第139話 葛西臨海水族園①

「お母さん、あれどこだっけ、白のワンピース」

 キッチンに入ってきた春奈を見て、春奈の母は脱力した。

「あんた、女版ランボーみたいになってるわよ」

 春奈は、茶色のズボンと黒いタンクトップ姿だった。

「この上からワンピース着ればいいでしょ」

「まあ、そうだけど。ウォークインクローゼットのハンガーにかかってるから」

「はーい、お母さんもそのヨレヨレのスウェットそろそろ洗濯しなよ」

 春奈がキッチンから出て行く。

 その後、キッチンに戻ってきた春奈は、母親から見てもそれなりの格好をしていた。

 春奈はトースターに食パンを入れて、焼き始める。テーブルには既に母が作った目玉焼きが並んでいた。

「今日はどこに行くの?いつもの自転車は?」

「自転車はお休み。電車で葛西臨海水族園に行ってくる」

「誰と?」

「お母さんも多分知ってる人」

 春奈は、焼けたトーストにバターを塗りながら言った。

「あら、あったことある子?」

「あった事はないかな」

 春奈は、食パンを頬張りながら、宙を見た。

 母は入学式に来ていたから、新入生代表のスピーチは見ていたはずだ。そして、レースを走る冬希をTVで一緒に見ていた。あんたのところの学校の子が勝ったじゃない、と言っていたので、一応認識はしているはずだ。

「歯を磨いたらもう出るね」

 ガタッと椅子から立ち上がり、春奈は母に告げた。

「はいはい、気をつけて行ってくるのよ」

「お昼は食べて帰ってくると思う」

 春奈は、自分の食器も含め、シンクにあった食器をすべて食洗機に入れ、洗剤を入れて回してから、キッチンから出ていった。 

 春奈の母は、首をかしげた。学校では無類の人気を誇る春奈だが、母親から見ると、まだまだ幼いというか、男の子っぽさが抜けきれない、心配な子だった。まだまだとても色恋沙汰に縁があるとも思えない。

 ただ、無理矢理買わせたワンピースを着ていくあたり、案外相手は男の子かもしれない。

「あの子がねぇ」

 春奈の母は、娘の昼食が要らなくなった分、自分の昼は適当なもので済まそうと思った。


「冬希待ちなさい」

 玄関から出かけようとする冬希を、冬希の姉は呼び止めた。

「いいものをあげよう」

 冬希の姉は、1万円札を広げて見せた。

「おお!」

 冬希が眩しそうにみる。まさに、お金に後光が差しているように見えた。

「あんた、今日デートでしょ」

「ま、まあ俺はそのつもりだけど」

「このお金で、全部出してあげなさい。いいわね」

「こんな大金もらっていいの?」

「この間の全国大会で優勝したお祝いということでね。ただ、全部使い切ってくるのよ」

「ありがとう!」

 冬希はいそいそと玄関から出て行った。


 午前10時半、葛西臨海公園駅の改札を出たところで待ち合わせた。

「お待たせ!」

 改札を通ってきた春奈を見て、冬希が動揺する。女の子だ。

 福岡に春奈が来た時に思ったが、春奈はそこまで私服に頓着しないようだった。なにを着ても似合うので、そこまで気にする必要はないのかもしれないと思っていた。だが、今日は眩しい、後光が差している。姉には悪いが、1万円札の比ではない。

「行こうか」

 冬希は、平静を装いながら、春奈と歩き出した。

 駅舎から出ると、青空が広がっていた。多少ガスってはいたが、前日の雨予報が嘘のようだった。

「晴れたなあ」

「うん、晴れたね。自転車できてもよかった?」

 春奈の視線を追うと、ロードバイクで公園内を走っている人たちが見えた。

「うーん、ビンディングシューズで水族館を歩くのはなぁ。あと、自転車の盗難とか心配だし」

「あ、そうだね」

 二人は歩くと、広場のようなところに出る。キッチンカーが並んでおり、大道芸人が道具を準備している姿もある。奥には、水族園の入り口が見える。

「冬希くん、朝ごはんは?」

「モリモリ食べて来た」

「あは、私も」

「お昼は、水族館の中のレストランで食べようか」

「そうだね。水族館の中のご飯ってどんなのだろ。楽しみだな」

 冬希は、水族園の入り口に差し掛かったところで、姉から受け取った1万円札の話を切り出した。

「1万円を使い切るって凄いね。でも私の分まで出してもらって、いいのかなぁ」

「いいと思うよ」

 しかし、それで納得はしないだろうなとも、冬希は思う。

「もし気になるんだったら、今度姉の誕生日プレゼント、一緒に買いに行かない?」

「あ、いいね。私もそれお金出すよ!」

 そうでも言わなければ、出させてもらえない気がしていたので、作戦はうまく行ったと言えた。

「じゃあチケット買ってくるよ」

 冬希は並んで、手早くチケットを購入してきた。春奈は、記念撮影用のマグロを、ほえーと眺めている。

「じゃあ、行こうか」


 デートというデートは未経験な二人が、未知の領域に踏み込もうとしていた。

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