第202話 蛇、真っ先に関与を疑われる
「なんだい?」
スープの味見をしながら振り返るケヘトディに、デュロンが二の句を告げようとしたとき……ソネシエが苦しそうな、荒い呼吸を始めた。
悪魔に魘されているようで、自分で自分を抱きしめるように、華奢な体をさらに縮こまらせながら、か細い声で
「かあ、さま……ごめん、なさ……い」
閉じたままの睫毛が震え、雫が一滴、頰を流れる。
それを見たデュロンはいよいよ愕然とした。
もちろん、彼女は心因ゆえ表情を変えられなくなっただけで、涙腺が死んでいるわけでもないというのはわかっている。
しかしここまで弱っていたとは、普段あれだけ一緒にいるのに、まったく気づいてやれなかった。
デュロンがまごまごしているうちに、ケヘトディがさっと近づいてきて膝をつき、無口な少女が搾り出した貴重な感情の発露を、指先で丁寧に拭い取る。
そうしてそれを持ち主へ魔術的に返還するかのように、紳士が彼女の長い髪へ撫でつけ、そのまま優しく梳いてやるのを、デュロンはぼんやりと見ているしかできなかった。
ケヘトディがしばらくそうしていると、やがて喘いでいたソネシエの唇は静かに閉じ、呼吸が元の緩やかさを取り戻していく。
その様子を確かめてからゆっくりと手を離し、しかし紳士は憂いを帯びた視線を外さない。
「……やはり、相当な精神的負担を感じていたようだね……初めから敵ならともかく、一般市民に名指しで命を狙われるようなことを言われたのだから、当然の反応だろうさ」
そうして彼はデュロンに眼を移して、遮るように掌を掲げた。
「ああ、言わずともわかる。君の質問に答えよう。
私は以前からこの子を知っている。この子の兄のことも、死んだ両親のこともね。
兄のイリャヒは、同僚である君の方がよく知っているだろう。だがこの子たちの両親のことは、この子も彼も名すら話していまい。
そして私のことは、存在自体知らなくてもおかしくはない。なにせあの家に行って顔を見せたことはほとんどなかったからね。
この子らの父の名はクイード・リャルリャドネ。母の名はリゼリエ、旧姓は……ケヘトディだ。
彼女は私の妹だった。つまり私は、この子の伯父ということになる。
私が君たちを助ける理由として、これでは信じるに不足するかな?」
デュロンは大きく息を吐き、ソファから腰を上げた。ずいぶん長く話を聞いて、凝った体を
「そんなわけねー、充分に決まってるさ。それよりこいつらの親族だっつーなら、俺がこの家の客かは微妙なところだ。なにか力仕事があったら遠慮なく言ってくれよ」
応じてケヘトディも笑みを浮かべて、本当にイリャヒによく似た仕草でおどけてみせる。
「おいおい、いいのかな? 音楽家も吸血鬼も
「おー、いいぜ。なんなら本棚全部ひっくり返したって構わねーよ」
「それ比喩だよね!? 裏に隠し扉の起動装置とかないからね!? さすがにそこまで秘密基地なわけじゃないぞ!?」
存在を主張し始めた月の光が小窓から降り注ぎ、穏やかな夜を形成しつつあった。
「……消えた?」
「ええ。現状そういう表現になってしまうわね」
執務机に就いたアクエリカの正面で立ち尽くし、イリャヒは当惑を隠すことができなかった。
かねてより噂されていた〈三番街の悪霊〉を調査しに行っていたはずのソネシエとデュロンが、ちょうど件の怪音が発せられる時間帯を境に、忽然と姿を晦ましてしまったというのだ。
さすがのアクエリカも今回ばかりは眉間に皺を寄せており、言葉を選んで喋る様子が伝わってくる。
「というか、少し妙なことになっていてね。今日の午後三時四十五分ごろのことなのだけど、いつもの無意味な騒音とは毛色の異なる、神託じみたものを聞いた……そういう証言が、三番街の住民から多数寄せられているの。
しかも隣接する二番街と四番街の一部にも及んでいるのだけど……彼らが言うには、声は救世主ジュナス様を名乗っていて、異様な説得力があり、自ずと従わざるを得なかったそうよ」
「……それで、その神託の内容というのは?」
濁し澱む方がイリャヒの精神衛生を害すると判断してくれたようで、アクエリカは明瞭に口にした。
「ソネシエ・リャルリャドネを異端として抹殺せよとのことよ」
「……それはまた、なんというか……今さらですね。私とあの子の犯した罪は、〈銀のベナンダンテ〉において贖われると決められたはず……今、その裁定を下しておられるのが、我々が拠り所とする救世主ジュナスそのお方であれば、の撞着ですけど」
「冷静な振りはやめなさい、イリャヒ。わたくしが喋り終わったら、すぐに一人で探しに行くつもりでしょう? 神託とやらが達成された痕跡が上がっていないのは幸いだけど、逆に言うとまったく当てもなく蒸発しているのよ? 拉致されたのか、自分たちで身を隠したのかすら不明でしてよ」
本当に冷静であることを示すべく、イリャヒは軽い調子で肩をすくめてみせる。
「まさか、私も少しは成長しています。まずは寮に帰って、なにかの行き違いでひょっこり戻ってきていないかを確認します」
「ええ、それがいいわ。もし実はなんともなかったのに、知らず大ごとになっていたら、あの子たちもびっくりしてしまうでしょうし」
「そうですよね。ベルエフ氏やリュージュには自然と耳に入るでしょうから、ヒメキアに優先的に知らせて、微力ながら私なりに、彼女の慰撫に努めようと思います」
「そうね、大切なことです。あの子は繊細だから、すごくショックを受けるはず」
「そして、私と同じことを考えているオノリーヌと合流し、二人で行動を開始します」
アクエリカがなぜか机をバーンと叩いて立ち上がったので、イリャヒはびっくりした。
「はいストップ!」
「ええ……なんでですか?」
「なんでですか? じゃないんですけど!? そんなことだろうとは思いましてよ! それじゃ街に火を放つのが、街に火と狼を放つのに変わっただけじゃない! 頭の茹ったシスコンとブラコンが合流したとして、無軌道な土石流が完成するだけでしょう!? そうじゃなくって……」
「アクエリカあああああ!!!」
突如として司教執務室の扉を都合三つに切り開き、光の剣を掲げたメリクリーゼが突入してきた。
長い銀髪を振り乱す
「どういうことだ!? ソネシエとデュロンくんが消えたと聞いたぞ!? お前、また妙な方から手を回したりしてはいないだろうな!? さすがにこの件に噛んでいたら、場合によっては斬り捨てもやむを得んぞ!?」
「ああもう、さらに面倒なのが来たわね! メリーちゃん、あなたたまには自分の称号を思い出してくれるかしら!? 一旦、静粛になさい!
