二人の、はじめて

 おれは先輩に向けて肩をすくめてみせた。


「先輩を助けるのは後輩として当然の責務ですよ」

「ほんとは、後輩を助けるのが先輩として当然であるべきなんだけど」

「油断することだってあるでしょう」

「油断、はしてなかったかな」


 静かな否定。

 自分を客観的に見ている口調だった。


「ワタシ、これでも結構強いつもりでいたんだよね。それこそ、魔王を倒して勇者になりたい。自分は勇者になれるっていう思う程度には、自分の剣に、魔術に、魔法に、自信を持ってた」

「過去形にしないでください。先輩は強いですよ」


 事実、おれはまったく勝てる気がしないし。

 しかし、先輩は困ったように笑って、言葉を続ける。


「でも、ワタシは負けた。キミが助けてくれなかったら死んでいた。で、キミはワタシが負けた相手に勝った。これは本当に、紛れもない事実なんだよ」

「それは結果です。結果だけで強さは語れません」

「いやいや、勝負の先にあるのは結果だけだよ。ワタシは負けて、死にかけた。キミは勝って、生き残った。うん。でも、それはまだ良いんだ」


 いや、もちろん負けたのはよくないんだけど、と。

 そこはやはり口の中で補足した上で、先輩は言った。


「ワタシ、あの時……って思っちゃったんだ」

「はあ?」


 間抜けな声だった。

 適当な返事が思いつかず、おれはそのまま間抜けな声を漏らしてしまった。

 やはり、その反応は先輩の告白に対して相応しくなかったのだろう。

 わかってねぇなコイツ、みたいな顔をして、黒髪が左右にぶんぶんと触れた。


「ねえ。ちゃんと聞いてる?」

「いや、聞いていますけれども」

「じゃあ、恥ずかしいけどもう一回言うよ。ワタシはね、あの瞬間。死ぬのがこわくなっちゃったの。死にたくないなって思っちゃったの。覚悟はできてるつもりだったのに、心構えはしているつもりだったのに……何も残せないまま死ぬのが、こわくてこわくて仕方がなかった。これ、世界を救う勇者としては致命的でしょう?」

「え。どうしてですか?」

「え?」


 多分おれたちは今、互いに「わかってねぇなコイツ」という顔をして、相手の顔を見ているのだろう。

 でも、今回ばかりはわかってないのは先輩の方だと思う。


「おれは、こわかったですよ。駆けつけた時、ボロボロの先輩を見て、先輩が死んじゃうんじゃないかって……すごくこわかった。だから、死物狂いで助けようとしたんです」

「……それは、うれしいけど、でも」


 騎士だから、とか。勇者だから、とか。そういう話ではない。

 今回は偶然、おれが先輩を助ける側だっただけで。逆におれが死にかけていれば、先輩は命を懸けておれを助けようとしてくれたはずだ。そう信じて疑わない程度には、おれは目の前に立つ先輩と、一年という時間をかけて揺らがない信頼関係を築いている。


「でも、じゃありません。おれがこわかったんだから、先輩がこわいのも当たり前です。そんな怪我までして、こわくない方がおかしいです」


 また、妙な間があった。

 でも、言われた言葉を咀嚼して、飲み込んで、理解する。そのために必要な時間だと思った。

 時間差で、言葉が沁み込んだようだった。


「……あー、もうっ……」


 ぽつり、ぽつり、と。

 落ちてくるのは言葉だけじゃなく、地面に点々と。涙の染みができた。

 おれが知っているイト・ユリシーズという先輩は、ドジで抜けていても、いつも笑っていて、飄々としていたのに。


「……どうして、そういうこと言うかなぁ」


 今、この瞬間。

 おれの目の前にいるのは、泣きじゃくる普通の女の子だった。


「そんなこと言われたら……そんな風に、言ってもらったら、ワタシ……ほんとに勇者になれなくなっちゃうじゃん。かっこよくない、かっこわるい先輩になっちゃうじゃん」

「いや、先輩は元々、自分で思ってるほどかっこよくないと思いますけど……」

「どうじでそういうごど言うの!?」


 うあぁ!?

 顔近いなもう! 駄々っ子か!?


「先輩はアホで抜けててドジでアホですけど」

「アホって二回言った!」

「……でも、みんなから尊敬されてますし、みんなが憧れてます。おれも、あなたに憧れています」

「……アホで抜けててドジなのに?」

「さり気なくアホ消さないでください」

「アホ二回必要なの!?」


 むしろアホが本体だろ。

 こちとら初対面がパンツ丸出しだぞ?


