第11話 接触


 数日前、帰りのバスとデパートで体験した気味の悪い出来事を翌日学校で友人たちに話したところ、

「気のせいでしょ。あんたってば、ほんと、恐がりなんだから」

 と笑われた。

 バスの前の座席で振り返って見ていた女子生徒は、

「向こうもあんたを知り合いの誰かと間違えて、気まずい思いをしてたのよ」

 と推理し、デパートのエスカレーターの鏡に映った赤い女に至っては、

「その通り。エスカレーターに乗らなかったってだけでしょ?」

 と、彼女の妄想力に感心して爆笑された。


「ああ、もう、腹立つなあ」

 風呂から上がって、宿題をしなくちゃと机に向かったところで唐突に思い出し、夏菜はむっつりした。

 実は風呂に入っている間も、風呂場に自分以外の何かが居るような、体を洗う時、髪を洗う時、鏡に何か映るんじゃないか、そんな思いがして、怖くて仕方なかった。

 今日に限らず、一週間ほど前、「鏡に映る赤い顔の女」の話を聞かされて以来、お風呂が怖いし、洗面所が怖いし、自分の部屋が怖いし、夜中トイレに起きるのが怖いし、と怖がってばかりいた。

 自分の恐がりには自分自身呆れてしまう。

 高校生にもなってお化けが恐いなんて、恥ずかしい。

 気のせい、気のせい、お化けの正体は枯れたススキだ。

「よし、やろう!」

 と気合いを入れて、プリントに取りかかった。

 教科書とノートを参考に集中して問題を解いていたが、夏菜は勉強全般が苦手だった。

 難しいなあ、分かんないなあ、面倒だなあ、と、だんだん集中が解けてきて、プツプツ、頬にできたニキビを触っていて、

「あ、イタ」

 と顔をしかめた。

「ヤッバー、潰しちゃったかなあ」

 確かめようと卓上ミラーを引き寄せると、鏡が回転して裏側になっている。回転がいいのでついクルクル回して遊んでしまうのだ。表にして、頬に指を当てつつ覗いた。

 あ、大丈夫、と安心した途端、天井のLEDが、スウっ、と暗くなった。

「え? なんで?」

 机のスタンドが点いているので真っ暗にはならない。けれど、ふと鏡に目を戻すと、スタンドの明かりで白く浮き上がった自分の背後は真っ暗だ。

 ゾクリ、と背筋が寒くなった。

 なんでもない、なんでもない、お化けなんて居るわけないんだから……

 鏡の中の、頭の後ろの真っ暗な空間を見つめつつ、自分に言い聞かせた。

 何もない、何もない、何もあるわけない……

 真っ暗な空間に、何かもやもや、赤い物が見えてきた気がして、夏菜はとっさに、ぎゅうっと、目をつぶった。




「その鏡がこの街に『鏡に映る赤い顔の女』の呪いを広めているわけね。呪いのターゲットは若い女性なんでしょ? 死んだのは若い男よ?」

「呪いの鏡に触れてしもうたせいじゃ。直接毒に触って、中毒になってしもうたんじゃよ」

「ふうん。御愁傷様」

 紫恩は御堂に問題の鏡が元凶となっている呪いについて話して聞かせた。御堂の質問にも答えてくれたが、他に考え事があって、いかにも面倒くさそうだった。

 御堂は元々考えるより先に体が動くたちで、黙っていれば一人で苦悩している紫恩を見ている内、もどかしく、退屈になってしまった。

「要するに、鏡のお化けで、呪いを広めているって言うことは、つまり、逆に、こっちからも鏡を通してそのお化けにアクセス出来る、ってこと?」

 紫恩は驚き呆れた顔で御堂を見つめた。

「何を馬鹿なことを……」

 言葉を止めて、考えた。

「まあ、出来んことはないじゃろうが……、いや、しかし、そんな安直な……」

「出来るんですね?」

 御堂に強く言われて、

「うん、多分、まあ……」

 と、紫恩は煮え切らないながら肯定した。

「しかし、命懸けになるじゃろうな。わしもまだ人生半分残っておるんじゃ、そうそう危険な賭けに打って出ることは……」

「なあに言ってんの」

 今度は御堂が呆れた。

「ターゲットは若い女なんでしょう? おばさんじゃあ、駄目駄目」

 あおぐように手を横に振られて、紫恩はムッとした。

「こおらっ! わしだってまだまだ……」

 怒ってはみたものの、言葉に詰まって閉口した。

「しかし、では、誰が……」

 御堂がぐいっと自分を指差した。

「現役バリバリ」

 紫恩は難しい目でじっと御堂を見つめた。

「分かっておるのか? 相手は死をもたらす化け物じゃぞ? 捕まれば、命の保障はないぞ?」

「まあ、それ以前に、わたし、霊感なんて全然ないけど……」

「それはわしがサポートすればなんとかなるだろう。……本気か?」

 御堂は、うん、とうなずいた。

「若い女性の被害者が出るんなら阻止しなくちゃ」

 紫恩も決心してうなずいた。

「やってみよう」


 紫恩はトートバッグから黒い布包みを取り出し、開くと、丸い壁掛け鏡が出てきた。鏡面の直径が二十八センチの、シンプルな銀の縁取りの物だ。

「なんだ、ちゃんと用意してるんじゃない」

