甘い夢との決別

 ああ、すっきりした。

 パイを顔面に叩きつけられ、ひっくり返ったままぴくぴくと手足を震わせている魔王を見下ろし、おれは深く息を吐いた。

 良い様だ。人の大切な思い出を土足で踏み躙ろうとした罰である。これくらいの醜態は晒してもらわないと割に合わない。

 ショックからようやく立ち直ってきたのだろうか。魔王のふりをしていたそれは、パイを顔から引き剥がし、口の中に詰まった生地やクリームを吐き出しながら上体を起こした。


「ごほっ……げほ。ゆ、勇者……あなた、一体何を……?」

「だから、ちがぁう!」

「ほげぁ!?」


 さらにもう一発!

 追撃である。

 テーブルの上にはまだイチゴのホールケーキがあったので、おれはそれをさっきと同じ要領で魔王のふりをしているそれの顔面に叩きつけた。まるで巻き戻しのように、起き上がりかけていた上体が倒れ伏す。


「なんだお前……今、なんて言った? まさかおれに対してって。質問をしたのか? 理由を聞こうとしたのか?」


 それは違うだろう。ああ、それは違う。

 だってそんなのは……全然、少しも、これっぽっちも、魔王らしくない。

 おれが知っているあの女は、常にいたずらっぽく笑いながら……それでも、ただ人を小馬鹿にしているわけではなく、同じ目線で、自分の前に立つ人間をよく見ていた。傲岸不遜に、唯我独尊。あれは、そういう女だった。


「理由なんて聞くなよ。やられたらすぐに笑いながらやり返してこいよ。パイを投げられたら、おれにケーキを投げ返してこいよ! お前はそういうヤツだろ?」

「げほっ……ごほ。ひっ……!」


 自分でも驚くほど饒舌になっていた。なぜか、あいつならそうするだろうという言葉が、すらすらと出てくる。言いながら、詰め寄っていく。

 魔王のふりをしているそれは、なぜかおれを怯えた上目遣いで見ると、体を翻して四つん這いで床を這い始めた。

 は? 何してるんだコイツ。


「なんで逃げようとするんだ?」

「や、やめ……ごめんなさ……」

「逃げないぞ。おれが知ってる魔王なら、おれから逃げようとするわけがない」


 世界を救うために、おれが倒した最大の敵の顔と体を利用して。ガワだけを被って、そのふりをして。

 そんな風に、情けないこと極まりない姿を見せられて、おれは頭の芯が急速に冷え込んでいくのを感じた。


「もういい。わかった」


 怯え竦んだようにこちらを見るその瞳すら不快で、もう我慢ならない。


「出ていけ。おれの思い出を、これ以上汚すな」



 ◆



 どうしてだろう、と。ムム・ルセッタは思った。


「ふっ……強くなったな、ムム。体の成長と共に、技の冴えも格段に増している」


 師父は、満足気にそう呟いた。

 彼の言葉通り、今のムムの姿は、子どものそれではない。短いはずの青い髪は背中の中ほどまで伸び、胸の膨らみは薄いが、手足はすらりと長く。あどけなさは欠片もなく、鋭さを伴う美貌がそこにあった。

