三日目(土曜日)その6

目を開けると、そこは今までいた豊丘公園で、僕はベンチに座っていた。しかし、時間帯が違う。あたりは夕闇に包まれ、空は赤く燃えたぎっているようだ。先ほどまでいたはずの三人の姿も見えない。どこに行ってしまったのだろうか。ベンチから立ち上がり、周辺を見回す。その時、僕は信じられない光景を目にした。僕がいるベンチとは対角の位置、そこに、あるはずのないブランコがあったのだ。そして支柱から吊り下げられた二つの座板にそれぞれ腰かけていたのは――僕と渡瀬だった。

 その光景に吃驚しながらも、僕はロゼの特殊能力を思い出す。

 そうか、これは過去の光景なんだ。一年前の三月三十一日の光景。ということは、これは僕が記憶を失う直前ということなのだろうか。

 状況を把握したことで落ち着きを取り戻した僕は、二人のいるブランコに近づいていく。ブランコは多少老朽化が進んでいるようで、ところどころペンキが剥がれている。

 二人とも僕の存在には気づいていない。これは言わば、過去の映像を見ているのと同義なのだろう。よって気づかれるわけはないのだが、あまり近づくのも憚られるので、僕は二人の声がぎりぎり聞こえる位置まで歩を進めると、地面に片膝をついた。

 一年前の『僕』の声が聞こえる。

「本当にいいのか?」

 その言葉に、渡瀬は寂しげな面持ちで静かに頷く。

「私は後悔しないよ。だって二人で決めたことでしょ? もう覚悟はとっくにできてる。それにね、全てを忘れてしまったとしても楽しく生きていける気がするの――この世界は優しいから」

 二人で決めたこと? 会話の流れがいまいち掴めない。それは過去の『僕』も同様なようで、

「優しい?」

 と首を傾げた。それに対し渡瀬は、

「うん、私はそう感じる。考えてもみなよ。多くの人がこの世界は理不尽だとか不公平だとか欺瞞に満ちているとか嘆いているよね。でも、どうしてそういう風に世間を慨嘆することができると思う?」

 腕を組んで少し考え込む仕草を見せた後、『僕』は言った。

「どうしてって……そりゃあ、実際に世界の不条理さや差別、虚偽に遭遇してきたからじゃないのか?」

 『僕』のその答えに渡瀬は、「うーん」と唸る。

「六十点ってところかな」

「いつからクイズになったんだよ……。じゃあ、この問題が百点満点なら残りの四十点はなんなんだ?」

 呆れたように言った『僕』を見て、渡瀬は指を左右に振った。

「大事なポイントを忘れてる。それはね、何故私たちがこの世の中のマイナス面を知っているかだよ。考えてみたことある?」

 そこでまた『僕』は考え込んでしまう。二人の間に沈黙が下りる。

 いったい、一年前の僕たちは何の話をしていたんだ? 世界が優しいだの、この世のマイナス面だの、さっぱり言っていることが理解できない。それに会話を交わす二人の顔はとても楽しげだ。特に渡瀬は、いまでは考えられない笑顔を見せている。これから、話し相手の記憶を消そうとしている人間には到底みえない。本当にこれからそんな出来事が起こるのだろうか。

 しばらく思索に耽っていたために二人の会話が頭に入ってこなかった。僕を現実に引き戻したのは、

「お前の記憶力はミジンコ並か!」

 という過去の『僕』の突っ込みだった。その突っ込みに対し、渡瀬が何やら小難しいことを述べていたが、よく聞き取れなかった。話し終えた渡瀬に向かって、『僕』は肩をすくめると言った。

「まったく……今はミジンコの立ち位置なんてどうでもいいんだよ。そんなの後でいくらでも考えられるだろ」

「……後で……か」

 悲しげな声色で呟くと、渡瀬は俯いてしまう。

 あっ、と『僕』は声を漏らす。その顔からは後悔の念が見て取れた。

 渡瀬は顔を上げる。そして、遠くを見るようにして言った。

「気付いた? こうやって無駄話に興じることができるのもこれで最後かもしれない――さっきの問いの答えを教えるよ」

「僕たちが世の中の負の面を知っている理由?」

 視線を『僕』に戻すと、渡瀬は少し声を落とした。

「そう。それはね、負サイドの逆ベクトルの事象を知っているからだよ。いや、教えてもらっているという言い方が正しいかな。世の中のプラス面を知っているからこそ、マイナス面を嘆くことができるんだ。だから優しいと言ったの。もし、この世界が慈愛に満ちていなかったとしたら、私たちは善悪の区別をつけることもできないからね。これがこの問題の解。どう? 納得した?」

