは何と言ったらいいものか、しばし迷った。

 あらためて娘たちの話を聞いてみると、自分とルーファウスがいったい何を話していたか、分かるような分からないような気持ちがして。


「べつに、特別なことはお話ししていないように思いますわ。わたしが騎士とちょっとだけ諍いをしてしまって、その話とか……ああいえ、騎士は悪くないんですの。あとは、本の話とか、針の課題が終わらない話ですとか……?」


 あとはそう、ルーファウスにはただ、やさしく気持ちを伝えられているくらいのもので。

 でも、とアデリアナは思う。

 ルーファウスは、ほかの娘たちとも楽しく過ごしているようだ。

 ふうん、と思う。そうなの、そう。……なんとなく、面白くない気持ちがした。

 花園入りは王太子の花嫁探しの儀式なのだから、べつにおかしなことではない。頭では、そう思うのに。


「アデリアナ様、とてもお可愛い顔をしているわ。ねえ、王太子殿下の前でもそうなのかしら?」

「え……?」


 イゼットのことばに、アデリアナは瞬いて頬を抑える。でも、鏡がないから自分の表情はよく分からない。

 困惑するアデリアナを他所に、娘たちは先程ユイシスがそうされていたみたいに、今度はアデリアナを置いてきぼりにして、くすくすと笑っていた。



 首を傾げながら居室に戻ったアデリアナは、けれども一旦、困惑を置いておくことにした。何故ならば、つい先程見た幻影が気に掛かったからだ。

 書き物机に向かって便箋を取り出すと、シェーナに「姫様、お着替えをなさいませんと」と声をかけられる。でもね、などと言いながらペンを走らせていると、リンゼイ夫人からも催促の声がかかる。ええ、はい、と答えながら、アデリアナは簡素な白の便箋に公文書用の黒インクで文字を綴った。

 便箋に吸い取り紙を押し当てて、浮いたインクを吸い込ませる。少し手が汚れてしまったのを見て、シェーナが呻きながら寝室に向かった。リンゼイ夫人がため息がちに差し出したスプーンから蝋を封筒に落として印章を捺して、それからようやくのことでアデリアナは立ち上がる。


「シェーナ、手伝います」

「助かります、リンゼイ夫人」


 シェーナはまずアデリアナの手にクリームを塗り、くるくると円を描くようにして乳化させ、クリームごと汚れを柔らかい布巾で拭い取る。その間、リンゼイ夫人がアデリアナのドレスを手早く脱がしていった。

 ドレスが落ちやすいよう身体の向きを変えたり、身じろぎしてみせるアデリアナに、リンゼイ夫人が少し手を止めた。何かを言いたそうな気配がしたが、アデリアナはそ知らぬ顔をする。それがアデリアナに期待された役割だからだ。

 ……簡単な着替えなら一人でできたとしても、人の仕事を奪ってはいけない。いまのように、迷惑はかけてしまうのだけれども。

 するりと落ちたドレスをまたぐように移動すると、リンゼイ夫人の手がさっと伸びて取り去った。下着姿のまま、アデリアナはシェーナが掲げてみせた二着のデイドレスを前にううんと口ごもる。


「布が多くない? お散歩よ」

「姫様、王太子殿下とのお散歩ですから」


 シェーナは、意見を乞うようにリンゼイ夫人を見た。

 リンゼイ夫人はアデリアナの「布が多い」ということばにあきれた顔をしつつも、シェーナの手にした二着のドレスを見比べる。


「右にいたしましょう、まだこちらのほうが軽やかですよ。姫様がもう少し私たちの言うことを聞いてくだすったら、編み上げ靴にしましたのに。お時間がありませんからね」

「はい、そうね。わたしが悪いわ。ごめんなさい」


 歩きやすい編み上げ靴に心を引かれつつ、アデリアナは大人しく頷いた。

 シェーナが選んだデイドレスは図書館用にしてはやや布が多いが、丈がほんの少し短めに作ってあるので、確かに散歩には適しているだろう。

 濃紺のデイドレスは胸元を繊細にタックを寄せた襟で飾られており、肩のところがわずかに膨らんだ袖と、腰の後ろで結んだリボンがほっそりとした身体の線をやわらかに薫らせる。通常よりも多く布を縫い合わせているので、風が吹くと花のように裾が広がるのだ。その裾から精緻にカッティングされたレースのペチコートを覗かせるのが清楚で、だからこそシェーナはアデリアナに着せたいのだろうし、彼女なりにルーファウスの好みを推し量った結果の選択でもあるおだろう。そして、大事なことだが……釦が少ない。