「化け物を呼び出そうと思っちゃいなかったよ。逆だ。合わせ鏡でふたをして、封じ込めるのさ。あっちの鏡もだいたい同じ大きさのはずだ」

「ふうん。詳しいわね?」

 紫恩はむっつり黙ったまま鏡を御堂に渡した。

「自分の顔を見ながら、赤い色をイメージしな」

「それだけ?」

「ああ」

 御堂は両手で鏡を持って構え、街路灯の明かりが自分の顔に当たるように、自分と鏡の角度を調整した。御堂はベンチに座り、紫恩は斜めから見下ろす形で立っている。

「危険を感じたらこれを被せて接触を断つ」

 紫恩は手に持った鏡を包んでいた黒い布を示した。

「それじゃあ、やってみろ」

 御堂は鏡を見つめ、自分の顔を見つめた。

 軽く手を伸ばして見る鏡には、自分の顔がほぼすっぽりはまっている。

 夜、暗い明かりの下で見る鏡なんて気味のいいもんじゃないな、と思いつつ、

 赤色、赤色、

 と、自分の顔に重ねてイメージした。




 気のせいだ、気のせいに決まってる、網膜に残像が焼き付いていただけだ、赤い色なんて無い……

 ぎゅうっと閉じていた目を、夏菜はそうっと開いた。

 鏡の中の自分の顔が、赤く見えた。

 ぎょっとしながら、

 違う、ぎゅっと目をつぶっていたから、目がおかしくなったんだ、

 と考えた。

 消えろ、消えろ、元に戻れ!……

 赤色が、もやっ、と滲んだ。




 この場合の赤って、やっぱり血の赤かな?

 見守る紫恩が何か念でも送っているのかも知れないが、これまで霊感など感じたことの無い御堂には分からなかった。しかし、

(集中しろ)

 御堂にはそれを呼び出す自信があった。

 自分が今ここにいるのは、その必要があるからだ。

 さあ、来い!




 もやっと滲んだ赤が、目鼻の輪郭を歪め、微妙に形を変えた。

 自分の顔じゃなくなる……

(やだっ)

 再び目を閉じたかったが、自分ではない力に支配されたように、まぶたを閉じること、視線をそらすことが出来なかった。

 鏡の中の目が、しっかりと、自分を見つめる……

 緊張が極限に達しようとした時、


 ふっ、


 と、赤色が膨らみ、輪郭がぼやけ、薄れて、消えた。

 鏡には、怯えて固まった、スタンドに照らされた白い自分の顔が映っている。

 階下から父親の声がした。

「おーい、夏菜。さくらんぼもらってきたぞ。食べないか?」

 夏菜は椅子から立ち上がり、一目散にドアに向かった。

 ドタドタ階段を下りていき、父親に訴えた。

「お父さん、部屋の電灯が切れたみたいなの。調べてよ」




 来た!

 ぽつんと水面に血が滴ったみたいに、鏡の中にもやもやした赤色が浮かび上がってきて、映る御堂の顔を赤く覆っていった。

 赤色が御堂の顔にフィットすると、焦点がずれたみたいにぼやけて、再び輪郭が締まってきた。

 それは御堂の顔ではなかった。

 赤い顔が、自分を見つめている。

 自分と同じ、二十歳前といったところ。

 自分より丸顔で、頬がふっくらして、おちょぼ口で、お姫様のような感じ。

 ぼうっとして、自分は何を見てるのかしら? と不思議そう。

 彼女も鏡を見ているつもりなのだ。

 じゃあ、彼女にとっては自分が鏡に映った彼女の顔と言うことなのか?

 そんな理屈を思いつくと、不思議な気分になって、そして、イライラしてきた。


 誰だ? おまえはわたしじゃない。


 わたしの振りして、わたしを見てるんじゃないわよ。


 どこだ? わたしの顔をどこにやった?


 おまえか? わたしの顔を奪ったのは?


 凶悪な目で睨み合った。

「おまえはわたしじゃない! わたしは、どこだ!?」

 かあっ、と、鏡の赤い顔が威嚇するように口を大きく開き、かあっ、と、噛み付くように迫ってきた。


「気をしっかり持て!」

 紫恩が御堂の額に手を置いてぐいと押しやり、黒布を鏡に被せ、御堂の手から奪い取った。

 御堂はぽかんとして、目をぱちくりさせて、紫恩を見た。

 紫恩は怖い顔で、ため息をついた。

「危ないところじゃった。半分取り憑かれかけとったぞ?」

 そうなの?と御堂は首を傾げた。自分ではどうも実感が無い。

「ものすごい顔で鏡を睨みつけて、大声を上げると、鏡に噛み付くみたいに顔を突っ込むところだったわい」

「え、それは……」

 鏡の中の女がしようとしたことで……、と思って、ああ、そうか、と思った。

 それがつまり、自分が取り憑かれかけていたと言うことなのか。

 自分が自分でなくなって、半分、あの女になりかけていた、と言うことか。

 実際霊能力者である紫恩にはどう見えていたのか本人に聞かなければ分からないが、一般の人間の目には、御堂が鏡に映った自分を相手に怒って怒鳴って……、相当危ない人間に見えていたことだろう。

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