第313話 銀のベナンダンテ③

 翌日。いつも通り基礎訓練の開始三十分前に運動場へ到着したファシムは、ここ最近続いていた個別指導という名の一対一を仕掛けてくる者を待ち構えていたが、皆早めに集まってくるものの、誰も仕掛けてはこない。

 さすがに懲りたようで、業務を円滑に進められるのは助かる反面、ファシムはどこか物足りなくも感じていた。


 ベナンダンテやラグロウル族の連中も、ファシムの方を遠巻きにチラチラ伺ってくるばかりだが……その中でイリャヒ・リャルリャドネ、ラヴァリール・グリザリオーネとタピオラ姉妹が、やけにニヤニヤしているのが気になる。

 もっともあの四人は普段からわりとニヤニヤしているので、あまり判断材料にはならないのだが。


 開始二十分前。なにやら周囲がざわつくと思ったら、珍しい男が顔を出していた。

 長い黒髪を馬のたてがみのようなソフトモヒカンに整えた、長身で筋骨隆々の怪僧、名前はベルエフ・ダマシニコフ。

 知らない相手でもないため、丁重に挨拶しておく。


「貴様か。なんの用だ」

「ようファシム、やってんなあ。どうだ、こっちでの仕事には慣れたか?」

「それなりだ。なにをしに来た?」

「つれねえなあ。同期としての旧交を温めようぜ?」

「ゾーラで短期研修という名の調教を受けて、さっさとミレインへ出荷されていった畜生が、正規ルートで任官した俺と同期か?」

「お前さあ、そういうとこがガップアイのエリートレーダーに引っかかるんだよ。結局地位や立場への執着から逃れられてねえんだろ」

「司祭位にも相応しい品格というものがある。俺はそれを説いているだけだ」

「てめえの気分や都合を、ずいぶんてい良く言い換えたもんだな」

「減らず口を」


 ファシムとしてはこれでも結構頑張って穏やかに会話しようと試みたのだが、やはりと言うべきか一触即発の雰囲気となってしまった。

 どうもこの男とは馬が合わない。気性が正反対というのもあるが……一番はこの男が、救世主ジュナスを寸毫も崇拝していないからだ。


 彼ら自身とはまったく別の理由でだが、ファシムも〈銀のベナンダンテ〉の撤廃を望んでいる。

 信仰のない者が、仮にも神のしもべを名乗るべきではないのだ。

 極めて平たく言うと、嫌いだから出て行ってほしいということになる。


 そのための方策も手筈を整えてはいるが……それはそれとして、今はベルエフが邪魔だ。

 ファシムはペースを乱されていることを自覚しつつも、常にない諧謔を口にする。


「なんなら貴様も参加するか? 俺に勝てれば、願いを叶えるランプの魔人になってやる」

「ノリノリじゃねえの、ファシムくん。でも、パスだ」

怖気おじけ付いたか?」

「違う違う。俺がやるまでもねえってことさ。わかるだろ?」


 まったく許可していないのだが、ベルエフは運動場の隅に腰を下ろして、お茶やお菓子などを取り出し寛ぎ始めた。

 止めても聞くまいと、結局ファシムは放置を決め込む。


 やがて開始十分前になり、ヒメキアが姿を見せた。彼女はというと、なぜか普段よりオドオドした様子で、ファシムに挨拶しに来て、その後少し脇に退く。

 彼女が向けた視線の先には、ファシムが予想した通りの少年が立っていて、二人を隔てる十メートルほどの範囲から、自然と皆が距離を取った。


 デュロン・ハザークは決然とした気迫を放ち、ファシムをまっすぐに見据えてくる。

 なにか策を携えてきたのは間違いない。いや、隠す気すらないらしく、奴はポケットから小さな袋を取り出したかと思うと、その中身を自らの口へ放り込んだ。


 キラリと光る致命の銀色を見逃すほど、ファシムの眼力も弱くない。

 を飲み下したデュロンの体が、一気に完全獣化変貌へと至り、断末魔のような叫び声を上げ始めた。


「オオオオオオオオオオオオ!!」


 いや、実際にそれに近いのだ、とファシムは脳内の情報を浚う。

 これは奴がウォルコ・ウィラプスとの対戦で使用したという、極限状態における潜在能力を無理矢理引き出す手法だ。


 奴の姉オノリーヌが付けた正式名称は、生体術式〈青銅蛇ネフシュタン〉。

 死力をもたらす銀は表面の箔に過ぎず、胃液で溶ければすぐに青銅の地金が露わとなり、少しの間放っておけば、なし崩しの再生が許されるという、偽りの死兵を生み出す……要するにハッタリにしか使えない代物のはずだ。


