23

 先程の路地裏からある程度離れた場所まで走ると、観音寺紗希は足を止めた。

 俯く彼女の頭を過ぎるのは、八年前のあの事件だ。


※―※―※


 八年前。小学三年生の観音寺紗希は、家族と共に平凡な暮らしをしていた。

 どこにでもある普通の家族。だが、彼女にとって優しい両親と兄は世界で最高の家族で、紗希は幸せだった。

 紗希はよく笑う子だった。それは別に、大笑いするということではなく、楽しいこと、面白いことがある度に、ニコッと笑みを浮かべるのだ。紗希の笑顔はとても可愛くて、周りの者たちは、つられてみんな笑顔になってしまうのだった。

 両親は娘のことが愛しくて仕方なかった。六歳上の兄も妹のことを溺愛しており、「紗希が笑顔だと、僕まで笑顔になるよ」と言って、よく頭を撫でていた。


 両親と兄は皆、眼鏡を掛けていた。

 紗希はみんなと一緒になりたくて、

「あたしも! あたしも眼鏡する!」

 と、駄々を捏ねた。

「紗希。目が良い子はつけなくて良いのよ? 眼鏡なんて、掛ける必要ない方が良いんだから」

「ヤダー! パパとママとお兄ちゃんと一緒が良い~!」

 母親が宥めても頑固に譲らない紗希に対して、両親は困っていた。

 すると、兄が――

「お小遣いで兄ちゃんが買ってやろうか?」

「ホント!?」

 パァッと紗希の顔が明るくなる。

「ああ。ただし、伊達眼鏡だけどな」

「ダテ……メガネ?」

「度が入ってない奴だ。でも、見た目は一緒だからな。それで良いか?」

「うん! お兄ちゃん大好き!」

 紗希は兄に抱き付いた。


 ある日のこと。

 家族揃って、車で日帰り旅行をした。

 両親は共に仕事で忙しく、なかなか休みが取れなかった観音寺家としては、日帰りでも旅行に行けることは滅多に無かった。

 ウキウキしていた紗希だったが、車の中で小さな袋の中をガサゴソと探して――

「あー!」

「どうした?」

「ない! ダチメガネ! 忘れないように昨日の夜、ここに入れたのに!」

眼鏡、な。置いて来ちゃったか」

「ぷ~! せっかくみんなで旅行なのに~!」

「うふふ。また次の機会にすれば良いわよ。今回だけじゃないだから」

「ホント!? また旅行する!?」

「ああ、そうしよう」

「やったぁ!」


 その後、遊園地で遊び、温泉を満喫した紗希たちは、車で帰り道を走っていた。

 紗希は幸せここに極まれりという満面の笑みだった。

「楽しかった! また行こうね!」

「ええ、そうね」

「ああ、そうだな」


 N市内に入り、家まであと少し、という所で――

 ――突然、何かにぶつかったような衝撃が車を襲った。

 車が横転転覆を繰り返し、世界が何度も回る。

「きゃあああ!」

 一体何が起きているのか分からず、紗希は悲鳴を上げた。

 やっと止まった時、横転した車内で、何とか顔を持ち上げ、まず紗希は同じ後部座席に乗る兄を見た。

「……お兄……ちゃん」

「……うう……紗希、大丈夫か?」

「……うん」

 兄の頭と腕から血が出ている。自分も、頭から出血していた。

 痛い。身体中が痛い。

 だが、二人とも何とか大丈夫だった。

 そうだ、シートベルトをしていたのだ。 

 学校に交通安全のお話に来たお巡りさんが、言っていた。

 命を守るために、シートベルトを締めましょう、と。

 兄も、自分もシートベルトをしていた。

 母も、父も、もちろん普段からシートベルトをしている。

 だから、みんな大丈夫なのだ。

 きっと大丈夫。

 大丈――

 ――助手席の母は、氷柱に貫かれて絶命していた。

「いやああああああああああ! ママ!! ママあああああああああああ!!!」

 大量に吐血、出血しており、エアバッグが真赤に染まっている。

 巨大な氷柱は、助手席とボンネットに真上から一本ずつ刺さっていた。

 父親は数箇所から出血しているものの、無事だった。

 助手席の妻の生気の無い虚ろな目を見て、父親は唇を噛んで自分のすべきことを考える。

「二人とも、大丈夫か?」

「僕らは大丈夫だよ!」

「それなら、外に出なさい」

「いや! ママは!?」

「ママは………………後から助けるから、まずお前たちは外に出なさい」

「………………うん」

 拉げたドアから父親が強引に外に出る。金属片が刺さって脚から出血するが、気にしている余裕は無い。

 次に父親の手を借りて兄が外に出て、最後に二人が紗希を引っ張り出した。

「ぐすっ……なんで……なんで……? ママ……」

 泣きながら座り込む紗希だったが、そこに――

「ほう。三人も生きていたとは。悪運の強いことですね」

 銀色の長髪を靡かせて、切れ長且つ冷たい目の男が近付いて来た。

「誰だ!?」

 父親が警戒して、子供たちの前に出る。

「ワタシですか? ワタシは……」

 男の瞳が銀色に光り、その身体も銀色の光に包まれる。

 男が両手を掲げると――その頭上に巨大な氷柱が現れた。

「賤しい眼鏡に鉄槌を下す者です! ヒヒヒ!」

「デビルコンタクトか!」

 氷柱が父親の胸部を貫く。

「がはっ!」

「いやああああああああああ!!」

「二人とも……逃……げ……」

 最後まで言葉を紡げず、崩れ落ちる父親。

 彼は、自分の認識が甘かったことを悔いていた。

 デビルコンタクトは、通常眼鏡を掛けた徒歩の者を狙う。

 時には自転車の者が狙われることもあったが、車を運転している者を狙った事件は今まで無かった。そのため、勝手に『車内ならば眼鏡を掛けていても襲われることは無い』と思い込んでいたのだ。