 『僕』はしばし唇に拳を当て考え込んでいたが、やがて大きく二度頷いた。

「なるほど。お前のその考えなら、僕たちもこれからうまくやっていけそうだな」

 そう言って朗らかに笑う『僕』。それにつられるように渡瀬も笑った。

「そうだね。じゃあ、そろそろ始めよっか?」

「ああ」

 二人は立ち上がると、少し前に出て向き合った。渡瀬はブランコに背を向けている。

 始める? 何を? 状況を飲み込めない僕を尻目に、二人は互いの息が触れる距離まで近づく。『僕』はさらに距離を詰めようとする。すると、渡瀬がそれを手で制した。

「その前に。ちょっと後ろ向いてくれる?」

 狐につままれたような様子の『僕』は、渡瀬に言われるままに身体を後ろに向ける。

「え? こうでいいか?」

「うん……」

 すると、渡瀬は踵を返し、背中を向けている『僕』から離れていく。彼女の向かう先には先ほどまで座っていたブランコ。そしてしゃがみこむと、自分が座っていた座板の辺りを弄り始めた。

 何をする気なんだ? よく観察してみようと近づいてみたときには、彼女はもう既にその作業を終えていた。立ち上がった渡瀬を見た僕は、思わず目を疑った。何故なら渡瀬が、先ほどまで自分が身体を預けていた座板を抱えていたからだ。

 それを腕に抱え込んだまま、再び『僕』のもとへ戻っていく渡瀬。さすがに不審に思った『僕』が振り返ろうとしたまさにその時、

「おい、どうし……が…ァ…ッ!?」

 渡瀬は『僕』の首筋に向けて、ありったけの力で座板を振り翳した。そのまま前のめりに崩れ落ちる『僕』。

「…………」

 渡瀬は何も言葉を発さず、ただ倒れている『僕』の背中を見つめている。

 座板を手にした瞬間から嫌な予感はしていたのだが、まさかこんな行動に出るとは。

 僕が唖然としていると、うつ伏せに倒れこんでいた『僕』が僅かに顔を上げ、渡瀬の方を向いて、言った。

「……な、なん…で?」

 それだけ口にすると、『僕』は完全に気を失った。

「……………ごめんなさい」

 渡瀬はそうぽつりと洩らすと、顔を覆ってその場にへたり込んだ。

 僕は深呼吸をして落ち着きを取り戻そうと試みる。が、胸の動悸はなかなか収まってくれない。そして何故だか首筋が痛む。まるで僕に、いま見た出来事を憶えているか、と問いかけてくるように。

 その後もしばらく、首筋を押さえ痛みと格闘していると、ブランコ奥の植え込みの陰から制服姿の男が出てくるのが見えた。男はその惨状を確認した後、渡瀬に近寄ると、彼女をそっと抱きしめた。まあ、この男の登場はある程度予想していた。

 波流春人。やはりこいつは、僕らの件に深く関わっていたのだ。

 抱きすくめられた渡瀬は、春人の胸に顔を預け嗚咽を漏らしている。そんな彼女に春人は優しく声を掛ける。

「こうするしかなかったんだ。お前は何も悪くない。これが航の願いでもあったんだから」

 僕の願い? こうして首筋を打ちつけられて気絶することが?

