第95話 やはりある意味、最強に邪悪な能力


 メリクリーゼ・ヴィトゲンライツは恐ろしく暇だった。暇すぎて屋台に並んでいる食べ物を、神敵を射殺すかのような眼光で精査している。

 その威容に恐れをなした様子で、屋台の主が勇気を出して話しかけてきた。


「……へえ、聖騎士パラディン様? アタシの店になにか不備がありましたでしょうか?」

「いや、すまない、そうではないんだ。その、烏賊いかを串焼きにしたものを買おうかどうかで迷っている」

「へ、へえ、そうでしたか。聖騎士様が口にされるほど、上等な代物ではねえんですが」

「そう言われると、ますます食べたくなってきたな。三つほどいただこう」

「へ、そ、それは失礼いたしやした。毎度あり」

「うむ。ありがとう」


 屋台の前から立ち去ったメリクリーゼは、烏賊の一つを食みながら、アクエリカからの指示を思い出していた。

 いつものように柔らかく微笑みながら、あの女はこんなふうに申し渡してきたのだ。


『今日の予定を考えるとね、あなたの存在はむしろ邪魔なの。ミレインに来てから、まだろくに散策もしていないでしょう? 適当にその辺を練り歩いてきてくださいな☆」


 確かにそうなのかもしれないが、「邪魔」はいくらなんでも酷いと思う。

 気心の知れた間柄とはいえ、もう少し言い方があるのでは、とメリクリーゼは不貞腐れた。


 ……そしてそれとは別に、あの女は自分の体を危険に晒すことに関して、完全に感覚が麻痺してしまっているのだなと、彼女はため息を吐いた。

 しかし、それも無理からぬ部分もあるような気もしないでも……。


 などと、柄にもなく感傷に浸っていたのがまずかったらしい。

 普段は常に周囲を警戒しているメリクリーゼが、このときばかりは完全に油断していた。


 相手がまったく無防備な貧弱だったこともある。


「あれ、奇遇だねえ」

「げっ」


 姿を見るなり顔をしかめられるという反応にすら慣れているようで、ヴィクターはまるで気さくな挨拶を返されたかのように、フラットな態度でそのまま話しかけてきた。

 ただし、慎重に距離を取ったままではあるので、ある程度警戒していることはわかる。


「おやー、誰かと思えば、お風呂では右太ももから洗い始めることに定評のあるメリクリーゼ従姉ねえさんじゃないか。こんなところでなにしてるの? ああ、アクエリカに振られたみたいだね、ご愁傷様っ★」

「誰が振られ……そんな定評があってたまるか!? ……ちょっと待て。お前、まさかそういうの他者ひとに話してるんじゃ……!?」

「まさか、ないない。僕だってそのくらいの節度はあるよ、失敬だな。

 ……あれ? だけど昨夜は左肩からだったみたいだね? どういう心境の変化? 失恋でもした?」

「どの口が失敬とか言っている!? あれほど入浴や更衣は覗くなと、何度も釘を刺しただろうが!」

「僕だって別に見たくて見てるわけじゃないって、そのたびに抗弁したはずだけど?

 ああ、でも相手によるかな。世界中の全員が従姉ねえさんみたいに綺麗だったら、僕の心ももう少し浄化されてるはずなんだけどね」


 こいつの性質たちの悪いところの一つは、まさにこういう言い方をするところだ。

 容姿を褒めているように聞こえるが、実際はそれに仮託して、性根の清廉さを称えている。

 それを相手に勝手に理解させるような回りくどい言い方をしておきながら、一方で本気で言っているところが特に最悪だと、メリクリーゼは思う。


「よくもまあいけしゃあしゃあとべんちゃらを垂れおって、この悪たれ小僧が。どうもまったく成長していないと見えるな……!」


 なので口ではそう言い返しつつも、実際にはメリクリーゼは、ヴィクターほど精神的に早熟なガキもあまりいないだろうと、内心では憐れみの念を禁じ得なかった。


 見たくないこと、聞きたくないこと、知りたくないことを自らの固有魔術に散々押しつけられ、幼くして強制的に酸いも甘いも噛み分けさせられた従弟いとこを、嫌いつつも完全に拒絶できない理由がそこにあった。