 手を握り、開く。ゆったりと噛みしめるように、成長した体の感触を確かめる。不思議と、体に違和感はない。だが、やはりムムは思う。

 どうしてだろう、と。疑問を覚える。


「もう満足だ。わしに悔いはない」


 視線の先では、師が満足そうに笑みを浮かべて、背中を地面につけていた。

 結論から言えば、ムムは師父に勝った。

 成長した姿で、己の師と拳を交えて勝負する。それは紛れもなく、ムム・ルセッタが待ち望んできた夢……のはずだった。

 だが、どうしてだろう。

 何かが違う。


「お前の成長を見届けることができて、わしは嬉しい。お前はもう、わしより強くなった……お前は、わしを超えたのだ」


 それを言われて、ムムはようやく気がついた。

 ああ、そうだ。わかった。とても簡単な話だ。シンプルな答えだ。

 なぜかこんなにも心が満たされない、その理由。

 自分は……今の立ち会いに、満足していないのだ。


「師父」

「なんだ?」

「もっかい、やろ」

「……え?」


 ならば、繰り返すしかあるまい。

 自分が、満足できるまで。

 ムムは倒れたままの自分の師匠を片手一本で持ち上げ、無理やり叩き起こした。


「いや待て、ムム。決着はついただろう?」

「師父、どうしてそんなこと言うの? らしくない。昔は、朝から夜まで、わたしが好きなときに好きなだけ稽古に付き合ってくれたのに」

「そ、それは……」


 師父がムムに稽古をさせなかったのは、筆を握る勉強を疎かにして、怒っていた時だけだ。それ以外はいつも楽しそうに、ムムの拳を受け止めてくれた。


「よ、よし。じゃあ、もう一度手合わせするか!」

「うん」


 ムムは、もう一度師父をボコボコにした。


「はぁ……ぐっ、ごほっ……やはり、さっきの敗北は偶然ではなかったようだな」

「うん。わたし、強くなった?」

「ああ、強くなったとも。これで本当に、もう悔いは……」

「じゃあ、もっかいやろ」

「え?」


 ムムは、さらにもう一度師父をボコボコにした。


「おっ。お。おえっ」

「どう? 師父」

「ああ、さすがだ。もうお前に教えることは何も」

「もう一回」

「ま、まて……!」


 ムムは、さらに続けて繰り返し、もう一度師父をボコボコにした。


「ひぃ、ひっ……!」

「師父? どうしたの?」


 無表情のまま。ボコボコに腫れ上がった顔面を静かに見下ろして、ムム・ルセッタは自分の師匠であるはずのに向けて冷たく問う。


「もういい。もういいだろう!」

「何が?」

「わしはもう負けた!」

「うん。だからなに?」


 ひろわれてからずっと、数え切れないほど、ムムは師父と拳を重ねてきた。

 だが、どれだけ年老いても、肉体の全盛期を過ぎても、病によって床に伏せるその日まで、ムムは師父の背中に一度たりとも土をつけることはできなかった。


 己の師に勝つ。


 それは、紛れもなく、ムムの夢だ。

 だが、これは違う。断じて違う。


「師父はいつも言ってた。負けたらそれで終わりなのは、ただの殺し合い。でも、わたしたちが志す武の道は、負けても次がある。敗北を糧にして、また拳を磨くことができる。」


 ムムは、常に負け続けながら、師を超えることを目指してきた。

 たった四回。弟子にボコボコにされた程度で諦めるような武道家を、ムム・ルセッタは知らない。

 自分の知っている師匠なら。負けたら大笑いして、大いに悔しがって、そして「よし! もう一度だ! 今度こそわしが勝つ!」と。必ずまた起き上がってくるはずだ。

 ムム・ルセッタの師は、そういう武道家だった。


「もう一回」

「や、やめろ!」

「もう一回」

「わ、わかった! 引退だ! わしはもう引退する! 武道家はもうやめる! お前にすべて譲る! だから……」

「そう。わかった」

「おお! わかってくれたか!?」

「うん」


 頷いて、倒れ込んだままの師父に、手を差し伸べる。

 今度こそ、まともな形で助け起こしてもらえると思ったのだろうか。師父のふりをしていたそれは、躊躇いなくムムの手を取った。


「お前は師父じゃない。もう黙れ」


 そして、ムムは引き上げたそれの体を、一本背負いの要領で地面に叩きつけた。

 もはや、悲鳴の一つすら口から漏れることはなかった。

 動かなくなったそれを見て、一言だけ告げる。


「師父は、死ぬまで武道家だった。あの人は、命が尽きる瞬間まで拳を握るのをやめない」


 懐かしさはなかった。ただ少し悲しくて。

 静かに、噛み締めるように呟いた。

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