そしてパルちゃんを連れて、三番街を捜索することを許可するわ!」
「なんだとお!? ……あっ、ん、いいのか?」
「むしろそう指示するわ。普通なら見えない瑣末な情報でも、あの子の〈
「……ときにメリクリーゼ女史が発せられた質問の答えを、まだ我々は聞いていないのだけれど」
不意に発せられた声にイリャヒが振り向くと、破壊された扉から気配もなく人狼二人が侵入しており、背の低い方が指を鳴らして召喚した
背の高い方はなにもしないが、丸太のような腕を組んで無言のままに発する圧が、ステンドグラスにヒビを入れていた。
さも当然かのように疑念と殺意に取り巻かれつつも、そこは教会世界の総本山を泳ぎ抜いた奸物、アクエリカは机を叩いて立ち上がった姿勢のままで一歩も動かず、皮肉混じりの冷然とした笑みを浮かべてみせる。
「答えは否よ。今のわたくしの状況が物語っているとは思いませんこと? こうなることがわからないと考えるほど、あなたたちはわたくしを……いえ、そんなことよりも」
アクエリカが普段から発している支配のオーラが、一段階深まったのをイリャヒは感じた。
にわかに下がったのは体感気温だけではないのか、ヒビの入ったステンドグラスが不自然に結露し、一方で肌には汗が滴るのを自覚する。
群青色の瞳に睨まれて動けなくなるのは、アクエリカに詰め寄る五人の方だった。
「まさかと思うけど、他ならぬ救世主ジュナス様をこそ侮っているわけではないでしょうね? 無辜の市民を煽動し、己に仕える少年少女をじわじわ擂り潰すようなやり方を、あのお方が好むとでも?
冒瀆の相手は選びなさいな。わたくしにもいちおう、蛇ではない部分もありましてよ?」
イリャヒ、ギデオン、オノリーヌはもちろんのこと、メリクリーゼとベルエフすら例外ではなく、即座に全員の頭が冷やされた。
最初に率先して跪いたのは、馬髪の怪僧である。
「申し訳ございません、グランギニョル猊下。
しかしてめえに関しましては日頃のご振る舞いが招いた勘繰りでございます。これを機にその胡乱な言動をお改めになりやがりますことを上申いたします。そして消えたのがてめえの部下どもであることをお忘れなくお願いクソ野郎」
「そうよ、よくわかっているじゃない。わたくしに対してはいくら舐めた口を利いてくれても構わないわ。しかし、どこの誰だか知らないけど……。
神託? 違います、断固として偽者です。
異端? なかなか丁寧な自己紹介なのね。
いいでしょう……この件は我々ジュナス教会への挑戦および挑発……いいえ宣戦布告と受け取りました。
この犯行声明を発した輩の薄汚い正体を必ず白日の下に晒し、地獄の苦しみを与えたのち火葬すると誓いなさい。今この場にいる全員がです。できない者は豚よ、わたくしが直々に首輪をつけて飼い殺しにしてあげましょう。わかったら解散!」
喋っているうちに感情が乗ってきたようで、アクエリカの潤んだ髪や肌が熱を帯びるのがイリャヒにも見て取れた。
彼女の気迫に押される形で一同は退室し、メリクリーゼはギデオンとパルテノイを連れて、取るものもとりあえず三番街へ向かう。
ベルエフだけは執務室へ戻っていき、「上に掛け合う」とかいう声がチラリと聞こえた。なにを掛け合うのかは知らない方がいいと思える。
イリャヒの肩を叩いて、オノリーヌがいつになく真剣な表情で促してきた。
「わたしたちは寮へ戻ろう。そして考えるのだよ。わたしの弟と君の妹を、最短距離で見つけ出す方法をね」
「……ええ。まったくいくつになっても、迷子たちには困ったものです」
気持ちは逸るが、闇雲に探してもどうにもならない。
それはわかっているので、イリャヒは彼女に従った。
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