第91話 蛇、水場で本性を現す


「デュロン、よく来てくれたわね」


 眼前に現れた姿と、いきなり肉声に変わった甘い響きに、デュロンの眼と耳は一発でやられた。

 機能を失ったわけではない。酒に酔ったときと同じで、正常な外部情報の入力と、出力行動へのフィードバックができなくなっただけだ。


「どうしたの? 早く近くへ寄ってくれないかしら?」


 どうしたもこうしたもない。泉の中心で沐浴しているアクエリカは、薄衣一枚纏っただけで、その下の肌が透けている。間違っても異性の、いや、同性でも部下を迎えていい格好ではない。


 しかし下品さを感じることはなく、デュロンは神秘的な光景の一部として彼女を認識していた。

 それは洗練された一挙一動がそう思わせるのか、下半身を蛇のそれに変貌しているという、水蛇精メリュジーヌの伝承通りの演出のせいかはわからない。


 とにかくデュロンの足はひとりでに、彼女に向かってゆっくりと進んでいた。

 途中、一回だけ理性が働いて、なんとか踏み止まりかける。


「だめよ、デュロン、だーめ。あなたはもう、わたくしの部下なのだから、ね?」


 しかし、間髪入れずアクエリカが妖艶に微笑み、優しく囁くだけで、その歩みは再開されてしまう。

 本物の心理掌握というのは、浮かべかけた抵抗の意思が泡沫のように消されてしまうものなのだと、デュロンはこのとき身をもって思い知った。


 またなのか。レミレのときはなんとか耐えられたのに。

 だがあのときはレミレが〈しろがねのベナンダンテ〉についてよく知らなかったから、認識の齟齬を起点にし、たまたま撥ねつけることができただけだ。


 今回はそういうわけにはいかない、なにせ相手は事情を知悉しているどころか、直接の統括者なのだから。

 気づけばデュロンは靴を脱ぎ、裾を折って、静かに膝までを濡らしていた。


 水妖にたぶらかされ入水自殺させられる人間というのはこういう感じだったに違いないと、頭のどこかが冷静に、ただしまるきり他者事ひとごととして考えている。

 まるである種の菌糸に脳まで寄生されたような状態で、自覚も特効薬にはならない。


「そう、良い子よ。もっとお姉さんのそばにいらっしゃい?」


 デュロンは聖者になった覚えはないが、それでも下級聖職者ではあるからなのか、やたら試練に晒される。

 そして確かにこの誘惑は、屈すると場合によっては殺される類のものだ。生命を、意思を、尊厳を、なにをかはわからないが。


 まるで時間を飛ばしたかのように、いつの間にかデュロンのあごを、アクエリカの細い指が撫でている。

 そこには本物の労りと慈しみが宿っていることがわかる。


「傷は大丈夫? ちょっと見せてくれる?」

「ああ……」

「服をめくってもいいかしら?」

「はい……」


 この素直に背中を向ける従順な男は誰なのだろう、とむしろデュロンは乖離状態にあった。

 狼の誇りはどこへ行ったのか。それとも、そんなものは最初からなかったのかもしれない。


「ちゃんと治っているわね。良かったわ」

「うん……」

「着任早々部下を喪うなんて、冗談が過ぎるもの。そんなこと、あってはなりません」

「そうですよね。俺もそう思います」


 癒えたばかりの脇腹を冷えた手で無造作に撫でられているのに、まるで背筋が震えないのが、逆に恐ろしかった。

 背中に押しつけられる濡れた柔らかい感触すら、自然な過程であるかのように錯覚する。


「……なんで……?」


 デュロンがギリギリで搾り出した理性の残り滓を、アクエリカは丁寧に処理する。


「うーん、そうね……色々と考えてはいたのだけど、結局あなたにはこれが一番手っ取り早いかなと思ったの」


 たとえばウォルコやベルエフのような大人なら、なんとかあしらうこともできたのだろう。

 つまり、アクエリカにとってデュロンは、洗練された手練手管を発揮する必要のない、一番手っ取り早い方法で簡単にひっかかってくれる、クソチョロかわいい男の子に過ぎないということだ。


