第四章 彼氏失格
第13話 急転
「それであなた、その
業務提携を祝っての宴席が幕を下ろし、帰宅の途に着いていたとき常務秘書室長の真弓が問いかけてきた。
「とんでもない。彼女には手が出せませんよ。出したら消えてしまいそうですからね」
「消えてしまいそうなんて、まるで夏に降る雪のようなものかしら? でもあなたが女性に手が出せないなんて、不思議なこともあるものね」
こちらの
「そんなに不思議かな」
「当たり前でしょう。これまで毎日別の女と寝ていた男が、ぱったりと寝なくなったんだから」
そんなに不思議なことなのだろうか。
これまでだって女と寝ない日のほうが多かったくらいだ。だがここ一年ほどは毎晩女を変えていたのは事実だ。
「でも、彼女と付き合う条件にした女性ふたりというのが気になるわね」
あえてニヤリと笑ってみせた。
「私は当然入っていると思うけど、あとのひとりは誰かしら」
「さあ誰だろうねえ」
真弓は少し考えて、急に笑い出した。
「わかったわ。坂江取締役でしょう」
「なぜだ?」
「だって、あなた彼女を抱いてからうちの社員と寝ていないでしょう」
なぜ彼女にそれがわかるのかは置いておいて。
「どうも坂江さんって男を惹きつける魅力であふれているのに、いざものにすると手が出せないようなオーラを感じるんだよな」
「精気を吸い取られて赤玉でも出たんじゃなくて?」
「どこのゲームのモンスターですか。そうじゃなくて、後ろめたさを感じてしまうんですよ」
真弓は適切な言葉を探しているようだった。
「もしかして、坂江さん初めてだったとか。最初の男になってしまったから、あなた責任を感じているんじゃないのかしら」
「いや、そんなことはないかなと。血は出ていなかったし、彼女も『処女じゃない』って言っていたからな」
「あのねえ。血が出たから処女、出なかったから非処女なんて単なる都市伝説なんだから。スポーツ好きなら自然に膜を傷つけて初めてのときに血なんか出ないのよ」
「経験談っぽいね」
「そ、経験談。大学までテニスやってて、先輩に処女を捧げようってときに血が出なかったのよ。それで先輩から『なんだ、ヤリマンかよ』って。もう思い出すだけで頭きちゃうわ」
それで今のようなすれっからしになったのだろうか。
でも言われてみれば、血の有無だけで処女を見分けるのも変な話だよな。
俺も理乃を抱いたとき、今までの経験なんて全部吹き飛んで、初めて女を体験した頃に戻った感じがしたんだから。ああいう体験は彼女のときだけだった。
だから筆を捧げた風俗嬢を思い出してしまったのだろうか。
「仮に初めてでないとしても、あなたに抱かれたらたいていの女性はものすごい体験をするわね。あの感覚は忘れようったってそう簡単に忘れられないんだから」
真弓が右腕にすり寄ってくる。
「単に女慣れしているってだけだよな、それって。相手を心から愛しているのか、なんてまるで考えていない。自分さえよければそれでいい、とまでは思っていない。せっかく寝るのならできるかぎり楽しんでもらわないと、俺と寝る理由にならないしな」
「それで毎朝あなたが下着を洗ってアイロンがけしていると」
「気持ち悪いだろう。寝る前にはいていた下着を身に着けるなんて。まさか下着なしで帰ってもらうわけにもいかないんだから」
「そういうことにしておくわ。うふふ」
そういうところがまめなのよね、と含み笑いが止まらなかった。
こちらとしては大真面目なんだけどなあ。
「まあ彼女に示した三択の中に私を残してくれたわけだから、お礼も込めて、今夜どう?」
「またの機会にしておきますよ。
肩をすくめながら彼女に背を向けた。
「なんならその
「この人のことも気になっているから、彼女となら寝てもいいよね、とでも聞けと言うんですか? どんな修羅場が繰り広げられるのか。考えるだけでゾッとしてきますよ」
だが彼女の言うことにも一理あるか。
それが誰なのか。三人が顔を合わせていれば、皆納得するかもしれない。
その場合は全員集めて行なうべきだろう。