 襟についたリボンをリンゼイ夫人にふんわりと結んでもらいながら、アデリアナはぼんやりと鏡の中の自分を見る。シェーナに促されるままに椅子に座り、首のまわりに布をかけられ、急ぎながらも丁寧に粉をはたかれるに任せる。髪は一度解かれて、リンゼイ夫人が梳いてくれていた。


「あの、そんなに崩れていないと思うわ。朝、綺麗にしてくれたでしょう」


 おずおずと言うと、頬紅の色をじっと見比べていたシェーナの目がアデリアナを見つめる。


「姫様はお顔立ちが整っておいでですが、だからこそ、ドレスを替えたら一番映えるお化粧にしなければなりません。勿体ないですから」

 

 最近になってわかったことだが、シェーナはアデリアナの身支度を調えるのが――それも化粧を施すのがとりわけ好きなようだった。もともと、シェーナはその化粧の巧さを買われて花園入りの女官に選ばれたという。アデリアナは、日に日に丁寧に、長くなってゆく化粧の時間を大人しく受け入れている。もっとよそおうことが好きな娘に当たったほうが幸せだったのかもしれないが、そう言ったらきっと怒られてしまうだろう。

 

 それに、きれいに粧ってもらうのは悪い気がしないもので。

 粉を落としたブラシでくすぐるように頬を撫でられて、鏡の中の自分にわずかに色が乗る。唇に指で保湿するクリームを塗られて、そのあと優しく色を置かれる。最後に、瞼と目の下に、きらきらとした粉をそっとつけてもらう。睫毛は朝に上げてもらったまま、ふんわり上向きだ。アデリアナにはよく分からないのだが、唇の色がもともと赤いため、シェーナは紅の発色を見てから最後に目元をどうするのか決めているのだという。


「シェーナはほんとうにお化粧が上手ね。急いでくれたのに、でも、とても素敵だわ」


 頬と唇がほんのりと色づいただけなのに、鏡の中からはいつもよりも幾分清楚で可憐に思える顔がこちらを見返している。


「お綺麗ですよ。……お時間があれば、もっと素敵にしてさし上げましたのに」

「ええ、そうね。ありがとう」


 その間も髪を整えてくれていたリンゼイ夫人の手つきは正確で、よどみがない。左右から一房ずつ取った髪を編み込んでめぐらせて、流した髪の下にピンで留められる。工程としては然程多くないが、その編み込みの太さがアデリアナの顔の大きさに対して適確で、ピンを挿す場所も痛くないのにしっかりと留められていることがわかる。

 アデリアナの視線に気づいて、リンゼイ夫人は微かに笑った。


「私には姉がおりまして、姉の髪をいじるのがささやかな趣味でございました。

 ……王妃殿下は学舎にいらしたとき、髪を崩しておしまいになって大変お困りでした。昔から人一倍お洒落な方でしたから、一人ではとても直せない凝った髪型をしておいででした。その時にお助けしたことで、私を気に入ってくださったのです」


 髪を崩すような状況のことが少々気になってしまったが、アデリアナはなるほどと頷いた。美しいものが好きで、装うことに人一倍熱心な王妃殿下らしい話だ。


「王妃殿下のお茶会のときにも、リンゼイ夫人に髪をお願いしたいわ。お話のいいきっかけになりそうだもの。……助かりました、ありがとう」


 椅子を引かれて、アデリアナは立ち上がる。

 そうして、シェーナを振り返った。


「……あの、シェーナ。付いてきてくれる? お願いがあるの」

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