一、搩の神
領怪神犯特別調査課に与えられた場所はなかった。
唯一存在が許されていたのは、膨大な資料を保管する特別機密用の書庫のみ。調査員たちの会議や報告はその時々の空室をあてがわれ、行われた。
「今ならそれすら贅沢だって思いますよ」
打ちっぱなしの壁は常に湿気で濡れているのにやたらと乾燥した、役所の駐車場奥の喫煙所。
それが、今神々に対峙する者たちに与えられた唯一の場所だった。
「ごめん……この世界でも何とか公務員として入り込んだけど、まだ神々に対峙する部署の存在を掴めてないんだ。あるのかもわからない」
「俺はこのくらいの方が気楽でいいけどなあ。ちゃんとここで働いてる礼ちゃんや穐津と違って、俺は公務員試験受けられねえからさ。役所に部外者が入り込むのはまずいだろ」
「本当は烏有さんをここに招いてるのもバレたらまずいですけどね」
昭和百四年が廷天元年に入れ替わり、世界は姿を変えた。
調査員たちの人生も今までとは全く異なっていた。特別調査課の痕跡も跡形もない。もしくは、以前と同様に部外者からは完全に秘匿されているか。
烏有は灰が伸びた煙草を灰皿の縁で叩く。
「でも、俺まで入っちまってよかったのかよ。昔みたいな権力はないぜ」
「烏有さんがいてくれて心強いですよ。アパートに資料も保管させてもらってますし」
宮木の言葉に穐津も頷く。
「烏有さんの神々を見る力は頼りになるよ。前までの世界とは神々の在り方も違う。対処法も根本から違うから」
「俺は見えるだけで何もできないぜ」
「脅威を探知できるだけで充分。危険な神々だってまだ姿を見せていないだけで蔓延ってるかもしれない。例えば……」
会話の途中で烏有が口元を抑えてえずいた。
「烏有さん? 大丈夫ですか!」
煙草を取り落とした烏有の顔は蝋のように白く、冷や汗が滲んでいた。
「悪い……何かすげえ、気分が……」
烏有は吸殻を踏み潰して奥の仮設トイレに駆け込んだ。薄い扉からくぐもった嗚咽が響き出す。
「急にどうしたんでしょうか」
「食当たりかな。大丈夫だといいけど」
烏有と入れ替わりに駐車場に足音が反響した。
雨垂れで汚れた床を革靴が踏みしだき、灰皿の前で止まった。現れた人物はライターで煙草に火をつけ、煙を吐く。
烏有は仮設トイレからまだ出てこない。宮木と穐津は姿勢を正して目を背けた。煙と共に男の唇から嘲笑が漏れた。
「見られたらまずい奴でもいるのか? ここは役所の敷地内だぜ」
掠れた声には聞き覚えがあった。
顔を上げると、痩せぎすの男が煙草片手に立っていた。緑の非常灯の下でも、蔦のように垂れる髪が灰色がかっていることがわかる。顎までマスクをずり下ろし、煙草を挟む歯は獰猛な獣じみていた。
宮木の肌が泡立つ。
男は煙草を下ろし、口を開いて見せた。洞窟のような暗い口腔には、牡丹の花を思わせる歯が何重にも生えていた。
「豊穣の神……!」
宮木が動くより早く、穐津が男の胸ぐらを掴んだ。
「お前、何でここにいる!」
「不法侵入罪の次は暴行罪かよ。前科のデパートだな」
豊穣の神は指ひとつで穐津を払い除けた。彼女の色素の薄い瞳が鋭く収縮する。穐津は宮木を庇うように立ち塞がった。
「消えてなかったのか……」
「そりゃそうだ。お前だって国生みの神をどうにかすりゃあ解決だなんて思っちゃいなかっただろ? あの女が全ての神を産んだなら奴は誰が生んだって話だ」
穐津は唇を噛む。
宮木は努めて平坦な声を繕って答えた。
「領怪神犯には国生みの神から生まれたものとそうでないものがいることは想定していました。貴方が後者だということも」
「おっと、あの村にいた女だな。ここまで逃げ延びたか」