「でも、この学校のみんなが好きなのは、多分そういうありのままの先輩なんですよ」

「……ゼンラくんにありのままって言われると説得力が違うね」

「おれは今まじめな話をしているんですが?」


 台無しだよ。誰がフルチンだよこの野郎。

 でもまぁ……混ぜっ返したのは、多分照れ隠しなのだろう。ごしごしと目元を擦りながら、先輩は唇を尖らせた。


「あーあ……男の子の前で、はじめて泣かされちゃった」

「なに言ってるんですか人聞きの悪い」

「いついかなるときも常にスマイル!が、イト・ユリシーズの売りだったのに、どうしてくれるの?」

「こうしてやりますよ」


 はいはい、と適当にあしらいながら、目元をハンカチで拭く。擦ると腫れるからやめてほしい。美人が台無しだ。

 ついでに、一言添えておく。


「……先輩の笑顔はとても素敵ですけど。でも、いつも無理して笑っている必要はないと思いますよ。人間なんですから」


 きょとん、と。

 おれは至極当たり前のことを言ったはずなのだが。先輩は、今までで一番丸い目をしていた。


「泣きたい時は泣けばいいし、助けてほしい時は助けてって言えばいいんです。おれは勇者になりたいですけど、これから先も悲しいことがあれば普通に泣くと思いますし、助けてほしい時は助けてくれー!って。仲間に叫ぶと思います」

「それは……なんか、勇者としてかっこ悪くない?」

「かっこ悪くてもいいじゃないですか。かっこいいだけじゃ勇者にはなれませんよ」

「……そっかぁ」


 何が、先輩の腑に落ちたのか。

 何が、先輩の心に触れたのか。

 それはよくわからなかったけれど。

 それでも、先輩の中にある何かが切れた音を、おれはたしかに聞いた。


「じゃあ、仕方ない。かっこ悪い勇者は、きみに譲ってあげるよ」

「譲ってくれるんですか?」

「うん。ワタシは勇者じゃなくて……キミのかっこいい先輩で良いよ」


 ああ、うん。

 おれはやっぱり、この人が、こういう風に笑ってるのが好きだ。

 それでも一応、釘は刺しておく。


「無理にかっこつけなくてもいいですからね」

「年下には甘えられないなぁ」

「だから甘えてもいいんですって。ていうか、いつも周りに甘えてるでしょう? 生徒会の先輩方とかに」

「え?」

「……あれだけお世話されてて自覚ないのは相当ですよ、先輩」


 この人、おれに対してはいつも先輩風吹かせてくるけど、中身はめちゃくちゃ末っ子気質なんじゃないか?


「ふぇ……ふぇくしゅっ!」


 話している間に、日が落ちてきた。

 まだ春というには肌寒い風を受けて、先輩はぶるりと身体を震わせた。肩に羽織っている制服のブレザーの前を、少し寄せてあげる。


「あ、先輩。鼻水、鼻水出てます」

「ふぐっ……ちょっと、鼻かませて」

「子どもですか?」

「だって、甘えていいんでしょ? ほらほら、こんな美人に鼻水垂らさせる気?」

「鼻水垂らしてる状態で美人の自己申告できるのすごいですね」


 おれは少し屈んで、形の良い鼻にちり紙をあててあげた。

 最低限、騎士として身だしなみには気を遣うよう厳しく言われてきたので、ハンカチとちり紙を持ち歩く習慣はついている。というか、イト先輩が転んだり倒れたり転んだりして顔をぶつけることが多かったので、ハンカチとちり紙は手放せなくなってしまった。要するに先輩のせいだ。

 ちーん、と。恥も何も気にせず、鼻をかむ先輩は、なんというかやはり手のかかる小さな子どものようだった。

 やれやれ、と。

 ちりがみをしまって。

 溜め息を吐いて。

 顔が近くて。

 そして。

 顔が、あまりにも近いことに気がついた。

 それは、本当の本当に、一瞬のことで。

 気がついた時には、唇に熱が移っていた。


「……ごめん。したくなっちゃったから、しちゃった」


 ちょっとまってほしい。

 なんだ、それは。


「退学祝いだよ。それとも、追放祝いの方が良い?」

「さ、最悪だ……」


 それ以上、言葉が出てこない。


「あの、先輩……」

「なに?」

「おれ、はじめてだったんですけど」


 余裕なんてない。

 だから、いたずらっぽく、誂うように笑われるだろうと思った。

 けれど、イト先輩はどこか安心したように笑った。


「ふふっ……そっか。そっかぁ……よかった」


 気取らない。

 屈託のない。

 素直な笑顔。

 夕日が、まだ落ちていなくて良かったと思った。


も、ね。はじめてだよ」


 そうか。

 これがこの人の素顔なんだな、と。

 おれはようやく、それがわかった気がした。



 熱い。

 自分の心臓の鼓動を、こんなにも熱く感じたことはない。

 声を出して、叫びだしそうになるのを、耐えて、堪えて、我慢して。

 アリア・リナージュ・アイアラスは、開きかけていた屋上の扉を、そっと閉めた。

 音を決して鳴らさないように。

 決して気付かれないように。

 それでも、なるべく早く離れられるように。

 階段を、逃げるように駆け降りる。

 沈む夕日とは裏腹に、少女の胸の中には、熱いものがいつまでも渦巻き続けていて。

 その熱を早く冷まさないと、自分の中の何かが、溶け落ちてしまいそうだった。

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