「でも……こんなこと、私……取り返しのつかないことを……!」

 半ば叫ぶようにそう言って、何度も何度も首を振る渡瀬。

「なにも死んでしまったわけじゃないんだ。そこまで思いつめることはない」

 それでも渡瀬はかぶりを振る。涙が宙に飛び散り、地面に落ちる。

「そうかもしれない。……けれど、これからやろうとしていることは、航のこれまでの人生を殺してしまうようなものだわ……。私、そんなこと……」

 泣きじゃくる渡瀬。春人は渡瀬の肩を持つと強く揺さぶった。

「それでも、たとえ航の過去を殺してしまうことになったとしても、伊吹、お前はやらなくてはいけないんだ。それがこいつの望みなんだよ!」

 声を張り上げた春人の目には涙が溜まっていた。

 そのまましばらく二人は声を発しなかったが、やがて渡瀬がおもむろに立ち上がった。

「私、やるわ」

 自分で発した言葉に力強く頷くと、渡瀬は倒れている『僕』に近づいていく。

 そうして、『僕』の顔の横に腰を下ろすと、そっとその頭を持ち上げた。

「ごめんなさい……そして、ありがとう……」

 そう言って渡瀬が、『僕』の額に手を当てた瞬間――世界が真っ白な光に包まれた。


 目を開けると、両手に温かさを感じた。左はロゼ、右には春人がいる。そして向かいには涙を流している渡瀬。

 そうだ。僕らはロゼに過去を視せられていたんだ。ということは、今視た光景が一年前の三月三十一日、僕の身に起こったことなのか。渡瀬は僕を気絶させた後、あの場で僕の記憶を操作したのだろう。異世界の存在を消し、僕が生まれたときからこの世界の住人であるとの偽の記憶を植え付けた。

 僕たちは手を繋いだまま、しばらくそれぞれ考えに耽っていたが、やがてロゼが手を離した。

「まさか、ワタルが自らの記憶を消したいと願っていたとはね……」

 その呟きに僕は殊勝に頷く。

「そうだな。あの光景のなかでの春人と渡瀬の会話を聞く限り、そうとしか考えられない。ただ、一つ妙な点がある」

「妙な点?」

 こちらを向いたロゼに、僕は大きく頷いてみせる。

「もし僕が自分の記憶を消してほしいと願っていたとするならば、どうして渡瀬は僕を気絶させた? 僕に反抗する意思などないはずだろ」

 あ、とロゼは声を漏らした。僕は少し声を押し殺す。

「それに、だ。僕の首筋に叩き込まれたあの座板。渡瀬はブランコを少しいじっただけですぐにそれは鎖から外れた。いくら老朽化が進んだ代物であったとしても、あんな短時間で取り外せるわけがない。と、いうことはだ」

「予め、取り外しやすいように細工を施していた」

 ロゼが僕の言葉を引き取った。僕は一つ頷くと、押し黙ったままの残りの二人に水を向ける。

「なあ、渡瀬、春人。教えてくれ。どうして僕を殴ったりしたんだ。記憶を失わせるだけならそんなことする必要はないじゃないか」

 二人はしばらくの間、下を向いたまま何も言葉を発しなかった。夜の帳が下り、冷たい風が吹きつける。沈黙に耐えかねて、僕が問い質そうとしたとき、

「あの日」

 渡瀬がおもむろに切り出した。

「私は航に呼ばれて、この公園に赴いた。呼ばれた理由には見当がついていた」

 渡瀬は昔を思い出すように宙を見上げると言葉を続けた。

「以前から、私たちはあることについて話し合ってきた。そのあることとは、お互いのこれまでの記憶を消去して一からこの世界で生きていくということ。私たちはこの世界にやってきてから、本当に楽しい日々を送ってきたわ。もちろん、もといた世界が楽しくなかったわけではなかったけれど、この世界での暮らしは別格だった。何しろ、この世界での私は自由気ままに生活を送ることができた。もといた世界では、並行者というだけで学校中の注目を集めて、私は一挙手一投足に気を配らなければならなかったの。でも、この世界に来てからは違った。誰も私の言動に気を留めることもない。私は世間一般のごく普通の学生として生活を送ることができていた。それがどんなに幸せなことか。航も私と同じ思いを抱いていた。その思いが大きくなっていくうちに、私たちは次第にこう考えるようになってきたの」

 一拍置いて、渡瀬は言った。

「初めからこの世界の住人だったらよかったのに、と。並行者というレッテルに縛られることなくただの学生として生活を送りたいという思いが強くなってきた。そんな折に航が提案してきたの。

『伊吹の力で僕たち二人の記憶を書き換えて、どこか遠いところで一から暮らさないか』って。中学を卒業した後、春休みにお互いの記憶を消す。そして、四月から高校生として新たな地で新たな生活を開始する。その航の提案は非常に魅力的なものではあったわ。

