護衛戦線・急
第117話 死者の椅子
急速に走り寄るギデオンの姿を正面から捉えて、デュロンは両拳を握りしめた。
牽制として繰り出した突きに合わされ、クロスカウンターを叩き込まれている。
「……!!?」
ギデオンが最後の一歩だけを異常に大きく踏み込んだため、意表を突く深さで右頬を打ち抜かれた。早くもフラつく頭で、デュロンは1秒遅れて理解する。
これまでは別個に用いるかフェイントに使う程度だった通常歩法と移動能力を、完全にシームレスな形で混ぜ込んできたのだ。
ヤバい……ギデオンはマジで本気のやつを見せてきている!
「そら、どうした」
「うるせー……!」
前回前々回の戦闘により、なまじギデオンの突きや蹴りの間合いを覚えてきたのが裏目に出ている。
まだほんの少しだけ届かないということで、デュロンの反射的な対応が発動する直前の距離感から、そのあと一歩がノーモーションで潰されて、強烈な右下段蹴りが人狼の太腿にぶちかまされる。
「うぐ……」
筋肉を締めて衝撃に備えるという、普段なら無意識でできる防御行動が、ほんの寸毫狂わされて間に合わないのだが、そのわずかな遅れが大ダメージを看過してしまう!
続く右上段蹴りの予備動作に入るギデオンを見て、デュロンはなにも考えず、左手を上げてガードしてしまう。
まずいのはわかるが、頭が追いつかない!
怠惰の代償としてデュロンの視界が急に下がり、鼻面が痛みと湿りを帯びた。
「ごはっ!」
蹴りの間合いから突きの間合いへ高速移動で詰められ、左手で髪を掴まれて右上段膝蹴りを食らったと理解したときには、さらに斜め上から右鉄槌打ちが振り下ろされているが、これはさすがに左手でしっかりと払いのけた。
完全にペースを握られている。ただ幸いにもこいつの空間踏破は接近にしか使えないという、本人の性格に反してやたら前のめりな能力なので、インファイトに徹すれば余計なフェイントに惑わされることもないはずだ。
そう考えたデュロンは、右拳を弾かれたギデオンが右足を一歩引くのを見て、間を空けるまいと追い縋る。
幸い、格闘における次手の選択に関してだけは、いつも通り瞬時の判断が可能だった。
左脇腹へ鉤突き? いや、左肘でガードされる。半身の状態で、少し遠い右脇腹の方がガラ空きだ。ここを蹴るに限る!
しかし揺らされたのはギデオンの臓腑ではなく、デュロンの脳髄の方だった。
「かっ……!?」
左の肘打ちで、顎を横からガツンとやられた……それはわかるのだが、ギデオンの距離がおかしい。デュロンの蹴りも、近すぎることで有効打点を外されて、威力が通っていない。
やられた。ギデオンは一歩下がる動きをしながら……いや、実際に一歩下がりながら、同時に移動能力で一歩進むことで、至近距離を維持してインファイトを続行してきたのだ。
重心移動や錯視を利用したテクニックとかではなく、身体的には正直な動きをしているので、逆に騙されてしまう。
頭蓋が残響する中、デュロンは意識を保ち、次手に備えた。
ギデオンは性懲りもなく、左足で一歩下がる動きを見せてきた。
今度はわかる。引くと見せかけ、距離を詰めて、体重の乗った右の突きだろう。デュロンはとっさに胸と腹の前で両腕を構えた。
そして、雨を切り裂き影を落とすギデオンの靴が眼前に迫ったところで、ようやく間違いに気づく。
ハズレ。答えは一歩下がったそのままの間合いから、素直に左上段回し蹴りだ。
「……ッ!!」
強烈な一発をこめかみに貰うデュロンは、自分の体が後ろへ吹っ飛んでいくのを、どこか
二階の屋根を滑って三階の壁に後頭部をぶつけたデュロンの体が、そのまま屋根の左側から中庭へと落ちていくのを、ギデオンは蹴り足を戻しながら見届けていた。
この高さから落ちて死ぬほど、人狼の肉体は
デュロンが気絶したままなのを確認し、ギデオンは放置を決めた。
次の一撃を入れようとした途端、または入れて殺しきれなかったことで、意識を取り戻されたのでは本末転倒だ。
ギデオンの勝利条件はあくまで、アクエリカとの契約を結んだ上での、アゴリゾの殺害である。
デュロンが出てきた後、アゴリゾがさりげなく窓を開け放しておいてくれているので、本来なら一定距離まで近づいた時点で遮蔽物のない状態で視線が合い、空間踏破能力が発動する手筈だった。
ギデオンにとっては楽な仕事で、デュロンにとってはより厳しい勝利条件を突きつけられる予定だったのだ。
実際には雨でやや視界が遮られたが、雨は余計な目撃者を減らすメリットもあったので、一長一短だったと言えるだろう。
そしてそれ以上にデュロンから眼を離すことができなかったのを、ギデオンは強く自覚する。
強敵ではあったが、彼ともこれまでだ。
窓に近づきすぎて真下まで来てしまい、角度的に中を見上げることができなくなっていた。
ギデオンは仕方なく普通に跳躍して、三階にある市長のオフィスへ侵入した。
「やあ、来たね」
「ああ、来たぞ」
死を迎え入れてもアゴリゾは泰然としたもので、部屋の真ん中に椅子を構え、静かな眼をして座っていた。
おそらくその視線はギデオンでなく、その向こうにいるアクエリカを見ているのだろう。悪い意味でブレない男だ。
そして椅子も死者を送るのに相応しい、シンプルだが造りの良いものだった。
胸がチクリと痛むが忘れたふりをし、ギデオンは現実に思考を戻す。
そういえば、メリクリーゼに斧の刃を斜めに斬られてしまったのを思い出した。
ギデオンが得物の惨状を示すと、アゴリゾは手振りで脇を示す。
ギデオンが壁に掛けられていた布を外すと、真新しい処刑用の斧が鈍い輝きを放っていた。
こんなこともあろうかと用意していたらしい。抜け目のないことだ。
得物を手に取り馴染ませ、ギデオンが上段に構えると、アゴリゾは微笑みを浮かべて瞑目し、右肘で頬杖をついた。
右利きのギデオンが斜めに斬りやすい、ベストの角度に首を調整したのだ。
満身の力を込めるべく、吐く息とともに妖精は言い置いた。
「悪くない連帯だった」
「同感だね」
息を吸い、止めて、躊躇なく斧を振り下ろす……。
「が……っ!?」
「な!?」
「はっははは!」
やはり、先に殺しておくべきだったのだ。
そうしていればベナンダンテの亡霊が背中に取りつき、処刑を邪魔することもなかったのに!
