第115話 春奈、到着

 全国高校自転車競技会の千葉県代表、神崎高校で理事長を務める神崎秀文は、普段の柔和な印象とは違い、硬い表情で祖父の部屋を後にした。

 父から、祖父の認知症の話を聞き、会いに行くという事になった時に、神崎は病院に行くのだと思っていたが、教えられたのは介護保険施設だった。

 そこで認知症と診断された祖父に初めて会った時、祖父は神崎のことを覚えてはいたが、引き出しに入れていた万年筆を盗られた、財布の中のお金が減っていたなど、現実とは違うことを言い続け、普段とは違うという印象だった。それが認知症でよく現れる「物盗られ妄想」だということは、調べて初めて知ることになった。

 その後、何度も面会に訪れたが、次第に神崎のことを思い出せなくなり、全国高校自転車競技会の開幕直前になり、ついに食事を摂らなくなった。

 元気だった頃に、神崎の祖父は、点滴などによる延命を拒否していたので、食事拒否の行く末は、どうなるか明白だった。現在は、柔らかく食べやすい食事を提供してもらうことで、なんとか命を繋いでいるが、いつ何があってもおかしくないと、神崎は思うようになっていた。

「チームのみんなには申し訳ないが・・・」

 神崎の祖父は、神崎が高校生の頃から、神崎の自転車競技を応援し、自分の孫は総合優勝を達成するだろうと周囲に言ってきた。

 神崎が理事長に就任し、自転車競技部に熱を上げると、批判的な理事達に対し、自分の孫は必ず結果を出すと理事会で援護し続けてくれた。

 総合優勝を達成し、その結果を祖父に伝えることが、最大の恩返しだと神崎は信じていた。だが、選手達には、そういう思いは伝えていない。それは神崎の個人的な感情であり、それを理由に、総合1位をキープし、うまく行っている選手達に変なプレッシャーを与えたくないからだった。

 今日も神崎は、選手達に事務的な作戦指示だけを行なった。


「なんか湿度が高い気がする」

 浅輪春奈が自転車競技部、というか、お互いに親友と認め合う青山冬希の応援のため福岡空港に降り立ったのは、朝8時30分だった。

 空は青く晴れており、日差しも心なしか東京に比べると強い気がしていた。

「えっとまずは、お父さんのマンションに荷物を置かないと、身動きが取れないかな」

 春奈の父は、千葉県庁の職員で、現在は福岡県庁で専門分野の育成を手伝っている。ウィークリーマンションを借りて住んでいる。

 全国高校自転車競技会の選手達や関係者、観客が大挙して押し寄せており、福岡の宿泊施設はどこもいっぱいだったので、父のマンションを使わせてもらうことにした。

 春奈の父は、一週間だけ大牟田の事務所へ出向いており、その間マンションには誰もいないので使わせてもらうことになっていた。

「えっと、馬出だから、地下鉄で行けるのかな。でも、中洲川端で乗り換えなきゃいけないのか」

 スマートフォンで乗り換え経路と到着時間を調べる。

「うーんやっぱりスタート地点には間に合わないか」

 スタート地点である道の駅宗像は、鉄道の駅から離れており、簡単にいけそうにはなかった。

「仕方ない。ゴールで待つか」

 コースの途中で応援すると、今度はゴールに間に合わなくなるため、それもすっぱり諦め、春奈はゴール地点で待つことに決めた。

「じゃあ、行きますか」

 春奈はキャリーバッグを引きながら、地下鉄の改札がある地下へ向かって歩き始めた。


 地下鉄は、乗り換えにこそ時間を要したものの、東京とは違い、市営地下鉄一本で、空港線だの、貝塚線だのの小さな分岐はあるが、基本的にはシンプルなため、春奈はすぐに目的地の馬出に到着することができた。

 管理人さんに預けてくれていた鍵を受け取り、その鍵で部屋に入ると、一息つく。

 少しだけ荷物を片付けてそのまま部屋から出かけようとして、忘れ物をしていることに気がついた。

「あっといかんいかん」

 キャリーバッグの中から、パスを取り出す。

 前日に、学校で神崎理事長に渡されたものだ。春奈が応援に来てくれることを冬希が神崎理事長にTV通話で伝えてくれたらしく、休日だがよかったら取りに来るように言われていた。

 渡されたパスは、チーム関係者などというレベルではなく、監督用のパスで、選手が入れないようなところも自由に出入りできる代物だった。

 恐縮した春奈は、結構真面目に

「現地では、監督っぽくしておいた方がいいですか?」

 と神崎に尋ねたが、神崎はそれを聞いて笑っていた。

「さて、ゴール地点の博多駅に行きますか」

 博多駅は、実は空港から2駅の場所にあったが、荷物を置く必要があったので、通過してきた場所だった。

 春奈は、博多駅に向かって、乗ってきた経路を再び遡っていった。

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