 でも、結局私は自らの記憶を消すことはできなかった。なぜなら」

 そこで言葉を切ると、渡瀬はその灰緑色の瞳を春人へ向けた。

「春人くんのことを忘れたくなかったから」

 見つめあう二人。僕は水を差すようで申し訳なかったが、一応確認のために訊いてみる。

「二人は付き合っているのか?」

 渡瀬と春人は同時にゆっくりと頷く。

「いつから?」

「中学三年の九月頃だったと思う。俺が告白したんだ」

 春人が答えた。

「僕は二人が付き合っていたことを知っていたのか?」

「いいえ。というより、誰も知らなかったと思う」

 今度は渡瀬が答えた。

「どうして隠す必要があった? 別に言っても問題はないだろうに」

 渡瀬は返答に詰まっている。それを見兼ねたのかロゼが口を開いた。

「イブキは隠さなければならなかったんだよ。異世界の異性と恋愛関係になることは固く禁じられているからね」

 付き合うことが禁じられている? 深い関係になることで何かまずいことでも起こるというのだろうか。僕が首を傾げていると、ロゼは渡瀬を一瞥して言った。

「そういう深い関係になると、自分が異世界からの来訪者だという秘密をその相手に漏らしてしまう恐れがあるからだよ。事実、イブキは波流春人にそのことを漏らしてしまったようだけどね」

 なるほど。確かに付き合った相手に対して秘密を抱えているということは苦しいことかもしれない。それに耐えかねて、渡瀬は春人に自分の秘密を教えてしまったのだろう。

 僕はロゼに訊ねる。

「その決まりを破ってしまったら、なにか罰則でもあるのか?」

 その問いにロゼはすぐには答えなかった。春人も気になるのか、ロゼをじっと見つめている。幾ばくかの逡巡の後、ロゼはおもむろに口を開いた。

「この世界の人間に秘密を漏らしてしまった者は、もといた世界に帰らなければならない」

 ロゼの答えは僕が予想していた罰よりもずっと軽いものだった。最悪の場合、命を取られるのではないかとまで考えていた。ほっと息を吐いた僕とは対照的に、春人は目を見開いたまま固まっている。

 ロゼはそんな僕たちの様子を見比べた後、こう言った。

「もしかしたら、先生たちもワタルの身に起きたこと、そしてその犯人がイブキだということに勘付いていたのかもしれない。それ故に、ボクは世界を渡る許可を与えられんだと思う。普通ならどんな理由があろうともそんな提案は却下されるんだけどね。

 だから、イブキ。ボクはキミを連れ戻さなければならない。もといた世界へ」

 渡瀬を見ると、彼女は悲しげな表情を浮かべている。そして、目頭を拭うと言った。

「いつかはこうなるだろうとは思っていたわ。だけれど、それはもう少し後になると思ってた。まさか、こんな早くばれてしまうなんてね」

 悲しげに微笑む渡瀬。ロゼは彼女に近寄ると、手をそっと握った。

「では、そろそろ行こうか」

 渡瀬はこくりと頷くと、ロゼとともに僕のわきを通り過ぎようとした。

 このまま何も言わずに行ってしまうのか。残された僕と春人はどうすればいいんだ。

 僕がそう思った次の瞬間、、

「待ってくれ!」

 春人が声を上げた。その声に反応して、渡瀬とロゼは歩みを止める。

「ど、どうしたんだい、波流春人?」

 ロゼが驚いた様子で声を掛ける。

 春人は大きく息を吸うと、至極真面目な顔つきで言った。

「俺も連れてってくれ」

 その言葉に渡瀬とロゼは大きく目を見開いた。

「俺をお前たちがもといた世界へ連れてってくれ」

 春人は繰り返し言った。渡瀬が戸惑いの含む声で言う。

「な、なに言ってるの春人くん! 冗談はよして。そんなの無理に決まってるじゃない」

「無理だなんて誰が決めた? この世界の人間が異なる世界に行けないなんて、誰か試したことでもあるのか?」

「そ、それは……」

 春人の反駁に渡瀬は口ごもってしまう。

 すると、黙って話を聞いていたロゼがにやりと笑った。

「波流春人。確かにキミの言うとおりだ。この世界で並行者になれる人間がいないと決まったわけじゃない」

「ちょっとロゼまで突然何を言い出すのよ!」

 言い募る渡瀬をロゼは片手で制した。

「波流春人の意見は聊か暴論が過ぎるかもしれない。だがよく考えてみなよ、イブキ。ボクたちにできて、並行世界の住人である彼にできないと言い切ることがはたしてできるだろうか? ボクには到底できないね。だったらやってみる価値はある。結果はどうなるかわからないけどね」

