第90話 反省と再起②


 意識を取り戻したデュロンが最初に感じたのは、やけに安心する匂いだった。

 次いで眼を開けると、大きな翡翠ひすいが彼の顔を覗き込んでいる。

 華やいだ声が、優しく彼の耳を打った。


「あっ、デュロン起きた!」


 デュロンは自分になにが起きたかを思い出し、現状を理解した。

 ヴィクターに脇腹を銀の銃弾で撃たれ、倒れたのだ。


 今、寮の談話室でヒメキアに膝枕をしてもらって寝ているということは、つまり……またしても彼女に助けてもらったということに違いない。


 逆さまに目が合った状態で、デュロンは改めて彼女にお礼を言った。


「ヒメキア、ありがとうな。お前がいなかったら、俺はたぶん死んでた」

「ううん。デュロン、元気になってよかったよ。

 それに、あたしだけじゃなくて……」


 話し声を聞きつけたようで、足音がバタバタと慌ただしく近づいてきた。

 寝転んだままのデュロンに、柔らかい感触と、よく知った匂いが覆い被さってくる。


 視界が自分のと同じ色の髪で塞がれたため、デュロンは誰なのか訊く必要がなかった。

 姉の全身から発せられる安堵が、弟には手に取るように感じられた。


 勝手に太ももを枕にされたままのヒメキアからも、共鳴するように同じものが発散される。

 とるものもとりあえず、デュロンの方から言っておくべきことがあった。


「姉貴……悪い。心配かけた」

「わたしの方こそ、すまない」


 デュロンの首筋のあたりにもごもごと熱い息を吐きかけたオノリーヌは、しばらく抱擁したままでいたが、おもむろに離れ、乱れた髪を掻き上げた。

 頰と眼を赤くしたまま、なにごともなかったかのように理知的に微笑んでみせる。


「まったく、あの一撃は完全に予想外だったのだよ。おかげでヒメキア以外にも、君がお礼を言うべき相手が何人かいる。しかし今は、とにかく体を休めることだね」

「そうだな。……しかし、今、何時だ?」


 ゆっくりと上体を起こし、やや見当識を失ったままでキョロキョロするデュロンに、ヒメキアがおっとりと微笑みながら、時計のある方向を指差して教えてくれる。


「3時15分だねー」

「マジか……あれから2時間以上寝てたのかよ」

「普通はそんなものでは済まないのだけどね。さすがはわたしの弟、そして義妹」

「おい、その裁判はまだ決着ついてねーはずだろ、勝手に妹にすんな」

「うーん……でもあたし、やっぱり迷っちゃうな。だってイリャヒさんの妹になったら、それはつまりソネシエちゃんのお姉ちゃんになれるってことでもあるんだからね?」

「いや……だからね? じゃなくて……ヒメキア、お前は一回だけ大きい声で、『あたしのために争わないで!』って言った方がいいぞ」

「それはもう言ったのだね」「言ったね!」

「言われたんならやめたれよ……つっても、イリャヒの方は護衛続行中か。俺も早いとこ戻んなきゃなんねーな……」

『と、言い出すだろうと思っていましてよ。もう少し養生なさいな』


 口を挟んだのは、デュロンの腕に絡みついたままになっていた、使い魔に代弁させるアクエリカだ。

 オノリーヌが「げっ」と顔をしかめ、ヒメキアが「わー」と笑みを浮かべるという、2人の反応が好対照である。


 なにがあったのかは知らないし、どちらを参考にすればいいかもわからないので、デュロンはひとまずフラットな対応を心掛けた。


「おー、ねえさん。アンタにも謝らなきゃなんねーな、無断で穴開けちまった」

『構いませんよ。念のためリュージュ、ヨーカ、セーラに行ってもらっています。

 ……実は、もしかしたらヴィクターの狙いはヒメキアを誘き出すことなのか、とも一瞬だけ思ったのだけど、どうもそういうわけではないようね』


 急に話題に出されてビクッとなるヒメキアに、蛇は優しく語りかける。


『ヒメキア、まだ言ってなかったかしら? よくやりましたね。これからもその調子で、デュロンやみんなを助けてあげてくれると嬉しいわ』

「は、はい! あたし、治します!」


 はりきりひよこをしばらく楽しそうに観察した後、アクエリカはオノリーヌに視線を移した。


『あらあら? ちっちゃな狼の女の子ちゃん、わたくしの指示は聞きたくないかしら?』

「安い挑発は結構なのだよ、用件をおっしゃりたまえ」

『話が早くて助かるわ。あなたをそう呼んでいるお父さんにヒメキアを連れて報告に行ってくれないかしら?

 わたくしが使い魔越しに言っても、あの人いまいち信用してくれないし……ただでさえ「デスクワークだるい、体動かしたい」とウダウダうるさいのだから、デュロンの復活を知らさないと、全然手がつかない一方だもの。