ひとりずつ顔を合わせるよりも
今の様子なら真弓であればいつでもよさそうだ。問題は理乃か。
「急に立ち止まって、なにか悪巧みしていない?」
「最善の策を考えていたまでですよ」
「で、思いついたのかしら」
右手の指を三本立てて彼女に見せた。
「女性三人が顔を合わせるんですよ。そうすれば三人とも互いを牽制しますよね」
「
秘書室長がずいっと顔を寄せてきた。
「で、私は
「そこはまだわかりませんよ」
「あのねえ。天下三分の計ならまず
酒に酔った頭で考えてみる。
「出会った順番は真弓、
「となるとどちらにしても、私は
そこから少し考えているようだ。
「ちょっと待って。
にわかに気色ばんだ。美女は怒った顔もさまになるよなあ。
「だから、まだ誰が誰と決まっているわけじゃないんだよ」
「そう願いたいところね」
彼女のかるい
マンションに戻ってくると、管理人が部屋の前で待っていた。
「あ、高石さん。ちょっとお話があるのですが、お時間よろしいでしょうか」
あ、はい。と答えて鍵を開けて管理人を部屋に招き入れた。
管理人をダイニングテーブルに座らせると、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出してグラスに注ぎ、差し出した。
「ありがとうございます。実は隣の
「ああ、彼女ですか。なにかあったのですか? 鍵を忘れたとか?」
意外にそそっかしいところがあるからなあ。
「いえ、急な話なのですが、退去したいと申されて……」
「退去、ですか? それは急な話ですね」
「同じ階の住人から聞いた話ですが、なんでも
「事実です。ですが、それについては先方に納得していただいておりますが」
「さようですか。しかしこういったことが原因で退去されたいとの申し出なら……」
「それで、その
「それが……。電話にも出ませんし、呼び鈴を鳴らしても出てこないんです」
管理人と彼女の部屋の前に行って呼び鈴を押してみた。
なんの反応もない。もう一度押してみた。やはり反応がない。
在宅していれば、ドアスコープで鳴らしたのは俺だとわかるはずなのに出てこない。
「出てきませんね。もしかすると急病か自殺の可能性もありますね。彼女、アルコールに弱いと言っていましたから飲みすぎたのかも。管理人さん、合鍵は持ってきていますか?」
「いえ、そこまでは。合鍵で中に入るのは渡された知人でなければ法に触れますし」
「いちおう付き合い始めたばかりですが、私は彼女の彼氏ということになっています」
「なにか証明できるものはございますか?」
そう言われるとなにもないな。
彼女から渡された遊園地のチケットの半券では無理だろう。他になにかないか考えてみたが、思い当たるものがなかった。
「まだ付き合い始めて日がないものですから。あ、たしか入居者の部屋へは、警察立会いなら入れるのではなかったでしたっけ」
「急病ならたいへんですので、交番へ行って事情を話してみます」
「わかりました。戻ってこられるまで、私は呼び鈴を鳴らし続けますので」
「お願いします」
管理人がエレベーターで下りていった。
それを見届けたのち、呼び鈴を押して
エレベーターで管理人さんが警察官を連れてやってきた。
「あ、管理人さん。あれから何度呼んでも反応ありません」
「あなたは?」
警察官が
「隣の部屋の者です。いちおう彼女とお付き合いしております」
「そうですか。ではちょっと失礼しますね」
警察官が呼び鈴を押して彼女の名前を呼んでみた。応答なし。
管理人から電話を借りてコールするものの、こちらも反応がない。
「急病か自殺の可能性があるのですよね。あなたお名前は?」
「高石です」
「高石さんはここで待っていてください。私たちが中を確認してまいりますので」
「お願いします」
警察官が管理人に鍵を開けさせて、ふたりで中へと入っていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます