29話 前世は前世?
産休に入ったユーリは、今までしなくてはいけないと思っていたのに先延ばしにしていた、パーラーやミシンの習練所の責任者をきちんと決めたいとバタバタする。
「妃殿下、産休の意味をご存知ですか? 休むという意味ですよ」
セリーナに叱られて、ユーリはそんなにバタバタしていないわよと拗ねる。
「パーラーは、今のままで良いと思うけど……辞める責任者が、次の責任者を指名していくので充分じゃない。会計士をつけてるし、何年か勤めた女の子達に責任ある仕事をさせるのは良い事だと想うわ」
ビクトリアの言い分は尤もだと、セリーナも思った。
「現場の責任者はそれで良いのよ。私は全体的な責任者を探しているの。寮母のダルドリー夫人だって、上の息子さんは士官になられたし、いつまでも寮母をして下さるとは限らないでしょ。そういった事を総て任される責任者を探しているの」
セリーナはパーラーから手を引くのも良いだろうと思ったが、ビクトリアはユーリの話に納得できない。
「寮母なんか、そうそう交代しないじゃない。変だわ、何を考えているの?ドレスを知り合いや女官に分け与えたり、身辺整理みたい……まさか、侍医に何か言われたの?」
意外にもビクトリアは鋭いなぁと、ユーリは溜め息をつく。
「まさか体調が悪いのですか?」
元気そうにパーラーや、ミシン習練所に連日出掛けているのにと、セリーナは心配する。
「いいえ、ビクトリア様の考え過ぎよ。ドレスは母親になったら、もう少し落ち着いたデザインの物をと、マウリッツ公爵夫人が沢山用意して下さったから処分したの。それにウエストも太くなるかもしれないし……」
セリーナは、いつマウリッツ公爵夫人がドレスを仮縫いさせる暇があったのか不審に思ったし、ビクトリアはユーリが何か誤魔化しているとピンときた。
「妃殿下は、私達を信用されていないのですね……何か心配事があるのなら、お話し下さい。夫にも、誰にも言いませんわ」
セリーナは、側近とは、少し不適切な例だしユーリがするとは思えないが、浮気をしたいと思ったら手伝うほど親密な関係なのだと、何か考えているなら打ち明けて欲しいと言う。
「私は、少し不安なの……祖母のキャサリン王女も、母も出産で亡くなっているから……それと……私は前世に19才で死んだから……侍医は何も言わないけど……安産体型ではないみたいだし」
セリーナはスタイルは良いが、ボン、キュウ、ボンと安産体型だし、ビクトリアは細身だが背も高く骨格はしっかりしていた。二人はユーリの華奢な体型を思い出して慌てた。
「前世、うんぬんはどうでも良いわ。どうせ、馬鹿な占い師の戯言でしょ。それより、ちょっと失礼。ユーリの腰を触らせて……本当に、細いのね!」
ビクトリアをどかして、セリーナも腰を触って細さに驚いた。
「大変ですわ……何か安産になる呪いとか知らないですか?」
ユーリが気にしている前世の件を経産婦のビクトリアとセリーナは無視して、骨盤の細さを心配しだす。
「妊婦も軽い運動をすると安産になると聞いたことがありますわ。侍医に相談してみましょう。母上のロザリモンド姫も華奢なお方だったと記憶してますわ 妃殿下を出産された時はどうだったのかしら? 記録など有りませんわよね」
「変人だけど、ヘルメス様に相談してみるわ。侍医より革新的な医療の研究をしているもの」
ユーリは二人が余りにも大騒ぎしだしたので、冷静になってと宥めにかかる有り様だ。
「とんでもない! 出産は女の大仕事ですわ。不安をそのままにしておけません」
侍医やヘルメスを呼び出して、ユーリの不安を解消できる方法を聞き出したが、出産はその場にならないとわからないとしか返答がない。
「医者でも、男の人は当てには出来ないわね。食事に気をつけて、軽い運動をするなんて常識的なことしか言えないのですもの。かえって産婆の方が役に立つかもしれませんわ」
ユーリは普通の出産には、産婆しか呼ばないのだと聞いて驚いた。
「そうね、出産は余りにも産婆まかせだわ。経済的に苦しい女の人達は、栄養や運動など気を遣えないし、医者など呼べないのよね。腕の良い産婆ばかりとは限らないし、何か手を打たなくてはいけないわ。孤児院には出産で母親を亡くした乳幼児が沢山いるのだもの。もう少し、産婦人科の研究を進めるべきだし、貧しい女の人達が安心して出産できる助産院も必要ね」