 いちおう短時間の運動能力向上は見込めるようだが、いずれにせよ近づかせなければいいだけだろう。

 思考が単純化しているのか、デュロンが一目散に跳びかかってくるのが見えた。


 さすがに凄まじいスピードではあるが、動きが直線すぎてカモでしかない。

 これまでの十回と同じように、ファシムは内臓を対象とした〈透徹榴弾ステルスハウザー〉で狙い撃ち……即座に自らのその漫然とした判断を顧みる。


 ちょっと待て、なにか認識が抜け落ちている気がする。わかった、あれだ。人狼の持つ異常な速度の基礎代謝により、今の奴は全身の血液に微量の。銀は魔族の肉体にとって猛毒であると同時に、魔力を遮断し、魔術を無効化する絶縁物質である。


 しまった。確かに元から魔力ゼロで近接格闘特化の人狼にとっては、死にかけるというデメリット一つと引き換えに、魔術による内部破壊を防げてお得といえばお得なのだが、あまりに発想がアホすぎて、そんな前提条件を精査したことがなかった。


 ファシムが気付きを得るまでの刹那の間に、人狼は彼に肉薄している。

 思考がほんの少しだけ遅かった。反応がほんの少しだけ間に合わない。


 そしてこの状態となったデュロンの身体能力は、ファシムよりほんの少しだけ上だとわかる。

 頭から首へと衝撃が突き抜け、地面に五体を叩きつけられて初めて、ファシムは自分が顔面を強かに蹴られ、吹っ飛ばされたのだと理解していた。




 本当に一撃入れるのが限界だったな……と、デュロンは跳び回し蹴りから着地したままの姿勢で、全身から激痛と脂汗が引くのを待っていた。

 死にはしないだけでめちゃくちゃきついし、再生能力をほとんど持って行かれる。


 できれば二度とやりたくなかったが、背に腹は代えられない。

 それに今はあのときと違い、手の届く距離にヒメキアがいる。


 事前に示し合わせてはいたのだが、それでも不安にさせてしまったようだ。

 後ろから抱きついてくる彼女に癒されつつも、危ない方法を使ったことを反省せざるを得ない。


 ヒメキアの魔力で回復が早まったことにより、デュロンは相手の反応を確かめる余裕ができた。

 ファシムはゆっくりと上体を起こし、その場で胡座あぐらをかくと、なぜかやや気遣わしげに見上げてくる。


「デュロン・ハザーク、これは純粋な助言なのだが……次から決闘を仕掛けるときは勝敗条件だけでなく、自分が勝った際相手に突きつける要求も、最初に明示しておくべきだな」

「……あ!」


 ヒメキアの基礎体力を向上させたい具体的な理由を話すか、それができないなら彼女にさせたいそのなにかを諦めるか、なんだったら訓練自体を免除させるか、という感じだったのだが、確かになにもはっきりと言っていなかった。

 これでは本当にただ色々ムカつくからめちゃくちゃ頑張って蹴り飛ばしただけになってしまう。それはそれで達成感はあるものの、どうせなら実利も拾いたい。


 ファシムは呆れ気味に頭を掻いた後、のんびりと立ち上がり、裾を払って話しかけてくる。口調が少し気さくに、表情が少し柔らかくなっているように思えた。


「そういえば貴様、ずいぶんハロウィンにこだわっていたな。その日はパーティでも開くのか?」

「……まーな。ここにいる連中も含めて、仲間や友達を寮に集めまくる予定だよ」

「そうか……料理はヒメキアがするのだろうな」

「ああ。俺がやるとひでーことになっちまうし」

「免除だ」

「えっ?」

「十月三十一日に関しては、終日あらゆる訓練を免除しよう。貴様らだけではない、全員だ。なにか任務が舞い込めば、それも可能な限り、俺が代行してやる。たまには現場へ出て、神の敵どもをこの手で征伐するのも悪くない」


 周囲から歓声が上がり、ヒメキアが飛び跳ねているが、デュロンは情けをかけられたようでいまいち釈然とせず、擬死反応でも起こしたように硬直してしまう。

 ようやく相手を指差して搾り出した言葉は、我ながらまるで素直ではないものだった。


「か……勘違いすんなよ!? こんなんでお前を認めたわけじゃねーんだからな! 次は完膚なきまでにブチのめしてやるから、俺に敗けるまで他の誰にもやられんじゃねーぞ!!」

「うっっわ……今の聞いた? ヨケル」「聞いたよお姉ちゃん。デュロンくんマジモンじゃん」

「デュロン……俺はお前をそんなふうに育てた覚えは……いや、ちょっとあるかも?」

「デュロン……」

「デュロンちゃん……」

「デュロ公……」

「きつい」

「だいぶきついですね」


 ここまで引かれるとは思わなかった。ファシムに至っては顔をしかめている。


「デュロン・ハザーク……」

「な、なんだ?」

「罰として千周走れ」

「なんで!? なんの罰!? いいよもう、走るくらいで済むならやるよ!」


 結構スカッと勝ったはずだったのに、なぜかすごく敗けた気分で終わった。

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