第162話 自転車競技部の日常
インターハイの地区予選は、神崎高校の圧勝で終わった。
冬希は、その見た目から柊に疫病神扱いされた為に見に行かなかったのだが、スタート時から郷田がハイペースで曳いて、いきなり集団がバラバラになったそうだ。
この時点で、なんとか郷田に先頭を曳かせて、疲弊させれば勝てるかもしれないと思っていた大部分のチームの目論見は、脆くも崩れ去った。
郷田についていけたのは、潤、柊、そしておゆみ野高校の今崎だけで、それ以外の選手たちは全員周回遅れになったというのだから、その日の郷田の凄まじさがわかる。
ラスト5周で今崎も千切れ、最後は郷田、潤、柊のスプリント勝負になり、潤のアシストを受けた柊が優勝となった。
自転車ロードレースは、現在では実質は団体戦ではあるものの、元々は個人で争うレースであるため、個人で順位がつくようになっている。
神崎も
「今日は誰が勝つのかな?」
と、チーム内で勝負してもいいよと、暗に示唆していた。無論、誰を勝たせるなどのチームオーダーもない。
全国高校自転車競技会では、各校の出場者のタイムの合計で1番早い学校が団体優勝だったが、インターハイ地区予選は、1位になった選手の所属する学校がインターハイ出場となるため、今崎がいる中では、神崎高校も団結して走っていた。
ラスト10周で今崎が苦しそうにしているのを見た潤は、柊と潤と郷田の3人での先頭交代で一気にペースを上げ、粘ろうとする今崎をラスト5周で突き放した。
そのため、最後は3人でスプリント勝負をする事ができた。
3人の中では、誰が勝ってもインターハイ出場は可能なのだが、いつ自分が勝負しなければならない時が来ないとも限らないため、優勝争いの経験はしておくべきだ。
この日はたまたま、3人の中で1番決め手を持っている柊が勝ったが、柊のアシストに回った潤も勝負する日が来るかもしれない。
「というわけで、俺の事を千葉チャンピオンと呼んでいいぞ」
柊は、折りたたみ椅子に座って足を組んでいる。
「なるほど、で千葉チャンピオンは、なんで全日本チャンピオンより偉そうにしているんですか?」
冬希がいう通り、柊がふんぞり返っている横で、郷田は自分のロッカーの清掃をしていた。
「千葉チャンピオンも、自分のロッカーを綺麗にしてください。なんか、どす黒い瘴気みたいなものが見えるんですけど。なんなんですか?魔界とでも繋がっているのですか?」
「馬鹿言うな。中は綺麗なもんだよ。絶対に開けるなよ。危ないから」
「危なくて開けれないロッカーが高校の部活動の部室にあるって嫌なんですけど」
「だったらお前が整理しろよ」
「まあ、とりあえず開けるだけ開けてみますけど」
冬希が恐る恐るロッカーを開けてみると、中からあらゆる黒い物体が雪崩のように崩れ落ちてきた。
「うわあああああああ」
「まったくもう、閉めるの大変なんだぞ。それ」
ロッカーから崩れ落ちてきたのは、ハンドル、ブレーキ用のワイヤー、サドル、使用済みのチェーン、真っ黒に汚れた軍手に、真っ黒に汚れたゴム手袋、真っ黒に汚れたTシャツだった。Tシャツは、着られなくなったものを、チェーンや自転車を綺麗にするためのウエスとして使ったものだ。
「ガラクタで一杯じゃないですか。普段、荷物とかどうしてたのですか?」
「お前のロッカーに入れてる」
まさか、と冬希が自分のロッカーを開けてみると、冬希のカバンの上に柊のカバンがあり、その上に脱ぎ散らかした柊の着替えがあった。
「せめてパンツをそのまま放り込むのはやめてください」
冬希は、ガックリ脱力する。
「とりあえず、燃えるゴミは捨ててきますので、それ以外を片付けて置いてください」
冬希が、ゴム手袋、軍手、シャツ、さらには剥がしたバーテープなどを燃えるゴミの袋に入れ、学校指定のゴミ置き場まで捨てに行った。
冬希が戻ってくると、多少はスッキリしたものの、まだガラクタが放り込まれている。
「チェーンとか、まだ使えるかもしれないだろ!」
柊は、冬希のロッカーから自分の鞄を取り出し、ガラクタの上からロッカーに入れた。
「使えませんよ。それ完全に伸びちゃったやつでしょ!」
そんなやりとりをしていると、神崎理事長と船津が部室に帰ってきた。
「おお、伝説の柊くんのロッカーがついにキレイになったのかな?」
神崎も、柊のロッカーが尋常ではないことは知っていたようだ。
冬希は、「少しはキレイになりました」と言おうとしたが、この状態を「キレイになった」と表現することは、この世の全てのキレイ好きに対する冒涜のように思えた。
「80キタナイから、40キタナイぐらいにはなりました」
「お前、俺のロッカーを、キタナイって単位で表現するんじゃないよ!」
大体なんだよ40キタナイって、とガックリしている柊と、
「なるほど、わかりやすい」
と、冬希の表現に感心する3年生2人がいた。
「ただいま」
春奈が家に帰ると、母親がカウンターキッチンの向こうから「おかえり」と声だけで出迎えた。
「あー、疲れた」
春奈は、ソファーにダイブする。体重をかけると後ろに倒れるソファーで、春奈がダイブしたことで、背もたれがほぼ平面になっている。
「あなた、もう膝は大丈夫なの?」
「あ、そうだね。忘れてた。なんか怪我する前より調子いいかも」
障害馬術をやっていた頃、膝の腱を切る大怪我をして、しばらく左膝を伸ばしたままギブスで固定されていた。
ずっと膝を伸ばして生活していた影響で、ギブスが外れてからも中々膝に力が入らず、不意にガクッと崩れ落ちそうになることがあったが、冬希と毎週末に自転車に乗るようになって、全く気にならなくなっていた。
怪我する前より調子がいいというのは流石に嘘だが、春奈は膝の力については怪我をする前より筋力がついている気がしていた。
「怪我が完治したなら、川口先生に連絡しなさいよ。乗馬を続けるにしても、辞めるにしてもね」
「うん・・・・・・」
川口先生というのは、春奈が通っていた乗馬クラブのインストラクターだ。
怪我をして以来、乗馬クラブには行っていない。馬に乗るのが怖くなった、というのもあった。しかし、辞めてしまうという決断もできずにいた。
馬に乗るのは楽しい。技術的なことも、突き詰めればどこまででもいける気がしていた。本当に中学時代は、乗馬が全てだった。辞めるなんてそんな簡単に決断できるものではない。
「電話してみる」
いつまでも、このままではいけない。それは春奈もずっと思っていたことだった。
春奈は、乗馬クラブに連絡をすることにした。実に、半年ぶりのことだ。
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