第29話 霧中の退却②


 両者の交錯は、第三者の乱入によって大きな変化を見せた。

 ベルエフの背後に現れたウォルコが、自前の鉤爪を袈裟懸けに振るったのだ。


「ぐあっ……!」


 裂傷に反応する間もなく、正面からギャディーヤの打撃を食らって、そこで初めてベルエフは呻き声を上げた。

 ギャディーヤが大仰な動作を取ったのは、ウォルコとの挟撃を悟らせないための、半ばハッタリだったのだ。


 駄目押しで爆裂の〈爪〉を元上官に数発叩き込み、ウォルコは下りてきた屋根へ戻った。

 奴が来たということは、足止めに対する足止めは失敗に終わったのだ。


「……だから言ったのよ、オオカミさん。、とね」


 そしてウォルコとは反対側の屋根に着地し、デュロンを見下ろすもう一つの姿がある。


 蝶形仮面パピヨンマスクに真紅のドレスで身を飾るが、デュロンにとっては素顔も素肌も、左眼の下に限らずほぼすべての黒子の位置を知り尽くしている……しかし、その本懐までは探り切れなかった相手だ。


 レミレ・バヒューテがデュロンを籠絡せんと囁いた甘言は、後の祭りの悪足掻きなどではなく、計画の準備段階、交渉の利きうる状況における最後通牒だったのだ。


 側頭部で2つに束ねた薔薇色の髪を揺らし、女は悩ましげに、指を唇に当てて微笑んだ。

「残念だわ。優しく言っている間に言うことを聞いてくれたら、もっと優しくしてあげたのに……」

「はいはい、今は口より手を動かしなさいな。擬態は終わりだ、実力を見せてくれよ」

「もう、あなたわたしのお母さんかしら?」


 ウォルコの催促を受け、レミレは蝶のはねから鱗粉を撒き散らす。

 睡眠誘発効果と同時に、体重の軽い動物に対する洗脳操作効果が発揮され、森のお友達と呼ぶには凶暴すぎる巨大な蜂、蜻蛉トンボ飛蝗バッタなどが群体で暴れた。

 この加勢により、広場が制圧されたのだ。


 ギャディーヤが足を止めず顔だけ上げ、彼女に声をかけた。

「おォ……ハニー、世話かけたなァー! お陰でこの通り、自由の身になれそうだぜェ!」

「ダーリン、油断は禁物よ! それに、そういうのは言いっこなしだから!」


 レミレの邪気のない笑顔を見て、さすがのデュロンも事情を察した。

 彼女がこの街へ来た目的は徹頭徹尾、ギャディーヤの解放のみだったのだ。


 彼女の威力偵察は、あまりに安全すぎた。

 サイラスとの共謀もそうだが、レミレはソネシエが読んだ通り、失敗前提で掻き回してきていただけだったのだ。

 なぜならヒメキア略取が、街規模の大混乱で〈猫の眼〉の意味がなくなる今この状況を置いて他に一度でも起きてしまうと、それは必ず頓挫し、デュロンらに警戒されて二度とチャンスがなくなるからだ。


 ウォルコに接触し、彼の計画に抱き込まれたタイミングは不明だが、純粋な利害の一致によるものなのだろう。

 やはりとんでもなく厄介な女だった。なんとかしてどこかで捕獲しておくべきだったのだ。


「おォーし、いい感じだァ。このまま〈教会都市〉脱出と洒落込もうぜェー!」


「……あっ!」


 最年長と思しきギャディーヤの号令で、彼とレミレとウォルコは完全に意思疎通した。

 だが、彼の腕の中にいるヒメキアの叫びで、3人揃って視線を地に落とす。


 どれかの攻撃をギャディーヤが捌いた拍子に、縫い付けが解けてしまったのだろう。

 ヒメキアが腰にぶら下げていた猫のぬいぐるみが転がり落ちていた。ヒメキアの小さい手が伸びる。


「ヒメキア、また買ってあげるし、本物も見れるから、それは我慢しなさい」

 ウォルコの説得により、かなり躊躇ためらったが、結局彼女は手を引っ込めた。


 ……今の反応でわかった。ギャディーヤもレミレもウォルコも、ぬいぐるみを……ヒメキアの心をしっかりと直視した上で、あえて黙殺した。

 彼女自身の意思に優先する、それが連中の目的ということになる。


「逃がしませんよ!」


 イリャヒ、ソネシエ、リュージュが追いつき、レミレの蟲に手一杯なデュロンとオノリーヌに代わって、ウォルコを追撃する。

 さらにもう1人、ウォルコの近くへ黒服が現れた。


 けれども黒服の裾は翻り、放った攻撃魔術の矛先は、イリャヒに向く。


「これはしたり!」

 騒ぐ兄に代わり、すでに前に出ていたソネシエが、氷壁で防御した。

 黒曜の瞳が、デュロンに向かって頷いた。彼女の言いたいことはわかる。


 デュロンや彼女は表面だけを見て憧れを抱いていたが、ウォルコの本懐を理解して、その叛意を知りつつ付き従う者も少なからずいたようで、十数人が確認できる。

 サイラス戦の増援が異常に遅く、ソネシエたちすら戻って来なかったのも、おそらくウォルコが彼らを使って暗渠を封じ、情報漏れを防いだ上で自ら駆けつけたせいだろう。


「あらあら。ダーリン、ちょっとだけ急いだ方が良さそうよ」


 いよいよ一味が東の市壁に近づくにあたり、守りを固めて座視を決め込んではいられなくなったのだろう。

 教区司教の直属に近い精鋭部隊が、中心街から飛来するのがデュロンにも見えた。

 ひょっとするとあの中に、ギャディーヤの装甲を破れる者も混じっているかもしれない。


「了解だぜ、マイハニィー!」


 しかしウォルコ一味が完璧な連携で詰めに入ると、退却の進軍速度はさらに増し、怒涛の気勢は止められない。

 中央を走るギャディーヤはすべてを蹴散らし、右翼をレミレ、左翼をウォルコが支えて、漏らした敵は周りを固めるシンパたちが叩いていく。


 獅子の声が、真なる同胞たちを歌うように鼓舞する。

「さあ、早く帰ろう。俺たちの新たな戦略拠点スイートホームへ」


「待て、ウォルコ! ヒメキアを置いていけ!」

 デュロンの叫びも虚しく、ついに一味は市壁へ到達した。


 これも相当に頑丈なはずの木製扉を軽々ブチ破り、ギャディーヤが意気揚々と飛び出していく。彼にレミレが続き、腕を絡める余裕っぷりだ。


 ウォルコは去り際に念入りな追い打ちの〈爪〉を寄越して、デュロンは伸ばした手まで刻まれた。


「……ごめんよ、デュロン。こうするしかないんだ」


 自分の血が飛び散る視界の中で、デュロンはウォルコが優しげに微笑むのを見て、そう言うのを聞いた。

 行動との乖離に戸惑い、錯覚を疑って走る少年。

 いつもと変わらず、軽く手を振って去る背を追うが、東の門を越えようとしたところで、大きな掌に肩を掴まれた。

 振り向くと、デュロンと同じくらい血だらけのベルエフが、静かにかぶりを振っていた。


「やめとけ、デュロン。無理だ。このガタついた状態でこれ以上突っ込んでも、返り討ちに遭うだけだぜ」


 東の荒野の先には、魔物の出る森がある。

 そこは霧が立ち込め、駆け込んだ離反者らの姿を容易に覆い隠した。

 苦戦にいた体を折り、デュロンは落胆と憔悴のおりに沈んだ。

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