 後ろから掴みかかるように抱きすくめてきたアクエリカは、デュロンの肩に細い顎を乗せてくる。

 長い髪から水滴が垂れ、浸食するようにシャツの胸を染めた。


 彼女の青に、デュロンは囚われていく。

 頰にかけられる吐息すら例外ではない。


「ねえ、デュロン? あなた、わたくしのものになる気はないかしら?」


 デュロンの口が開き、答えを発する……その寸前だった。



「ちょっと待てぇーっ!!」



 不自然な自然空間に響き渡る明朗な声に、恍惚状態だったデュロンの意識は急速に呼び覚まされた。

 そしてようやく曇りの晴れた彼の眼は、正面に現れた救い主の姿を捉える。


「ハァ、ハァ……どうやらギリギリ間に合ったようだな……!」


 汗だくで駆けつけ息を切らすのは、清廉の象徴である純白の制服を身に纏った、ジュナス教会最高峰の祓魔官エクソシストである聖騎士パラディンの称号を持つ数少ない1人、メリクリーゼ・ヴィトゲンライツその人だった。


 冷静で飄逸な印象のあった彼女だが、今はギョッとして、挙動不審に周囲を見回している。


「いや……というか、そもそもこのドスケベ空間はなんだ!? 私がちょっと離れた隙に、なんて改築をしているんだ!?」

「失礼ね、メリーちゃん。別にこの空間がスケベなわけではないわ。施工した小鉱精ドワーフたちに謝りなさい?」

「そうとも、お前の使い方がドスケベなだけだ! アクエリカ、まずはその悪霊スタイルから脱しろ、彼から離れろ! 自分のやっていることをわかっているのか?

 28歳の女が、ほぼ全裸に近い濡れ透けの半裸状態で、16歳の少年を水場に連れ込んで後ろから抱きついているんだぞ?

 こんなもの、たとえ悪魔の世界でも普通に事案だろうが!!」


 正義の咆哮を発するメリクリーゼに対し、アクエリカは悪びれもしない。


「堅いですねー、メリーちゃんは。だから胸がほぼ筋肉だとか言われるのではなくって?」

「黙れ! というかそれを言っているのはお前だけだろうが!? 忘れているかもしれないが、ここは『聖』ドナティアロ『教会』なんだよ! どう考えてもやっていいことのボーダーラインを3段ジャンプで跳び越えてるだろうが!!」

「はぁ〜……仕方ないわね、聞き入れてあげます。デュロン、また今度続きを話しましょうね?」

「なんで私がわがまま言った感じになっているんだ……!? お前本当にいい加減にしろよ、よりによって一番どうでもいい淫乱のかどで野望が潰えたら、枕を濡らさずに眠る自信があるのか?」


 ようやく核心に響いたようで、アクエリカは性懲りもなく最後にぎゅっと抱きしめてから、なにごともなかったかのようにデュロンを解放した。

 その後になってようやく、人狼の無駄にデカい心臓が早鐘を打ち始める。


 彼の様子を憐れむでも蔑むでもなく、毅然と差し伸べてくれる騎士の大きな手が、今はなにより頼もしかった。


「ほら、デュロンくん、さっさと出よう。こんなところに長居していると、水女の水菌で全身水虫になってしまうぞ」

「あーっ、メリーちゃんそれはダメですよ、イジメです。傷つきますー」

「こんな低劣なカス以下のイジメでお前を潰せるのなら、私は今ここにおらんわ!!」


 興奮しながら引っ張ってくれるメリクリーゼの荒々しい足音と、掌から伝わる熱に、デュロンはとてつもない安心感を覚えた。

 しばらく歩いてアクエリカの奥庭から脱し、扉を閉めると、そこに石造りの回廊があることが、逆に信じられないくらいだった。


 ようやく一息ついたデュロンの手を離し、メリクリーゼも彼に倣った。


「あーあ、まったく……すまんな……恥じることはない、今まであれで何人骨抜きにされたか、もはや私は数えるのもやめたぞ。言っておくが、同性でも抵抗できんからな」

「魔性ってのはああいうのを言うんだろうな……助かったぜ、メリクリ……ーゼ様」

「好きに呼んでくれていいとも、陰でも面と向かってもね。たかが地位がなんだというのか。

 逆に訊くが、教区司教という立場を理由に、君はアレを尊敬できるか?

 無理だよな? 私は無理だね!!」


 自問自答で自己完結し、美しい銀髪を掻き毟ったメリクリーゼだったが、後輩の範とならねばと思い直したようで、気まずそうに咳払いをして話を変えた。


「ときに、デュロンくん。私の従弟いとこが、なんと言うべきか……色々と迷惑をかけているようで、申し訳ない。

 特に、銀の銃弾は本当に災難だったろう。ヤツに代わって、陳謝させていただくよ」

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