ユーリがまた仕事モードになったのを、セリーナは今は自分と赤ちゃんの健康だけを考えて下さいと説教する。
「ねぇ、軽い運動って、庭を散歩するぐらいかしら? やれることは、やってみましょうよ」
ビクトリアはユーリの助産院の考えに賛成で、出産で亡くなる女性を減少させたいと考えたが、妊娠中に考えるのは良くない話題だと思って庭に連れ出す。
「秋のうちは散歩もできるけど、冬になったら寒くて無理ね。部屋の中でできる運動を考えなくてはね」
二人で散歩しながら、ユーリはビクトリアに前世の記憶があるのと打ち明けた。
「前世の記憶? だから、真名が読めるのね。でも、余りすらすら読めてなかったようだけど、何故なの?」
「真名に似た文字を知っていただけで、文法も何もかも違うのよ。前世には、魔法も竜もなかったの。科学が発達した世界だったとは覚えているけど……あいにく、仕組みに興味が無かったみたいで……」
「科学が発達した世界なら、医術も発達していた筈よね。出産で役に立つことを、何か覚えてないの?」
「え~無理よ、私は19才で死んだのよ。それに……キスもしたことなかったの」
「前世でも鈍かったのね~」
ビクトリアは、グレゴリウスの熱烈アタックになかなか気づかなかったユーリに呆れていたのだ。
「酷いわ~、ああ、そう言えば妊婦が余り肥らないように注意されていたような……」
「妊娠中は、栄養を捕らなくてはいけないのよ。そんなの変だわ」
「前世は、凄く豊かな世界だったからかしら?」
ユーリは興味が無かったのか 記憶が消えていってるのかわからないと肩をすくめる。
「前世の記憶があるって、本当かしら? 頼りないわねぇ~」
冬の間、ユーリのお腹は、順調に大きくなっていった。
侍医や、ヘルメスは、華奢な骨盤を心配していたが、妊婦を不安がらしても良い事はないと考えてユーリには伝えない。
ユーリは軽い運動を心掛け、食事も食べ過ぎないようにしていたが、日毎に大きくなるお腹の中で元気いっぱいに動く赤ちゃんに早く会いたいと思う。
「あっ、動いている!」
暖炉の前でソファーに座って、ユーリのお腹をグレゴリウスは触っていた。
「近頃は、よく蹴られるの。元気いっぱいな赤ちゃんだわ」
「余り蹴らないように、言い聞かせなくてはね」
ユーリは赤ちゃんの産着を縫う手を休めて、お腹を愛おしそうに撫でているグレゴリウスを見つめた。
「名前は考えてくれた?」
グレゴリウスは何個かは候補は考えていたが、決めるのは産まれてからにしたいと思う。
「昔ながらの方法にしたいんだ。赤ちゃんを抱いた時に、浮かんだ名前に決めて良いかな?」
ユーリは両親が自分が生まれた時の事を話してくれたのを思い出した。
「ええ、昔ながらの方法が良いわ。私も、パパが初めて抱っこした時に浮かんだ名前を付けたと聞いていたもの」
グレゴリウスはユーリを抱きしめて、良い名前が浮かぶかなと笑わせた。
「変な名前が浮かんだら、どうしようかなぁ? お嬢ちゃん、坊ちゃんとかさぁ」
二人の足元で寝ていたルナとソリスは、耳をピクンと動かす。
「酷いわ~、でも、私よりはネーミングセンスが良いと信じているわ」
寒い冬が過ぎ、少し春めいてくると、ユーリのお腹はますます大きくなり、この赤ちゃんを産むのかと不安に感じる。
『大丈夫だよ、私が付いているから。赤ちゃんも元気そうだし』
イリスに、無事に産めるか不安なのとユーリは打ち明ける。
『そうよね、案ずるより産むが易しと言うもの。早く赤ちゃんに会いたいわ』
キャベツを持って帰った夫婦は30組とも見事に妊娠して、メルローズやシェリルは二人目なので、ユーリより早く無事に出産を終えた。
「メルローズ様とシェリル様は女の子だったのね。お二人とも一人目は男の子だったから、喜んでいらっしゃるわ。私の赤ちゃんは、いつ産まれるのかしら?」
出産への不安と、赤ちゃんに早く会いたいという期待に、ユーリは揺れ動く。
王宮の人々も、いや、イルバニア王国の全国民が、ユーリのお腹の中の赤ちゃんが無事に産まれることを祈っていた。
モガーナもそろそろ産まれる頃だと思い、ユングフラウに行こうと考えていた矢先、少し予定日より早くユーリの陣痛が始まった。
「グレゴリウス様、起きて……」