 ヒメキアを連れて行くのは、つまり、2人で要領よく手伝って、一気に終わらせてあげてほしいの』

「やれやれ、困ったおじさんなのだよ。ヒメキア、付き合ってくれるかね?」

「うん! でもあたし、あんまり難しいことはできないよ?」

「大丈夫、わたしが指示するのであるからして……そういうわけなので、デュロン、君はもうしばらくここか寝室で体を休めておきたまえ」

「わかった。ヒメキア、旦那を頼んだぜ」

「わかった! デュロンもう大丈夫だよって、あたしからも言っとくね!」


 オノリーヌはまだ心配そうに振り返りつつも、ヒメキアの手を引いて寮を後にする。

 取り残されたデュロンは、しばし思考に空白が生まれた。


「…………」


 時間が時間なので、同僚たちは全員勤務中のようで、談話室にいる祓魔官エクソシストはデュロンだけだ。

 あとはヒメキアの猫たちが、あちらこちらにたむろしている。

 なにもしていないときの猫というのは、本当に静かな佇まいを見せるので驚かされる。


「にゃぁん……」


 その静寂を破り、近くにいた一匹が、デュロンを見ながら控えめに鳴いた。

 まだいまいち顔と名前が一致していないのだが、とにかくなにか話しかけてきているニュアンスなのはわかる。


 そういえばこいつらもアクエリカの使い魔なので、アクエリカを代弁することもあるのだろうか、なんかやだな、とデュロンが失礼なことを考えていると、青い小さな有翼の蛇が口を開いた。


『残念ながらわたくしと猫はそこまで相性抜群というわけでもなく、まだ練度も低いので、借りられるのは眼や耳までだから、安心してよくってよ?』

「ナチュラルに、しかも遠隔で心読むのやめてもらっていいか?」

『ふふ。それはつまり、わたくしは彼らの意思も行動も操ることはできないということよ』


 アクエリカがなにを言いたいのかはわかった。

 猫たちが徐々にデュロンの周りに集まってきて、話しかけるように優しく鳴いたり、足元を意味なくウロウロしたり、体を擦り付けたりと、親愛のシグナルを示してきたのだ。


 ヒメキアの残り香に反応しているだけかもしれないが……少なくともデュロンのことを、同胞として認めてくれていることは確かなようだった。


 デュロンもヒメキアほどではないが、猫好きではあるので、懐かれて悪い気はしない。

 ソファの隣に座ってきた一匹を優しく撫でていると、アクエリカがそれに合わせるように猫撫で声を発してきた。


『さて、では心も癒されたところで、一度直接報告しに来てほしいところですね』

「あーあー、そんなんだろうと思ったぜ。にゃんこさんたちの純粋さに報いてくれよ、少しは。上手いこと口実つけて追っ払ってくれたな」

『だってヒメキアはともかく、オノリーヌは絶対についてくると言いそうだもの……』

「なにがヤベーって、姉貴が一対一で会わせることすら避けてーと思うくらい、アンタの日頃の行いがまったく信用されてねーってとこなんだよ。つーか俺も普通に怖いから嫌なんだよ!」

『つべこべ言わずにさっさと来なさい、これは司教命令ですよ』


 急に初等学生のように拗ねる勢いに押し切られ、結局デュロンは腰を上げた。


「はいはい、行きますとも。わんわん」

『よろしい。濡れてもいい格好で来てくださいね。今のその感じでいいわよ』


 デュロンはちょうど制服の上着を脱がされていたので、シャツとズボンという格好だった。

 言われるままに寮を出てのんびり歩き、聖ドナティアロ教会に到着して、回廊を奥まで進んだところで、ようやく彼ははたと気づいた。


「……ん? なんで濡れてもいい格好で行く必要があるんだ?」


 アクエリカ無言。シンプルに怖い。なにをしようというのだろう。

 とにかく彼女のオフィスに入ろうとしたが、扉をノックする前に止められた。


『ああ、そっちじゃないわ。右手に別の扉があるでしょう、そこを開けて』

「なるほど。……ところで護衛任務を請けに来たとき、こんな扉なかった気がするんだが」

『いいから入ってきなさい』

「はい」


 なぜかこの人には逆らえない。デュロンはやけに煌びやかなステンドグラスで装飾された、謎の扉を押し開く。


「お……!?」


 一歩中へ踏み込んだ瞬間、無機質な回廊とはまったく異なる空間が広がっていた。


 室内であるにもかかわらず、土の地面に下草や低木といった緑が満ち溢れ、そこかしこで泉が湧き、豊穣の象徴である水に事欠かない。

 中庭でも裏庭でもない……強いて言うなら奥庭に該当するそこは、いかにも精霊たちの集う幽玄な湿地という趣だった。


「なんだこれ? 別の界に入っちまったのか?」

『いいえ、普通に改築と造園を行っただけよ』

「あれから何日も経ってなかったはずだぜ?」

小鉱精ドワーフたちが、一晩でやってくれました🖤』

「説得力ヤバすぎて反論できねーんだよなー」


 言われてみれば岩場に偽装した壁があり、異常に高くリアルな空が描かれているが、天井も確かに存在した。

 こんなことをしている余裕があるなら、例の聖堂建設費だかを先にどうにかすればいいのに、と考えていると、またしてもアクエリカがデュロンの心を読んでくる。


『これは完全にわたくしの趣味の産物なので、私財を投じたの。公共事業としての実績を示すというのとは、まったく別の話ですものね』

「いやいや……つーか、私物化ってレベルじゃねーだろこれ……」

『今さらなにを言っているのかしら? ミレインの実質支配者とまで呼ばれているのを、あなたも聞いたことくらいあるでしょう? 司教座一つ自由にできないのでは、せっかくの権益を握った醍醐味も半減というものよ』

「もうなんにも隠す気なさすぎるだろ……なに? 俺ここで殺されんの?」


 またしてもアクエリカは無言だった。本当に怖いのでやめてほしい。

 実際のところ、アクエリカに今デュロンを消す理由はないはずなので、そういう意味ではすこぶる安心して進むことができる。


 しかしそれも、アクエリカ本人に直接対面するまでの話だった。

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