 心の中で子供たちに、すまない、と謝罪し、奇跡が起こり子供たちが生き延びられることを願いながら、父親は事切れた。

 座り込んだまま恐怖で動けない紗希の前に、兄が立ち、手を広げた。

「ほう。妹を守ろうとする兄。美しい兄妹愛ですね」

「頼む、妹には手を出さないでくれ」

「ふむ。どうしましょうねぇ」

 顎に手を当て、考える素振りをする男。

「確かに、まだ妹さんは幼いですし、殺すには忍びないですね」

「だったら――!」

 だが――

「やっぱり全員殺します」

 ――男が下卑た笑みを浮かべる。

「! 紗希、逃げろ!」

「お兄ちゃん!」

 男に向かって突っ込んで行く兄。

 しかし――

「ぐぁっ!」

 兄の両手両脚に氷柱を突き刺し、男は難無く兄の突進を止める。

「お兄ちゃん! ……もうやめて……!!」

 男は冷たい双眸で兄を睨み付ける。

「まさかこのワタシに歯向かおうとするとは。罰を与えなければなりませんね」

 手足に打ち込まれた四本の氷柱を操作されて、兄の身体は反転して紗希の方を向いた。

 そして――

「さぁ、美しい氷のショーです。妹さん、楽しんで下さいね」

 男の声と共に、兄の身体が足元から巨大な氷に包まれて行く。

「やだ! やめて……!! お願い……だから……もう……やめて……!!!」

 涙に塗れ、呻くように必死に懇願する紗希だが、男は口角を上げたまま、特に反応を示さない。

 足、胴体と、身体が次々と氷に覆われ、一気に身体の体温が下がっていく中――

 兄は、ただただ涙を流し続ける紗希を見て、恐ろしい出来事に遭遇して怖くて堪らないであろう最愛の妹を安心させようと、震えながらも、無理矢理笑顔を作り、必死に言葉を紡いだ。

「僕……大……丈……夫……紗……希……逃……げ……」

 そして、兄はその表情のまま、頭部まで巨大な氷に覆われていった。

「……お兄……ちゃ……ん……?」

 目の前の光景が余りにも現実離れしており、紗希は虚ろな表情で、氷に閉じ込められてしまった兄に手を伸ばそうとした。

 が、その時、男が手を翳して――

 ――兄を包んだ氷がバラバラに砕け散った。

 すると、伸ばした手もそのままの紗希の目の前に、氷の塊が転がって来た。

 見ると、それは、兄の頭部だった。

 氷の中に透けて見える兄の表情は、最愛の妹を安心させようとした笑顔のままだった。

 男は紗希を冷たく見下ろした。

「貴方だけは殺さないでおこうとも思ったのですよ? 唯一眼鏡をしていませんでしたし。でも、家族はみんな眼鏡をしていましたからねぇ。やはり貴方も同罪です。死になさい」

 紗希を殺そうと近付いて来る男。

 すると――

「ちっ! 国家権力のお出ましですか」

 中には警察相手に戦うことを厭わない好戦的なデビルコンタクトもいたが、この男はあくまで弱い者を甚振るのが好きなだけだったので、サイレンを聞いて迷わず退くことにした。

「まぁ良いでしょう。さて、お嬢さん。貴方の大好きなお兄さんは、氷漬けにしてあげましたから、これで暑い夏も安心ですよ? 触るとひんやりして気持ち良いですし。お兄さんと仲良くするんですよ? あ、でもバラバラにしてしまったので、顔がどこか分からなくて喋り掛ける時に困ってしまうかもしれませんが。ヒヒヒ!」


 いつの間にか男は去っていた。


 紗希は、氷で覆われた兄の頭部に近付き、虚空を見詰めながら拾い上げ、虚ろな表情で抱き締めた。すると、目から涙が溢れてきた。

 そして、流れる涙もそのままに、虚ろな表情で虚空を見詰めたまま、取り憑かれたように、兄が最期に遺した言葉を繰り返した。

「僕……大……丈……夫……紗……希……逃……げ……僕……大……丈……夫……紗……希……逃……げ……僕……大……丈……夫……紗……希……逃……げ……僕……大……丈……夫……紗……希……逃……げ……僕……大……丈……夫……紗……希……逃……げ……僕……大……丈……夫……紗……希……逃……げ……僕……大……丈……夫……紗……希……逃……げ……」

 

 そして紗希は、気を失った。

 

 目が覚めて。

 その後、紗希は笑顔を失った。

 そして、何故かその時から、紗希が自分のことを言おうとすると、「あたし」ではなく、「ボク」という言葉が出るようになった。また、文章ではなく、単語などの短い言葉で喋るようになっていた。

 あの事件から紗希の生きる目的は、『氷のデビルコンタクトを殺す』、ただそれだけになった。

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