 そう言って、妖艶な笑みをこぼすロゼ。それでも渡瀬は納得できないようで、何度も何度も首を横に振っている。

「なあ、伊吹。聞いてくれ」

 春人が渡瀬の肩に手を置く。

「俺はお前のことが好きだ。どうしようもなく好きなんだ。もしお前がいなくなってしまったなら、俺は生きている意味を失ってしまう。俺の生き甲斐を失わないためにも、伊吹と一緒にいられる方法があるなら、たとえそれがどんなに低い確率でも試してみたい」

「春人くん……」

 そっと自分の頭を春人に預ける渡瀬。春人は彼女を優しく抱きしめる。

「だから伊吹、一緒に行かせてくれ」

 しかるべく後、渡瀬は春人の胸の中で小さく頷いた。

「私も春人くんと一緒にいたい……」

「伊吹……」

 うっとりと見つめあう二人。すると、ロゼが一つ咳をした。慌てて離れる渡瀬と春人。

「どうやら覚悟はできたようだね。だが波流春人、本当にいいのか? 下手をしたら、時空の狭間に迷い込んで帰ってこられなくなるかもしれない」

 ロゼの心配を春人は軽く笑い飛ばした。

「その時はその時さ」

「そうか。ならそろそろ行くとするか。ボクとイブキで道を作る。キミは遅れずについてきてくれればいい」

「わかった。エスコートよろしく頼むよ」

 そう言って春人はロゼの背中を軽く叩く。

 ロゼは苦笑すると、何故か僕の方に顔を向けた。

「ワタル、キミはどうする?」

「どうするって?」

「キミももとの世界に帰る気はないかと訊いてるんだ。キミなら波流春人みたいに生命の危険を冒すことなく戻ることができるんだが」

 三人の視線が僕に集まる。僕はあらかじめ決めていた答えを言うことにした。

「いや、僕は行かないよ。記憶を失った僕が行ったところで戸惑うだけだろうし。それに、記憶を失う前の僕はこの世界で生きていくことを選んだ。この優しい世界で生活を送ることがかつての『僕』の願いであり、そしてそれは、いまの僕の願いでもあるんだ。だから、僕は行かない」

 僕の答えを聞いたロゼは、ふふっ、と笑った。

「そうか。キミ自身が決めたことなら、ボクに口を挟む権利はない。それじゃ元気で。また会えることを願っているよ」

「ああ、元気でな」

 僕が別れの言葉を述べると、ロゼは艶美な笑みを浮かべながら僕のわきを通り過ぎていった。僕の前には渡瀬と春人が残る。

「お前たちも元気でな。仲良くやれよ」

「言われずともそうするさ。な、伊吹?」

 水を向けられた伊吹はこくりと頷く。そして、上目遣いで僕を見上げた。

「航、本当にごめんね。私、取り返しのつかないことを……」

 僕は大きくかぶりを振った。

「渡瀬は何も悪くないよ。あの日の春人も言っていたけれど、お前は、記憶を失う前の僕が望んでいたことをやったまでだ。気に病む必要はないさ」

「航……」

「そんなしおらしい顔するなよ。旅立つときは笑っていなくちゃ」

「……わかった」

 そう言うと、渡瀬は初めて明るい笑顔を見せた。僕もつられて笑顔になる。

「じゃあ二人とも達者でな」

「ああ、それじゃあな、航」

「元気でね、航」

 二人は手を繋いで僕のわきを通り過ぎていった。

 二人の足音が徐々に遠ざかっていく。

 僕は決して振り返ることはしなかった。振り返ったら、彼らを引き止めてしまいそうだったから。

 僕は二人の足音が聞こえなくなるまで、溢れ出る涙が零れ落ちないように、星が瞬く夜空を見上げていた。

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