「挑発されても乗りませんよ。私たちを逃した理由はわかっていますから」
豊穣の神は片方の眉を吊り上げる。
「貴方は山岳信仰と人身御供を掛け合わせて生まれた神ではありませんか。太古から存在している分強力ですが、人間の信仰に左右されることは変わりません」
「……その心は?」
「そこに在わす神が書き換えた新しい世界で貴方が存在しているのは、私たちが脅威を覚えているからでしょう。だから、食い殺さず逃したんですね。こうなることまで見越して」
「知恵をつけたな。前とだいぶ雰囲気が違。顔はよく覚えてねえが何となくわかるよ」
「悪質な神々と対峙していた頃のことを思い出しましたから」
豊穣の神は唇に煙草を押し当てて苦笑した。
「国生みのお嬢さんは天下を取った気でいたが、小娘のやることが全部上手くいく訳がねえ。保険をかけたのさ」
「あの神が小娘ですか……」
宮木は頰を引き攣らせる。
穐津は依然、豊穣の神を睨みながら言った。
「最初の質問に答えろ。お前は役人のふりをして何をしている」
「あきつ神、俺のやることは誰よりわかってるだろ。いつどこにいようが変わりゃしねえよ。俺は人間に知恵を与えてやってるんだ。治水に開拓、人口問題の解決が一番得意だけどな」
「糞野郎……」
「役人としちゃお前さんより真面目だぜ。夜な夜な戸籍課に忍び込んで何してんだよ」
穐津はぐっと喉を鳴らす。宮木は小声で囁いた。
「穐津さん、本当に何をしてるんですか」
「……烏有さんの戸籍を偽造してた。ないと不便だから」
「犯罪ですよ!」
豊穣の神の笑い声が反響した。四方を密閉された空間に濃密な紫煙が満ちる。
穐津は奥歯を噛みながら吐き捨てた。
「それで、何のつもりで私たちに接触した」
「今の俺はお前のお仲間だ。神々を探して目を光らせてる」
「何だって?」
「この世界は神の在り方が違うって言ったばかりだろ。前より神と人間の距離が近くなってやがる。大それたことを願ったもんだな」
宮木は無言で目を背けた。
「ここは餌を探すのに不便でね。ひとを食うのはしばらくやめだ。代わりに、人間に近い神を食うことにした。存外腹持ちがいいぜ」
「人間に近い神……?」
豊穣の神は穐津に歩み寄り、肩を組んだ。
「……セクハラで懲戒免職になりたい?」
「まあ聞けよ。ある地方で領怪神犯の情報を掴んだ」
穐津は仰け反りながら彼を睨み上げる。
「解決しろと?」
「放っておいたら人間に被害が出る。俺はそいつを食えばしばらく飢えを凌げる。利害が一致してるだろ」
穐津は猫のように身を捩って抜け出す。豊穣の神はワイシャツのボタンを外し、落ち窪んだ鎖骨の間からネームプレートを取り出した。
「地域振興課、
穐津は荒い息を吐いた。
「お前と協力するなんて……」
「穐津さん、やりましょう」
宮木は硬い表情で頷いた。
「彼の言う通り利害が一致しています」
「宮木さんまで……」
「私たちは神々の記録だけに努めるつもりで神々の掌で転がされていました。今更関わることを恐れても仕方ありません。新たな対処の仕方を考えなければいけませんしね」
「賢いな。俺の村にいたら真っ先に殺してた」
豊穣の神は指を鳴らす。
「決まったなら行こうぜ。善は急げだろ」
穐津は「悪の化身がそれを言うか」と吐き捨てる。
「善でも悪でもなく……がお決まりの口上じゃなかったか? まあ、安心しろよ。何百年もひとに恵みをもたらした善神がお前らについてるんだからな」
声にならない穐津の呻きに、烏有の嗚咽が重なった。
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