 今後ヴィクターが誰かを愛することはあるかもしれないが、幻想を抱く余地を埋め立てられるため、恋することはおそらく一生ないのだろう。

 もしかしたらそれはそれで、ある意味では幸福なのかもしれないが。


 いずれビジネスパートナーではなく、プライベートで伴侶となってくれる者が現れればいいのだが……というのが今のところ、メリクリーゼのヴィクターに対する最大の希望だった。

 そしてもちろん、二番目はジュナス教会という巨大な怪物にちょっかいをかけることをやめ、大人しくしていることだ。


 言って聞くとも思えないが、彼女はとりあえず諭してみる。


「なにを企んでいるのか知らんが、このあたりでやめておけ。今ならまだ尻の百叩きで済ませてやる。私だって新天地に赴任早々、かわいい従弟いとこを独房にブチ込みたくはないんだ。もっとも、それで済めばいい方だが」

「へえ……。あれだけ散々嫌がらせを仕掛けてきたのに、僕のこと、まだそんなふうに思ってくれてたんだ。感動したよ。やっぱり僕の親族は従姉ねえさんだけさ」

「そんなふうに言うものじゃない。お前の父さんも心配していたぞ」

「……それが本当だとしても、あの人は、僕を使い切れる最大のパフォーマンスを損ないたくないだけだよ」


 その一瞬だけ、ヴィクターの瞳が年相応のかげりを帯びた。

 だがそれはすぐに消え、軽薄な野心が強く灯り、ニヤリと笑ってみせた白い歯とともに、ギラギラと光るのがメリクリーゼにはわかる。


 参った。実際の隔たりは5メートル程度だが、心情的にはそれ以上ある。

 メリクリーゼが失った炎を、ヴィクターはいまだ炯々けいけいと宿し続けていた。


「まっ、いずれにせよ聞けない相談だね。やめろと言うのなら、力尽くで止めてみなよ」

「バカな……お前が私に勝てるとでも?」

「さて、どうだろう? 僕は従姉ねえさんのことはよーく知ってる。固有魔術の性能もね。

 従姉ねえさんは純粋な近接戦闘タイプで、僕の相棒みたいな空間踏破能力を持っているわけでもないから、必然的に身体能力のみで、ここまで距離を詰めなくてはならないわけなんだけど」


 周知の情報であることは承知なのだろうが、隠しもしないとは恐れ入る。


「それと、物忘れの激しい従姉ねえさんは覚えていないかもしれないけどさ」


 ヴィクターにしてみれば、彼以外の全員が物忘れが激しいことになるのだろう。


「小さい頃から、僕が鬼ごっこで従姉ねえさんに負けたこと、あったっけ? 僕、逃げ足にだけは自信あるんだ。なんてったって超絶に弱いからね」


 そこで彼はふと目の焦点をずらし、メリクリーゼの背後へ注意を向けた。


「……あれ? あそこにいるのって、君の父さんじゃないかな?」

「私も見くびられたものだな。そんな手が通用すると思われているとは」

「いや、そうじゃないよ。というか、それだけじゃないな。

 ちょっと見てよ、従姉ねえさん。君の父さんと話してるのって、あれ、ホストハイド家の三男坊なんじゃないの?」


 言われ、メリクリーゼは思わず振り返った。

 実は彼女も、記憶の端に引っかかっており、気になっていたのだ。確かにこの広場へ入るとき、あの憎っくき赤い髪を見かけたような……。


 しかし結局、視線誘導に従った先には、白も赤もありはしなかった。

 しまった。あんなことを言っておきながら、とんでもなく古典的な子供騙しに引っかかっている!


「ッ!? お前……」


 慌てて顔を戻したが、世話の焼ける従弟いとこの姿はすでにない。

 そして数十メートル先で、群衆に紛れようとしている見知った後頭部を発見して、メリクリーゼは鼻から微苦笑が漏れた。


「ハッ。まったく……」


 そして、吐いた息を思い切り吸い込み、広場の端まで届くような、腹の底からの咆哮を発した。


「ヴィィィクタァァアアッ!! この、明かん垂れの聞かん坊が! 逃がすと思うなよ!?」


 常のペリッチュ広場ならいざ知らず、幸か不幸か、この祭りの喧騒の中では、彼女の叫びもすぐに掻き消えてしまった。

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