第159話 引きずっていたものにケリをつけなければならない時は必ずくる必ずくる
神崎高校の理事長兼自転車競技部顧問の神崎秀文は、帯広市内にあるカフェに居た。
場所は帯広駅の近くで、レンタカーは駅近くの営業所へ既に返却済みだ。借りた営業所とは違う営業所に返すことができる、乗り捨てというオプションを使用した。名称的に勘違いしそうだが、路上に乗り捨てていいというオプションではない。
郷田の母親の容体は心配だ。だが、神崎に出来ることは、早急に郷田を母親の元に帰らせることまでで、それ以上のことに関しては無力だ。
そして、神崎は神崎で、十数年間抱えてきた課題を解決する必要もあった。
入口のベルが鳴り、一人の女性が入ってきた。背が高く、長い黒髪が美しい。
「やあ、北海道ってこんな時間に暗くなるんだね。ビックリしたよ」
「変わらないわね。ヒデ」
「君もね、茜」
神崎は、言いつつ自分の向かいの席に座るよう、手で勧めた。
渡邉茜は、神崎と旧知の中だった。小学校の頃からの同級生で、神崎の家にもよく遊びに来ていた。
同じ中学に進み、高校も同じ神崎高校に進学した。
当時から人目を惹く容姿だった茜は、男子たちからの人気が高かったが、茜自身は他の男子には一切興味を示さず、神崎と一緒にいることが多かった。
明確に告白したわけではない、だが、神崎は茜のことが好きだったし、茜も神崎のことが好きだった。言葉にする必要がない、そんな恋人同士だった。
しかし、神崎は全国高校自転車競技会での失態で心が深く傷ついて、海外へ逃げてしまった。
二人の関係は、そこで終わってしまった。
「仕事だったのかい?」
「ええ、今は福祉事務所でケースワーカーをやっているの。丁度この近くへ訪問で来てたの」
福祉事務所のケースワーカーは公務員で、生活保護の受給を求める人と面談や訪問を行い、申請を行なったりする仕事だ。受給者の自立に向けたフォローも行う。
神崎は、茜らしい仕事だと思った。高校の時から、茜は児童養護施設などにボランティアへ行っていた。
「ヒデ、日本に戻ってきていたのね」
「ああ、君のことを探したんだけど、どうしても見つからなくってね」
「あなたが日本からいなくなって、いろいろなことがあったのよ」
茜は、神崎が姿を消してから、失意の中に居た。なぜ、自分を頼ってくれなかったのか。私はその程度の存在だったのかと。
今ならわかる。時間しか解決してくれない事もあると。だが、その時は分からなかった。
「あなたがいなくなって、その後に付き合った人と結婚して、離婚して・・・」
神崎も、そこまでの経緯は知っていた。
神崎が日本を去ってから、当時の同級生と付き合い始め、大学を卒業と共に結婚、しかし夫は酷く酒癖が悪く、酔うと茜に暴力を振るった。そして次の日には、暴力を振るったこと自体覚えていなかった。
結婚生活は1年と持たずに、茜は離婚することになった。
その後も、茜の元夫は頻繁に連絡をして来たため、DV被害者である茜は住民票の閲覧制限を行って、千葉から北海道へ逃げた。そのため、そこから先は、日本へ帰ってきた神崎も追うことができなかった。
「祖父の弔電ありがとう」
「私もすごくお世話になった人だったから」
神崎が茜の居場所を知ったのは、祖父の葬儀に届いた一本の弔電だった。
そこで初めて茜の連絡先を知ることができた神崎は、多忙の中、全日本選手権で北海道へ来る機会に、一度会っておくことにしたのだ。
「神崎高校、すごい活躍ね。あなたがまだ自転車競技に携わっているのも驚きだけど」
「そうだね。戻ってくるまで10年かかったよ」
時間が、神崎の傷を少しずつ塞いでくれた。
心の傷を負った神崎に必要なのは、優しい言葉ではなく、時間だったのだ。知っている人たちとの一切の連絡を断ち、誰も知らない場所へ旅立つ必要があった。神崎は、全ての知人が自分を責めているような錯覚に陥っていたのだ。
結婚生活を1年で終えることになり、失意のままたった一人で北海道へ逃げてきた茜は、ようやくその時の神崎の気持ちがわかった。
「もう、あの時のことは忘れられそう?」
「忘れられはしないな。でも思い出すことも無くなったよ。僕の可愛い生徒たちが、僕の代わりに仇を取ってくれたからね」
神崎は、目を細めていった。
その表情は、茜にはとても幸せそうに見えた。
「ずるい人」
茜は、可能ならばあの頃に戻りたいと思う。神崎と幸せに過ごしていたあの頃に。
「あなたは、あの頃に戻りたいと思ったことはない?」
あの頃というのが、神崎と茜が一緒だった時期だということは、神崎にも理解できた。
「今、僕には2人の子がいるんだ。上の子が女の子でもうすぐ4歳になる。下の子は男の子で2歳になったばかりなんだ」
二人とも、パパが大好きだ。神崎の妻で、2人の子の母親は、神崎をとても大切にした。神崎も、自分のような人間と結婚してくれた妻をとても大切にした。
その結果、2人の子供は、パパもママも大好きで、とてもまっすぐに育ってくれていた。
神崎が出張で帰宅できない夜などは、「パパいない、パパどこ」と泣きながら家の中を探し回ると、妻から聞いた。
その翌朝に神崎は、起床後1番に2人を抱きしめるのだ。
「僕には、あの子たちが居ない世界で生きていくことなんて出来ないんだ」
神崎は、茜とのことをずっと引きずって生きていた。だが、子供たちが生まれて、その感情は心のどこからも無くなってしまった。
子供が生まれると、人生が変わると生前の祖父はいっていた。自分の子供がこの世に生を受け、その意味が初めてわかった。それは新しい人生の始まりだったのだ。
「そう」
茜は微笑んで、コーヒーカップを口に運んだ。
しかし、それは悲しい諦めの表情だった。
「ごめん、そろそろ飛行機の時間だ」
神崎は、2人分の伝票を持って立ち上がる。
「じゃあ」
「ええ、会えてよかったわ」
神崎は、短い挨拶の後に席を離れた。もう2度と会う事もないかもしれない。
2人分の会計を済ませ、神崎はカフェの外に出る。
神崎は、10年以上も心の中に燻っていた関係が、一つ終わりを迎えたことを感じた。
神崎が人生の全てを投げ打ってでも手に入れたいという妄執に取り憑かれていた、全国高校自転車競技会の総合リーダージャージを、彼の生徒たちが持ち帰ってくれた。
そして、本当に長い間、心に引っかかっていた少年時代の彼の初恋に、ようやく区切りをつけることも出来た。
神崎の初恋は、10年前でずっと止まっていた。しかし、そうしている間にも彼女も自分の人生を生きていた。そのことがわかるまで、10年もかかった。
神崎は、彼の子供たちが起きているうちに帰り着くのは難しいかな、と思いつつ、帰路に就いた。
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