ギデオンに負ぶさってきたデュロンは、腕の動きを食い止めてきたわけではない。
むしろ棹差すように余計な力を加えてきたため、振れすぎて体が左へ流れたのだ。
結果、斧はアゴリゾの髪一筋を掠め、デュロンに腕を握り潰されているのもあり、勢い余ってすっぽ抜けて、床へ斜めに突き立ってしまった。
結構深く刺さっている。あれを引き抜くには1秒かかり、その1秒を背後霊くんが許さない。
「ガキめ……!」
毒づき、ギデオンはひとまず掴まれた腕を掴み返し、極めて投げようとしたが、悪霊……もとい、悪童は敏感に察して力を緩め、ストンと彼の背後に降り立った。
蹴りを予感したギデオンは前転して回避、踵を返して中腰で正対する。
案の定、躱していなければ危うくバカのバカみたいな脚力で金的を破壊されていたところだった。
人狼は振り上げた足を音もなく下ろす。
「バーカ、やらせるかよ。アゴリゾの旦那、そこでじっとしててくれ」
「あ、ああ」
建前上首肯するしかない市長を一瞥し、ギデオンの殺意はデュロンに戻る。仕方ない、この状況での遂行は困難だ。先にバカを片付けるしかない。
平手で構え、じりじりとにじり寄りながら挑発した。自然、相手も同じ姿勢で応じる。
「面倒だ、投げ殺してやる。
「景気のいいこった。だが真面目に働いてる職員の皆さんに申し訳ねーだろ、代わりにテメーが壁に減り込んどけ」
「お前が天井に刺され」
「テメーが机の」
デュロンが言いかけたところで、ギデオンの方から仕掛けた。襟を掴みに、死の手が伸びる。
魔族社会の徒手格闘で組み技系がほとんど使われないのは、それが人間同士の体力・体格・体質を元に作られた技術だったからだ。
しかしデュロンとギデオンは関節可動域が普通程度に狭く、1秒以上触れても問題のない表皮や能力であることを、今や互いに認識している。
身体的な主導権を奪うべく、互いにとっての死である互いの手が伸び合い、弾き合い、触れては叩き合う。
埒が明かないことでどちらも徐々に苛立ち始め、だんだん指の形が雑になり、気がつけば両者ともに両手が拳を握っていて、結局益体もなく至近距離で殴り合っていた。
と見せかけて、ギデオンはデュロンを窓際に追い詰めるようコントロールしている。
今度こそ文字通り叩き出してやる。それも、落ちそうになって慌てたところを徹底的に殴り殺し、受け身の取りようのない屍として着地させてやるとしよう。
……そう考えていたギデオンの方が、不意の浮遊感に戸惑った。
「あ……?」
不覚だ。この手の技術は20年前に、アクエリカで懲りていたはずなのに。
相手を追い込むつもりで、誘い込まれていたのはギデオンの方だったのだ。
突いた腕を
このガキ……怪力任せの突撃バカかと思ったら、引き技も使えるとは!
「ハハッ!」
……いや、違う。こいつにそこまで繊細な技巧はない。実際は、もろともに空中へ身を投げ出したのだ。
2人して頭から落下しながら、デュロンは笑っている。やはりバカの戦い方である。
バカに付き合うのはまずい、姿勢制御が優先だ。
だがその理性的な意識の割り振りが仇となった。
「いっ……!」
結局、デュロンは屋根に右腕で着地し、さすがに骨折はする。
「ぐほぁっ!!」
そして、ギデオンは彼に殴られた顔面を、さらに煉瓦に叩きつけられたようだった。
意識が断絶してしまったのでよくわからないが、おそらくは。
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