その5
「ん、興味ある? その気ならつないであげるよ。ウチにも得意なヤツいるし」
「……ほんとに? だましたりしない?」
「なんで? だますワケないじゃん。
異民局の人間が太鼓判を押したにも関わらず、幼い自殺志願者は顔を曇らせる。
「……じゃあ、ダメだよ。ボク、
そうつぶやき、折れそうなほどに細い肩を落とす。降り注ぐ雨が全身を濡らし、水を吸ったスウェットは、まるで拘束具のように身体に密着している。
断崖を思わせる屋上の端で、雨雲に覆われた薄明かりの空を背景に、濡れそぼったエキゾチックな「美少女」が絶望に立ち尽くすさまはどこか妖しげに映る。まるで耽美主義の芸術家が情動の赴くままに仕上げた絵画のようだ。
「ヘーキヘーキ。書類書き換えちゃばいいんだから」
「そんなコト、できるの? あんなに診断受けたのに……」
「大丈夫だって。認定してるの私らだよ? 本土の連中にはバレないし、バレたところで誰も何も言うわけない。さっさと済ませれば5分もかからないよ」
2人の間にたちこめた重苦しい空気を、リンの陽気な声がかき消した。
「……ホントにいいの? ウソだったら……」
「『ココにいたくない』って気持ちは分かるよ。これでもいろんな世界見てきたから。本人が見切りつけてるのに無理強いするほうがコクでしょ。運が良ければ、また別の世界に行けるかもだし」
「……」
「ってコトで、とりあえずウチまで来ない? さすがにここで公開処刑ってわけにもね」
幼い自殺志願者は、鉄柵の向こうにいるリンの目をまっすぐに見つめた。
どちらも無言のまま、およそ1分ほどの時間が流れた。
床を叩く水と吹きつける風の音だけが屋上に響くなか、リンの視線の先で、鉄柵の向こうの人物が身じろいだ。
「……わかった」
幼い自殺志願者は、ひとまずリンを信じることにしたようだ。まだわずかに震える足を鉄柵に向かって踏み出す。
そのとき、その日一番の強風が襲った。局所的なミニ台風によって、ビル全体が暴風と暴雨と轟音に包まれる。
暴風雨に目を塞がれた幼い自殺志願者は、とっさに手を伸ばした。少し先にある鉄柵につかまろうとしたが届かない。
空をつかんでバランスを崩したところへ強風が追い打ちをかけ、さらに踏ん張りかけた足が水で濡れた床の上を滑る。
「あ……っ」
そうと気づいたときには、小さな体は、宙空に向かって倒れようとしていた。
「!」
屋上の向こうへ離れていくスウェットをつかもうと、リンは鉄柵の隙間から手を伸ばした。
強風が吹いたとき、彼女はすでに動いていた。一瞬のためらいもなく床を蹴りつけ、吹き荒れる雨と風を突き破り、鉄柵の前にたどり着いていた。
リンの予測では間に合うはずだった。
だがそこで想定外のことが起きた。
リンの手がスウェットの端をつかみかけたとき、自殺志願者の体が縮んだ。正確に言うなら、なにか別のモノになっていた。
「変身!?」
屋上の端へ消える一瞬、リンの目には、それが猫のように見えた。
「余計なマネして!」
言い捨てる間にも、リンは右脇にある飾り塔の壁を蹴りつけると、その反動を利用して鉄柵を飛び越え、胸壁と鉄柵の間にあるわずか1mほどの空間に危なげなく着地した。
胸壁に立ち下をのぞきこむと、猫らしき影が地面めがけて落下していた。身体を丸めているのは、少しでも落下の衝撃から身を守るためだろうか。
結果からいえば、それは無用な心配であった。
2階付近を通過したとき、猫の背中が何かにぶつかった。地面よりはるかに柔らかい衝撃だった。
ボフボフボフボフボフボフボフボフボフボフボフボフボフボフボフ……。
軽快な連続音と衝撃が猫の身体を包む。次第に落下スピードが落ちていき、最後はいったん沈んだあと、反動で小さくバウンドし、それ以上、落ちることはなくなった。
落下が止まったあとも、猫の落ちた「床」はゆらゆらと波打っている。
猫が落下したのは無数の風船で作られた安全マットの上だった。
マットの基盤となっているのは、高さ10mの浴槽型巨大風船で、ビルの壁沿いに作られた巨大風船の中には、一辺1mほどの立方体の風船が何層にも敷き詰められている。
