第29話 シュレーディンガーの箱
私は猫を飼っている。
「今日はノー残業デーよ」
主任の言葉に追い立てられて、私はデスクの上を片付けた。
毎週水曜日がノー残業デーになって、良いような悪いような。
他の日にしわ寄せがくるんだけど、定時に終わるのは嬉しい。
会社近くの店で適当に食事を済ませて家に帰ると、押し入れから一つの木箱を取り出した。
黒っぽい木で作られた十センチくらいの木箱。サイコロ型で、全部の面に細かい彫刻が入っている。よく見れば文字のようなものも刻まれているが、どこの国の文字とも違うから本当はただのでたらめな模様かも知れない。
その木の箱には、小さな穴が一つ空いていた。
私はこの箱の中に、猫を飼っている。
この箱を手に入れたのはもう三年も前、まだ大学生だった時のことだ。
急に雨が降り始めたから、近くにあった店に飛び込んだ。
地味な店構えなので今まで覗いたこともなかったけど、店内には可愛いものがいろいろと並んでいる。アンティークな小物を扱っている雑貨屋さんだった。
「雨ですね」
びっくりして前を見ると、店員さんがいる。全然気が付いてなかったので飛び上がるほどびっくりした。
「は、はい。すみません」
「あはは。良いですよ。店内でも見ながらゆっくりと雨宿りしていってください。無理に買わなくてもいいですからね」
「あ、の、すみません、はい」
挙動不審なのは許してほしい。
店員さんはこの店とよく似てる。ぱっと見た目は地味だけど、よく見ればかっこいいお兄さんだったから。
そんなの兄さんの言葉に甘えて店内を見ていた時に、一目で惹かれたのがこの箱だった。
箱を手に取ると、店員さんはちょっと驚いたようだ。
「それが気に入りましたか」
「はい。すごくキレイですね。ここに穴が開いてるけど小物入れですか?」
「あ、ちょっと待ってください。その穴を覗かないで!」
「え? あ、はい」
「あのですね。雨が止むまでまだ少し時間があることですし、よければ説明させてください」
そう言うとお兄さんは、売り場に商品のように置かれていたアンティークな椅子に座るよう勧めて、自分も向かい側に座った。
そして木箱をテーブルの上にそっと置く。
「この箱は、シュレーディンガーの箱って呼ばれています」
シュレーディンガーの猫という言葉は有名だから私も聞いたことがあった。量子力学の説明をするために作られた仕掛けのことだ。
箱の中に猫を入れる。箱には仕掛けがあって、50%の確率で毒が出る。箱の中で猫が死んでいるか生きているかは箱を開けてみないと分からない。
箱を閉じている間、猫は生きていて、なおかつ死んでいる。
実際はそのどちらかの状態なのだろうと普通は思う。でも生きているのと死んでいるのがどっちも成り立っているっていう謎な状況がシュレーディンガーの猫だ。
まあこれはお兄さんの説明を私なりに理解した話なので間違ってるかもしれないけど。
「この箱の中には、未来が入っているって言われています」
「未来?」
「そんな言い伝えがあるんです。とても古い箱なんですが、誰も覗いた人はいません」
「覗くとどうなるんですか?」
「未来が分かるんですよ」
「すごいじゃないですか。なぜ覗かないんです?」
「それがシュレーディンガーの箱って言われてる由縁です」
この箱の中には、覗いた人の未来がたくさん、重なって入っている。幸せになる未来、不幸になる未来、思いがけない出来事に出会う未来。その全部がこの箱の中に入っている。
「覗くことによって、その中の一つの未来が見えます」
「ふうん。でも未来を見れるって便利そう。悩みが解決するかも」
「そうですね。覗いてみます?」
「買わなくて覗いても良いんですか?」
「いいですよ。ただ一つ気を付けることが」
「はい」
「覗いたら、その未来は確定してしまうってことです。たった一つの結果が決まってしまう。猫が生きているか死んでいるかわかるように」
たった一つ開いている穴は小さくて、遠くからは中は見えない。目をくっつけて覗き込んでも、真っ暗で見えないんじゃないかな。
でも、もし見えたら。
それが私の未来だったら。
私はそれを見てどう思うんだろう。
「覗いてみますか?」
「……」
箱は木の重さだけで、振っても音はしない。蓋もないから小物入れにもならない。
きっと未来が見えるという話も、ただの嘘にちがいない。
でもすごく心が惹かれた。
なぜかは分からない。
箱の中の猫が私を呼んでる。そんな妄想をした。
箱の隅っこには、不似合いな白い値札が貼られている。
「これ、買ってもいいんですか?」
「もちろんです」
お兄さんは丁寧に箱を包んでくれた。
雨がやみ、私は帰る。
それ以来、この箱は私の家にある。
そしてたまにこうして遠くから眺めている。
この箱の中には猫が入っている。
その猫は生きていて、死んでいる。
あるいは、この箱の中には私の未来が入っている。
それは幸せで、不幸で、驚きに満ちている。
シュレーディンガーの箱を、覗いてみたことはない。
【了】
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