ハエルヌン・ブランクーレ(三)

 六月七日夕刻。

 コステラ=デイラの花街へ、五十名の護衛に守られながら、近北公[ハエルヌン・ブランクーレ]とウベラ・ガスムンが入った。コステラ=デイラに武器を携帯した兵士の入ることを極度に嫌ったサレであったが、公には特別な待遇を見せた。


 その日の花街は公の貸し切りとなり、有名どころの歌妓が全員集められた。

 花街の警固は、ブランクーレ家を示す葡萄の家紋の兵と緑衣党が、共同で事にあたった。


「執政官[トオドジエ・コルネイア]はつまらぬ男だな。だから安心して付き合えそうだ」

 歌妓に囲まれ、そのひとりから酌を受けながら、公がサレに話しかけた。

「……はい。ところで、コステラ=デイラはいかがでしょうか?」

 サレの問いに、公は左右を一瞥いちべつしてから微笑と共に答えた。

「清浄に満ちた都市だ。浮浪者もいなければ、道も常に清められている。公女と南衛なんえいかんが望んだ世界なのだろう、ここは。……しかし、それだけだ。私には人間の住むべき場所だとは思われない」

 公が言い終わると、歌妓のひとりが毒見役からブドウの房を受け取り、実を一つちぎって、公の口の中へ入れた。

「私の住んでいるスグレサはこことは真逆だ。汚濁に満ち、道が四方八方に曲がりくねりながら伸びている。その先には何が潜んでいるのか。統治している私にもわからない」

 歌妓の手を取りながら、「このような美しい者に出会えるかもしれないし、人を食って生きている南衛府尉のような男が出て来るかもしれない」と公が言うと、歌妓たちが嬌声を上げた。

 女たちと戯れている公の様子をながめながら、「お手厳しいですな」とサレがひとりごとのように応じた。

「そうかな。だれかにとっての理想郷が他の者にはそうは見えないということは、ままあることだ。ただそれだけの話だよ」

 公が、サレを横目で見た。

「この街は南衛府監がいなくなれば、おそらく、それ以前の形に戻ってしまうだろう。それに対して、私がつくったスグレサは、私が消えた後も今のまま残り続けるように思う。どちらがいいかはそれこそ、人それぞれだろうがね」

 歌妓に酌をさせながら、酔人の言はつづいた。

「スグレサはやかましくて、婚約者殿のお気には召さないだろう。しかし、少し郊外に出れば、本を読んで過ごすのに適した邸宅がいくらでもある。そこならば、この都に住むのと、婚約者殿の生活はそれほど変わりないように思うが、どうだ?」

 問いに対して、間を置かずに「そのように思います」とサレが答えると、公は数度小さくうなづいた。

「明日、今の大公[スザレ・マウロ]と面会なされるそうですが、公女[ハランシスク・スラザーラ]さまの扱いについて、近北公のお心はすでにお決まりなのでしょうか?」

 サレの問いかけに、公は「無粋な奴だな」と嫌な顔をひとつしたのち、右手を一度振った。すると、公の近習の者たちが、歌妓たちを場から遠ざけさせた。


「……スザレ次第というところかな。スザレが話の分かる男ならば、私とスラザーラ家が結びついて、いたずらにやつの脅威となるのは避けてやりたいところだ。しかし、話の分からぬ男となれば、やつと戦うために、スラザーラ家の権威が私には必要になる。……ところで、都周辺ではまたぞろぞろと塩賊がではじめたそうだな?」

「はい。ルンシ・サルヴィなる者が台頭しております」

 サレの説明を、近北公は鼻で笑った。

「わけの分からぬ西征をする余力があったのならば、塩賊を根絶やしにしておけばよかったものを。愚かな男だ。……近北州は金しか採れぬ。塩は南部州からの移入に頼るしかない。南部州が混乱しているときは、塩不足にずいぶんと悩まされた」

「はい。南左[ウベラ・ガスムン]から聞き及んでおります」

「近北州で塩が足りなくなれば、遠北州に回すものがなくなる。そうなると、遠北州で私のために働いてくれている、反ペキ派の機嫌を損ねることになる。それは避けたい」

 「なるほど」と言いながら、サレは、空になっていた公の盃を満たした。

「遠北州と戦っている最中はできなかったが、巨人の口[サルテン要塞]が閉じている今、こちらに塩が回って来なくなれば、我々としては、西南州の海岸まで、塩を取りに行かなければならなくなる。そこら辺のことをスザレはわかっているのか?」

「なにぶん、いくさにはお強いですが、視野の狭いところのあるお方ですので、何とも」

「相手にしやすい愚者か、手に余る愚者かはあしたわかるわけか。いまのところ、後者のような気がしているがな」

 そう言うと、公は再度、鼻で笑った。

 その様を見ながら、サレは居住まいを正して、公に次のように告げた。

「近北公。前の大公[ムゲリ・スラザーラ]の作り出した泡がはじけて、七州は人・物・金の動きが、未だに混乱へ陥っております。そのひずみが塩賊の跳梁を許した。これを正すには、いくらでも湧いてくる塩賊を切り捨てても無駄で、為政者による適切な統治でしかないと愚考いたします」

 サレが話している間、口をつけていた杯を膳のうえに置くと、公は脇息にもたれかかり、サレをまどろんだ目で見た。

「私に都の政治を見ろと? いや、ちがうな。執政官に協力しろというのか?」

 サレが頭を下げることで答えとすると、彼の耳に、公の酒器を動かす音だけが聞こえた。

 しばらくしてから、「顔を上げろ」と公が言ったので、サレはその通りにした。

「私はな、南衛府監。近北州さえ、私の思い通りになれば、それでよいのだ。だから、他州の政治にはあまり深入りしたくない。しかし、塩が絡んでくるとな。むずかしいところだ。さて、どうするべきか……」

 次の言葉をサレは待ったが、公は話を続ける代わりに左手を振り、その指示を受けた近習によって、歌妓たちが場に呼び戻された。

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