リンが自殺志願者の注意を引いている間に、事前に指示を受けていたルカが作り上げたもので、相手に気づかれぬよう素材を透明にする念の入れようだ。
「思ったよりいいデキじゃん」
雨天で視界が悪いこともあり、マットの存在を知っているリンですら、一見しただけではその全体像を判別できないほどだ。
下で待機していたルカと警察官たちがマットの周りに集まるのを見届けると、リンは下に降りるため非常口へ向かった。
「対象を保護したいのですが、どうすれば?」
現場の指揮をとっていた警察官が、風船の壁を前にしてルカを振り返った。
「ちょっと待ってください。外側の空気を抜くんで」
ルカが頭の中で指示を送ると、浴槽型巨大風船の壁のあちこちに設けられた空気弁が開放された。道路に大きな噴射音を轟かせ、風船内の空気が抜けていく。
魔法を解除すれば風船は一瞬で消えるが、浴槽の底にあたる部分は厚さ2mほどあり、これを消してしまうと保護した人物がケガをする恐れがある。
「中の人、もうちょっとガマンしててくださいね。すぐ出られるんで」
ルカは壁の向こうにいるであろう人物に呼びかけた。
相手からの返答はなかったが、巨大風船の中に敷き詰めていた立方体の風船群は消しているので、状況は理解できているはずだ。
風船の壁が半分ほどになった頃、屋上にいたリンも合流した。
「どうなってる?」
「もうすぐです」
壁の向こうは静かなもので、物音ひとつしない。すべて順調に進んでいるはずであった。
だが、しぼんでいく風船を眺めてる間に、ルカは違和感を覚え始めていた。
そして、まったく反応がないまま風船の壁がしぼみきったとき、マットの上には誰もいなかった。
「いないじゃん」
「……のようですね」
屋上から落下してきた何者かが、この中に収まるのを確かに見た。いったいどこへ消えたのだろうか。
ルカには答えようがなかったし、リンも責めてるわけではなかった。
「……逃げたか」
ぼそりともらしたあと、リンは風船を包囲していた警察官たちに呼びかけた。
「誰か、この中から何か出てくるの見なかった? 人間じゃなくてもいい。猫でも鳥でも、何か見なかった?」
ざわつく警察官たちの中から、ビルの壁際にいたひとりが手を挙げた。
「中からかどうかは分かりませんが、配置につこうとしたとき、猿のようなものが逃げていくのを見た気がします。一瞬だったので見間違いだったかも知れませんが」
そう言ってビルの隣にある空き地を指差した。
「猿? 猫じゃなくて?」
「あ、いえ、分かりません。ハッキリ見えなかったもので……。申し訳ありません」
「ああ、いいのいいの。大丈夫。ちょっと気になっただけ」
「はあ……」
警察官たちはリンの質問の意図をはかりかねていた。大雨と強風にさらされながら屋上を見上げていた彼らには、落下した人物が猫に変わるところを視認できなかったのだ。
そしてそれは彼らといっしょに地上で待機していたルカも同様だった。
「どういうことです? 変身でもするんですか?」
「落ちるとき猫になってた。見てなかった?」
「はぁ」
リンは、自殺志願者が逃げたと思しき空き地を一瞥すると、現場の指揮をしていた警察官に向き直った。
「逃げたんならしょうがない。今日はここまでにしよ」
「分かりました」
「お疲れさま」
現場の撤収作業を警察官たちに任せて、リンは自分の車へ戻っていく。その背中を追いかけながらルカがたずねた。
「いいんですか? 探さなくて」
「残りたいなら好きにすれば? ツバキさんには私から言っとくよ」
リンは振り返りもせずそう切り捨てると、さっさとCCVに乗りこんだ。
悪天候の中、どこに行ったかも分からない変身能力者を探すなど雲をつかむような話であり、まっぴらごめんだ、と態度で示していた。
置いていかれてはたまらないと、ルカは慌てて車の反対側に回った。
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