第32話 してやられる

 俺と諸戸はボックス席のひとつに着いた。

 小洒落た店内は七割ぐらいの席が埋まっている。平日にしては盛況だろう。

 メニューを手に取りながら諸戸が聞いてきた。

「おっさん、なんか食えないものはあるのか?」

「とくにないね。気にしないでくれ」

「食えるほうなんだろ?」

「歳のわりには大食いだよ」

「そりゃいい。今日は俺のおすすめフルコースといくか。酒は?」

「酒は飲めないんだ、すまないな」

「いま、仕事はなにしてるんだ?」

「ゴミ収集車に乗ってる」

 俺は息をするように嘘をつく。この歳になればたいていの人間は身につけているスキルだ。

「役所に知り合いがいたのを思い出してな、泣きついてなんとかねじこんでもらった」

 諸戸はメニューをトントンと指で叩きながら言った。

「ほう、そりゃ立派だな。でももっと稼ぎたいならうちでアルバイトしてくれてもいいんだぜ。本業が休みの日なんかはさ」

「なんでも屋ってのはそんなに景気がいいのかい?」

「まあ、それなりにな。人手はいくらあってもいい。引っ越しの補助とかエアコン工事の補助とか、素人でもやってもらえると助かる仕事がいくらでもあるんだ」

「へー。いろいろおもしろそうだな。この歳になっても新しい経験てものは必要だしな」

「休みの日を教えといてくれれば、こっちで調整して仕事を頼める。考えといてくれよ」

「わかった、そうしよう」

「休みの日が決まってるなら会社のほうに連絡してくれ、名前を言えば話が通るようにしておくから」

 どうも時間稼ぎをされているような気がする。こっちも素直に飯が食えるとは思っていなかったが、注文もまだなのに話しすぎじゃないか。それとも気のせいか。こういうやつなのかもしれない。

 諸戸が言う。

「さて注文するか。その前に聞いておくけどさ、酒はホントに飲めないのか?」

「ああ……」

 そのとき、俺の頭が後ろから掴まれた。なにごとかと思って振り返る。

 俺の頭をつかんでいたのは白マスクをした痩せた男だった。

 男は冷たい目つきで俺を見下ろし……。

 俺は急激な眠気に襲われた。抵抗するすべもなく、意識が遠くなっていく。眠い。強力な眠気だ。ここで俺は悟った。

 俺の頭をつかんでいるこの男は『麻酔』の男だと。諸戸の部下、犯行グループのひとりで、警備員を即座に無力化した男にちがいない。してやられた。

 気力を振り絞ろうとしても無駄だった。そして俺は意識を失った。

 闇のなかで女の声がした。

「大丈夫か! 目を覚ませ!」

 それはセツの声だった。

「おっさん! アンガージョーだろ! しっかりしろ!」

「んあ?」

 俺は目覚めた。

 気がついたときには激しく身体を揺さぶられていた。セツが屈みこんで俺を揺すっている。セツは手を止めて、真剣な表情で聞いてきた。

「だいじょうぶか! 気分はどうだ! 喋れるか!」

 俺は答える。

「気分はいい。だいじょうだ」

 意識はすっきりしていて、爽快なくらいだった。よく寝たあとの気分だ。呂律が回らないこともない。舌はなめらかだ。

 不意に生ゴミの臭いが鼻をつく。

 俺はセツと博士に挟まれて、住宅街のゴミ捨て場に倒れていた。

 セツが呆れたように言う。

「完全に寝起きの顔だな。のんきなもんだ」

 博士も屈みこんできて、ペンライトの光を俺の目に当てる。

「わたしの指を目で追ってくれたまえ」

 博士の人差し指が顔の前でゆっくり動く。俺は言われたとおりにした。

「よし、大丈夫だ。これなら救急に担ぎこまなくてもいいだろう」

 博士は満足げにひと息ついて、ペンライトをしまった。

 セツが肩を貸して立たせてくれた。俺は聞いた。

「なにがあった?」

 セツが逆に質問してきた。

「どこから記憶がないんだ?」

 おれは記憶を探った。

「……店で諸戸と座っていて、男に頭をつかまれた。そこで気絶した。そこまでしか覚えてない」 

 博士が口を開いた。

「君は気絶させられてやつらの車で連れ回されていたんだよ。最終的にここへ捨てられた。そのあいだの出来事は把握している」

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