ユーリは夜明け前に陣痛が始まったのに気づいて、隣で寝ているグレゴリウスを起こす。
「ユーリ! 大丈夫なのか? 侍医を呼べ!」
慌てるグレゴリウスを、ユーリは陣痛の合間に、まだまだ産まれないから大丈夫よと笑う。
女官の知らせで侍医が駆けつけ、離宮は慌ただしい雰囲気になった。グレゴリウスは居ても立ってもおられず、寝室の前をうろうろしていた。
王妃や国王やマリー・ルイーズも駆けつけ、グレゴリウスに落ち着くようにと言い聞かせたが、初めての子どもが産まれるのに落ち着いてはいられないと心配そうに寝室の前から離れない。
「どうなっているんだ!」
グレゴリウスは時折聞こえてくる苦しそうな声に、心配で気も狂いそうだ。
「グレゴリウス、ここに座りなさい。初産だから、半日はかかりますよ」
お祖母様の言葉に、グレゴリウスは半日もユーリが苦しむのかと愕然とする。
王宮からの知らせで、マキシウスとマウリッツ公爵夫妻が駆けつけた昼頃になっても、全く出産は進んでいなかった。
「難産になりそうです」
初産にしても様子がおかしいと、王妃とマリー・ルイーズは侍医を呼び出して説明を求めたが、やはり難産だと聞かされて心配する。
マキシウスは何も役に立てない自分を殴りつけたい気持ちだ。
次第に皇太子妃が出産だと聞きつけた貴族達が王宮に集まって来たが、身内のみしか離宮には入らせなかった。
夜になると、寝室の隣の居間を重苦しい沈黙が支配してきた。
「ユーリは、大丈夫なのだろうか……」
グレゴリウスは心配で堪らなくなり、寝室へ入った。
「ユーリ! ユーリ!」
ベッドの上で苦しむユーリに心臓が引き裂かれそうな気持ちになり、手を握りしめて名前を呼んだが、陣痛に襲われているのか唇を噛み締めていて返事は無い。
「何か手は無いのか!」
「グレゴリウス様、大丈夫よ。心配しないで……」
陣痛の合間に一言ユーリは心配しない様にと言ったが、どこをどう見て心配するなと言うんだと、グレゴリウスは怒鳴りたくなった。
「皇太子殿下、外でお待ち下さい」
侍医と産婆に追い出されたグレゴリウスは、王妃やマリー・ルイーズに中の様子を訊かれたが、ユーリが苦しんでいるとしか答えられなかった。
まんじりともせず夜が明けて、朝日が居間を照らす頃、疲れ果てた侍医が居間に出てきた。
「このままでは……どちらかをお選び下さい」
グレゴリウスは、侍医の言葉の意味が理解出来なかった。
「どちらかを選ぶ? まさかユーリが危ないのか!」
侍医に殴りかかろうとするのを、マキシウスが止める。
「皇太子殿下……」
国王は決断を下せないグレゴリウスの代わりに、ユーリを救うようにと侍医に命じた。
「嫌よ、側に寄らないで! グレゴリウス……赤ちゃんを殺させないで……」
寝室からの力の無い叫び声に、グレゴリウスは応える事も出来ず、扉を拳で殴りつけた。
「妃殿下、何をされるのです!」
「お止め下さい!」
侍医と産婆の叫び声に、グレゴリウスは寝室に飛び込んだ。
「私の死体から、赤ちゃんを取り出せば良いわ!」
陣痛で苦しみながらも、ユーリは侍医が赤ちゃんを見捨てる決断を下したのに気づいた。自分で腹を切って帝王切開をする根性は無かったし、お腹の赤ちゃんを傷つけるかもと心配してできなかったので、ユーリは喉を突く位なら出来るとベッド脇の医療器具からナイフを取った。
「馬鹿な真似はよすんだ!」
グレゴリウスは、ユーリからナイフを取り上げる。
「私もイリスも限界なの……やはり、19才で死ぬ運命だったの……赤ちゃんだけでも救って……」
陣痛の合間に必死に訴える、ユーリの手を握りしめる。
「馬鹿な事を言うんじゃない! 前世の事など知るもんか! 私の側に一生いると誓った言葉を忘れたのか」
陣痛に襲われながらもベッドにうつ伏せ、お腹の中の赤ちゃんを守ろうとするのを痛ましく思ったが、ユーリを失うわけにはいかないとグレゴリウスは非情な決断を下そうとした。
「私の孫娘に、勝手な真似はさせませんわよ。皇太子殿下、お産に殿方は邪魔ですわ、出ていって下さい」
突然、現れたモガーナに叱り飛ばされてグレゴリウスは寝室から追い出されてしまったが、わけも無くこれで大丈夫だと感じる。
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