第123話 狼が来たぞ!
アクエリカから恩赦による放免を言い渡されて地下牢を脱し、無事に陽の光を浴びることができたヴィクターは、硬直した体を気持ちよく解しつつも、どこか釈然としない部分が残っていた。
これだけやっておいてタダで帰されるというのは、なにか他意がある気がしてならない。
とにかく、アゴリゾもエルネヴァも挫かれ、ギデオンは……おそらく取り込まれただろう。
身を寄せる先といえば実家だろうが、持ち掛けた大きな商談がおじゃんになったので気まずい一方、労力以外の損害を与えたわけではないので、わざわざ顔を出すほどの負い目はない。
やったー、自由だ! と快哉を叫んだところで、その背中へ重い声が突き刺さる。
「ヴィークーターくーん? ずいぶん元気そうだな、おい?」
魔族以前に動物としての本能で萎縮し、硬直した体でゆっくりと振り向くと、ヴィクターが出てきたばかりの教会の屋根に、動く魔除けの像が立っていた。
いや、ガーゴイルならまだマシだった。そいつは屋根に手がつきそうなくらいの猫背で脚を開いて、地上の淫魔を胡乱に見下ろしている。
人狼は他者の感情を読み取ることに長けているが、彼ら自身は感情が読み取りづらい顔をしていることが多い。それがまた、たまらなく恐ろしいのだ。
デュロン・ハザークは灰色の眼をカッ開き、牙を剥き出しにして口を開いた。
「散々掻き回してくれたもんだが、まーそれは許すとしよう。でもよー、一発撃たれた借りをまだ返せてなかったよな?
悪いがこっちも面子ってやつがある、舐められたままじゃやっていけねーんだ。
つーわけで、パンチ一発で許してやるよ」
そう言って手の関節をパキパキ鳴らしてくる。
それを聞いて「ありがとう、優しいネ!」とは、もちろんならない。
ヤバい。本当になんのひねりもなくヤバいことになってきた。
冷静に普通に考えればわかる。あれだけ好き放題やっておいて、タダで帰れるわけがなかった。
デュロンは黒服の裾をはためかせて屋根から跳び降り、石畳の地面を陥没させて着地した。
こいつ何キロあるんだ、体当たりだけで死ぬ自信しかない。
「そうそう……メリクリ姐さんから聞いたんだが、お前、逃げ足には自信があるんだってな?
いいぜ、走ってみろよ。30秒ハンデをやる。
市壁の外に出りゃ……門さえ潜れば、俺はもうお前に手出しはしねーよ。
俺だって別に、長々と弱い者いじめをしたいわけじゃねーんだ」
サラッと死のゲームが言い渡されていた。だが、意外といけるかもしれない。土地勘という意味でも負けてはいない。
いずれにせよ、彼に選択肢は残されていないようだった。
地獄の鬼ごっこに参加し、逃げ切るしかない!
「用意はいいか?」
「えっ? あ、うん」
「じゃスタート!」
「どひいぃっ!?」
うっかり軽く返事して、サクッと始められてしまったので、ヴィクターは尻に火が点いたように駆け出した。
どの門かは指定されなかったが、趣旨を考えるとどこから出て行ってもいいのだろう。
たまたま体がそちらを向いていたという理由で、東の門をゴールに設定する。
「はぁ、はぁ……ひぃ、ひぃい……!」
ヴィクターは走った。ヴィクターの頭は、空っぽだ。なに一つ考えていない。ただ、わけのわからない大きな力に引きずられて走った。
……その大きな力というのは、要するに暴力への恐怖なのだけれど!
もはやハイになるしかなく、ヴィクターは通行者から見咎められるのも構わず、笑いながら叫んだ。
「あははっ! 狼だ! 狼が来たぞ!」
もちろん誰も助けてはくれない。
当たり前だ、狼くんの方が体制側に所属しているのだから。
しかし、頭を空っぽにしつつも、生き残ることを放棄したわけではない。
考えるまでもなく最短最速のルートを把握でき、それに従っているのだ。
ヴィクター自身が知っているわけではない。ただミレイン市民たちの肉体履歴が、それを教えてくれる。
固有魔術の導きに従い、ヴィクターは必死で足を動かした。
その懸命な努力が功を奏したようで、早くも東の門が見えてきた。
両脇に制服を着込み、制服を目深に被った衛兵が立っている。
明らかに挙動不審な駆け足で近づくヴィクターを見ても反応が薄いので、彼らにもアクエリカからの通達が行き届いているようだ。
デュロンの姿はまだ見えない。翼で飛ぶか迷ったのだが、どうやら判断を間違えなかったようだと、ヴィクターは自画自賛した。
「やった! 今度こそ本当に、僕は自由の身だ!」
やはりなんの動きも見せない衛兵たちの間を通り過ぎ、ヴィクターは門の外へ一歩を踏み出す。
……直前で横から首根っこを引っ掴まれ、完全に進行を食い止められてしまった。
「んんっ?!?」
意味がわからない。なぜ衛兵の一人に怪力で捕縛されているのかが理解できなかった
だがそれも、制帽の鍔を上げたそいつの顔を見るまでの話だった。
その男は、くすんだ金髪に灰色の眼という、死ぬほど見知った容貌をして、獰猛な笑みを浮かべていたのだ。
「よー、ヴィクターくん。お早いお着きで」
「な、な……なんで君、ここ、服がっ!?」
固有魔術〈
彼は特別なことも卑怯な真似もしていなかった。ただヴィクターを遥かに上回る健脚で、普通に街を駆け抜けている。
東の門へ到着した彼は、今、門の裏で
「ほらよ!」
「ギャー!」
かくしてヴィクターは、ミレインという鳥籠の中へと、呆気なく投げ返された。
キャッチ&リリースというやつか。違うか。いやそれはどうでもいい。ならそれはそれで、生き物を大切にしてほしいところだ。
ヴィクターだって生きている。生きているから、痛いんだ。
……いや、やっぱり痛いのは普通に嫌だな!?
「約束通り、一発だ」
「えーと……お手柔らかに頼ヴファッ!!?」
衝撃というより突風を受け、空中でキリキリ舞いしながら、ヴィクターは考える。
採血なんかをされるときもそうだったんだけど、意外と予告なくいきなりの方が、痛みを感じずに済むんだよね。
石畳の地面に叩きつけられたはずだが、容易に気絶する貧弱な肉体というなによりの麻酔が、ここ一番で発揮されたようだった。
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