第15話 人形

 長くなるが聞いてほしい。私の持っている人形の話について。


 先生もご存じの通り、私は人前で歌う仕事をしている。

 その縁で、見知らぬ人から贈り物を頂くことが多い。私の好みはよく知られていて、古い時代の陶器や外国で作られたランプのような骨董品が多かった。もちろん極端に値の張るものはなかったが、私のために選んでくれたというそのことが何よりも嬉しい。

 人形はこうした贈り物のなかにあった。


 磁器でできた滑らかな顔は美しく整っている。体は比較的軽い素材だが、それでも身長が140センチもあり、抱きかかえると人を運んでいるような気持になった。

 いくつもの球体関節で体勢は自由に変えられる。貰ったまま飾っていたので、服を着替えさせたりしたことはない。


 ある時、場所を動かそうとして人形を抱きかかえた私は、その首の後ろ側に小さな穴が開いているのに気付いた。

 傷にしてはおかしい。きちんと作られたような滑らかで丸い穴だった。

 こういう人形にそんな穴を開けるという話は聞いたことがない。

 何の穴かが気になる。

 だが縁とは妙なものだ。これはもうドールの研究家に相談するしかないと実行に移す直前のこと。たまたま、本当に偶然に人形のものとそっくりの穴が私の前に現れた。それは古い掛け時計だった。


 ゼンマイ式の振り子時計は、人形とは別の人に頂いたものだ。手に取って飾ろうとしたときに、ゼンマイを巻く穴が人形の首の穴とよく似ていることに気付いた。

 試しに時計についていた巻き鍵を人形にあててみると、それ用に作られたかのようにぴったりと穴に嵌る。

 ゆっくりと右に回すと、カチカチ、カチカチと澄んだ音。

 なるほど。ゼンマイ式の人形だったのか。

 ようやく腑に落ちた私は、ゼンマイを切らないように用心深く巻いた。


 近頃はゼンマイ式のおもちゃも少なくなったから、扱い方を知らない者もいるかもしれない。ゼンマイというものは巻き過ぎると切れてしまい、もう使えなくなる。

 ゆっくり、ゆっくり、注意深く。

 カチカチ、カチカチ、カチカチ。

 大きな人形だけにかなりゼンマイを巻いても大丈夫そうに思える。だが用心のため私は途中で巻くのをやめた。

 小さなからくり人形ならゼンマイで手足が動くんだろう。けれどこの大きな人形はいったいどこが動くのか。


 巻き鍵を抜いて、私はじっと人形を見ていた。

 一見すると人形はどこも変わらない。

 ジジジ……というゼンマイが戻る音。人形は動かないままだった。

 緊張して止めていた息を、ふっと吐き出す。

 なんだ。動かないのか。

 そのとき、人形がわずかに笑ったような気がした。

 そして間違いなく奇跡が起きた。


「あなた」


 人形が喋ったのだ。

 聞いたことのある懐かしい声で。

 その顔はさっきまで冷たい磁器だったはずが、いつの間にか体温を持っていた。そして私のことを澄んだ目で見つめる。


 ジジジ……ジジ……ジ……。


 ゼンマイの音がする間だけ、人形は命を吹き込まれたかのように見えた。ただし喋ったのはたった一言。いつしかゼンマイの音は止まり、人形はまた人形に戻っていた。


 その日から私は毎日一回だけ、人形のゼンマイを巻くことにした。

 なぜ一回だけかと聞かれたら、分からないと答えるしかない。

 その時はかたくなに、夜寝る前に一回だけだと自分に言い聞かせていた。


 これもご存じかも知れないが、私が妻を亡くしてからもう三十年になる。

 人形が私のもとに来たのは今から十年ほど前だったか。

 ゼンマイを巻くたびに、人形は一言だけ喋る。


「あなた」


 懐かしい妻の声で。


 ある日、私はどうしてももっと声が聞きたいと思った。ゼンマイをぎりぎりまで巻けば次の言葉が出るのではないか。

 用心深く、けれどもいつもより強めにゼンマイを巻いた。

 ジジジ……ジジ……。

 人形の顔が生気を帯びる。


「あなた」


 いつものように妻が私に呼びかける。そしてしばらくの沈黙の後、私の願いが届いたのか、再び妻の声を聞くことができた。


「あ……」


 最後にたった一言、『あ』とだけ言ったあとゼンマイの音は消えた。

 そのあとに続く言葉が何だったのか。

『あなた』だったのかもしれないし『あいしてる』か、あるいは『あぶない』だったのか。


 ちょうどその次の日、あの事件が起こった。

 そう。

 ファンの一人が包丁を持って私に駆け寄った、あの事件。

 犯人の包丁は私の首をかすめて床に刺さった。

 そうとう危険な状況だったのに、私はかすり傷を負っただけで済んだ。翌日にはもう仕事に復帰できるくらいに元気で。

 けれどその日家に帰った私は、犯人に追いかけられた時よりも遥かに動揺した。

 部屋の中で出迎えた人形の首が大きくひび割れて、辺りに冷たい磁器の欠片を散らしていたからだ。


 修理することは難しかった。

 いや、一度試みたことはある。

 ただ、元通りには程遠かった。

 そもそも割れた人形の中にゼンマイなどどこにも見当たらず、欠片を全部張り合わせたその首には、穴が無かった。


 人形は今もここに。

 木の箱に入れて、死んだように横たわっている。

 私を火葬するときはどうかこの人形を一緒に。

 遺言の最後に、そのことを書き加えてほしいのです。


【了】



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