第212話 守りの火

 氷の剣を精製して構えてみせるソネシエを、イリャヒは慌てて制止した。


「やめろ、ソネシエ。確かにあいつらはお前に他のなによりも武器術の才があることも、すでに固有魔術を発現・確立していることも、おそらく気づいちゃいない。


 だけど……悔しいが俺はもちろん、今のお前でも、あいつらには勝てない。


 今、こうしてお前が寝室を抜け出して俺に会いに来てることも、あいつらには魔力感知で筒抜けだ。


 なのに放置しているのは、現状俺たちの実力……具体的に言うと魔力の量では、あいつらをどうにもできないと確信してるからだ」


 ソネシエの落胆によって魔力の供給を絶たれ、崩れて溶け消える氷剣を眺めながら、イリャヒは善後策を練る。


「ソネシエ、やっぱりお前が一旦逃げ果せることを考えよう。外へ出て、シャルドネ叔母様の家へ……いや、教会にでも駆け込む方がいい。事情を話して、助けを呼ぶんだ。できるか?」


 これしかないと思ったのだが、ソネシエは必死で首を横に振る。


「だめ。わたしがいなくなったら、かあさんととうさんは、わたしがだれかをつれてもどってくるまえに、にいさんをころしてしまう」

「それは……確かに、そうだな……」


 万事休すだ……とイリャヒが考えたのが伝わってしまったのだろう。

 ソネシエが擁する黒曜の双眸が、にわかに紅玉へと変色する。


 本気だ、イリャヒはおののく。いまだ幼い彼女が放つ殺気に対してではない。挑み敗れる結末を予見し、避け得ない喪失を恐れるのだ。


 無言の決意表明を残して立ち去ろうとする彼女に向かって、狼狽するイリャヒは格子越しに限界まで腕を伸ばした。

 こんな無情な今生の別れがあっていいはずがない。必死で妹の手を掴み、ほとんど懇願に近い慰撫を試みる。


「待て、行くな! 良い子だから、兄さんの言うことを聞いてくれ!」

「だめ。にいさんは、やさしい。にいさんは、いつもわたしのしんぱいばかり。にいさんのいうことをきいていたら、わたしがいきても、にいさんがしんでしまう。

 わたしは、たたかう。とうさまと、かあさまを、わたしが……ころ、す……!

 それしか、にいさんをたすけるほうほうはない!」


 まずい、かなり思い詰めてしまっている。そして彼女の言うように、彼女一人に親殺しという大罪を背負わせるわけにはいかない。

 イリャヒが地下牢から出るために、イリャヒが地下牢から出ていなくてはならないという、ここにももどかしい自己矛盾が発生する。


 しかし、いよいよ彼女は覚悟を決めてしまったようだ。捕まえているイリャヒの手を、ソネシエの手の皮膚を裂いて飛び出た血の氷柱が、強かに貫く。

 イリャヒを助けるためなら、イリャヒを傷つけてでも、その手を離させるもやむなしと判断したのだろう。


 だがイリャヒにしてみれば、わざわざ串刺しに繋いでくれるなら、むしろ好都合ですらあった。

 この程度の痛みを理由に、その手を離すわけがない。

 ……のだが、イリャヒは貧血が窮まり、ある種の浮遊感を覚えてきた。


 その中でなお焦燥が脊髄を這い上り、脳髄を焼くのがわかる。

 もしも自分に力があれば、こんな葛藤すら存在しないはずだ。

 イリャヒは祈るような心地で、たった一つの望みを口にした。


「お前は、俺が守る! だからソネシエ、そばにいてくれ!」


 その瞬間、予期しない現象が起きた。

 イリャヒの手から、今まで一度も見たことのない青い炎が発現し、氷血の楔によって縫い止められているソネシエの手へ、そして彼女の全身へと、一気に燃え移ったのだ。


「うわあっ!?」


 慌てて自分の手から楔を引き抜き、妹を解放するイリャヒだったが、ソネシエは苦しみの声一つ上げず、それどころか慌てる様子すらない。

 ゆっくりと振り返った彼女は、火の点いたままの自分の手や体を見下ろし、炯々と青が盛る長い黒髪を翻して、その場でくるりと一回転した後、黒に鎮まった双眸でぱちくり瞬きし、同じように呆然としているイリャヒに報告してきた。


「にいさん……このほのお、すごい。まったくあつくも、いたくもない」

「えっ? そ、そんなことって……いや、これ、もしかして、俺の……?」

「たぶん……にいさんの、こゆうまじゅつ。だから、わたしがもえない」


 ようやくイリャヒは、なぜ先ほど昔の……あの謎のおっさんの夢を見て、彼の言葉を思い出したのかを、正確に理解した。

 余計な邪念を全部取っ払って、自分の本懐がなにか、内心を深く顧みることだけが、この事態を打開することに繋がるのだ。


 確かにクイードが指摘したように、凝縮された悪感情は、凄絶な瞬間火力を誇る、精強な固有魔術を発現し得るだろう。

 特に怒りは、かつての人間たちならいざ知らず、魔族にとっては大きな糧となる。


 しかし一方で憤怒や憎悪は極端な話、相手を殺して元凶を潰せば消える、刹那の激情でしかない。

 本懐を遂げた復讐者が精神的に燃え尽きてしまうように、持続性は低く、実際の戦闘で運用するなら、継戦能力や支援能力にはあまり期待できない。


 たとえばの話、もっとも優れた炎の魔術とはどんなものか?

 言い換えれば、火という性質を活かし、強力な爆裂系や雷霆系の魔術と張り合いたいなら、どんな能力とすべきだろうか?


 イリャヒの考えでは、それは消すことのできない、永遠に敵を苛む不滅の炎だ。

 さすがに今の彼がどう頑張っても、そこまでの神業には手が届かない。

 しかし、近いことならできるかもしれない。


 魔力は脳が生み出す思念の力とされる。ならせめてその源泉となる感情が無限なら、それなりの性能の固有魔術が仕上がるのではないか?


 もはや父や母への憎しみなど、どうでもいいおまけ程度でしかない。

 イリャヒの心には「ソネシエを守る」、この一念しか残っていない。


 これはなかなか悪くないように思えた。なぜならソネシエが死なない限り、彼女を守りたいという気持ちは、イリャヒの中で絶対に尽きることがないのだから。

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