第33話 動揺


 俺は目を開けるなり、ガバッと跳ね起きた。

 部屋は明るく、チュンチュンと言う鳥の音と、冬が間近の弱々しい朝日が差し込んでいる。



「ぐぅっっっ」



 強烈な吐き気が襲ってきて、たまらず俺は口元を手で押さえる。


 口に広がる鉄の匂いとどろっとした生暖かい血の感触。

 眼下に広がる母さんや愛利奈、里桜さんの赤く染まった姿。



「ぐぅッ……うえっ」



 込み上げてくる感覚があるが、胃がからっぽのため何も出て来なかった。

 喉が焼ける感覚があるものの、口から出るのはうめき声だけだ。



「はぁ……はぁ……はぁ」



 暴れていた胃が落ち着く頃、忘れてしまったかのように止まっていた呼吸をようやく始める。

 やっと頭が回り始める。


 クソッ……なんだあの夢は?


 床に這いつくばり、血を吐き次第に暗くなっていく俺の視界。最後は全てが止まる感覚があった。

 俺は、死んだのか……?


 震える手で、胸を押さえた。


 とくん、とくん、とくん。

 規則正しい鼓動が手のひらに伝わってくる。


 口の中はカラカラに乾いている。不快ではあるけど、鉄の味がするどろっとしたものよりよっぽどマシだ。


 ……俺は生きている。


 こんな時こそ、急いでベッドを出て茜色のノートに記さないといけない。

 でも、身体が激しく震え、身動きができない。

 ようやく、半身を起こしたところで、とたとたと階段を駆け上がる音がした。


 バン!


 大きな音がしてドアが開く。

 愛利奈だ。そして、もう一人、制服姿の女の子、里桜さんがいた。



「愛利奈ちゃん、どうしたの? 急に上がれって……って……先輩……?」



 里桜さんは俺に近づいて、俺の目尻を拭う。



「先輩……どうしたの……?

 顔色が悪いし、涙が……。大丈夫……大丈夫だから……」


「里桜さん……生きて……」


 呆然とした俺を、里桜さんはぎゅっと抱き締めた。

 胸元に、顔が引き寄せられる。


 とくん、とくんという里桜さんの心音を感じる。

 ……生きている。

 当たり前のことに俺の涙腺が緩む。



「里桜さん? 愛利奈?」


「ふう。まったく、しょうがないですわね、お兄さま。じゃあ里桜さま、わたくしは先に行っています。

 お兄さまは、無理なさらないで下さい」



 そういう愛利奈も、多少顔色が悪いように見えたが、その心配を払拭するように、柔らかな笑顔を俺に見せてくれた。



「愛利奈ちゃん?」


「……では、ご機嫌よう」



 そういって頭を下げ、愛利奈はドアを強く閉めた。まるで、追いかけるなと言うような意思を示すように。

 すぐにトントントントンという階段を下る音が聞こえる。


 追いかけるかどうか、ためらう里桜さんだったが、愛利奈の言葉に甘えることにしたようだ。



「先輩……」



 ベッドに座り、半身を起こした俺を抱き締めてくれる里桜さん。ああ……こうやって頭を撫でられるって……不思議だな。

 彼女の思いが伝わってくるようだ。



「里桜さん、ありがとう」


「いいえ……。落ち着きましたか?」



 不思議だ。誰かの胸に抱かれるというのは、こんなに気持ちが落ち着くのか。

 心に突き刺さった棘が一つ一つ、取り除かれていくような気がした。



「うん。ありがとう……里桜さん」


「あっ、は、はい」



 急に里桜さんは頬を赤らめ、ゆっくりと俺から離れた。


 立ち上がろうとしたが、膝が笑ってまともに歩くことができない。

 ダメだ。想像以上に、心がダメージを受けている。

 床に膝を付きそうになった俺を、慌てて里桜さんが抱き留めてくれる。



「ううー……先輩、今日は無理しない方がいいと思います」



 里桜さんに俺の体重がかかって、少し苦しそうだ。

 しっかりしなくては。


 確かに、今日学校に行くのは厳しいかもしれない。

 今までは間接的に死を知るだけの夢だった。

 でも、今回は目の前で母さんや愛利奈、そして里桜さんが刺され動かなくなっている……死んでいるのを目にしてしまった。


 その上、俺までもが命を落とす。


 その上、その上……俺たちを刺したのは赤城医師だ……。

 血に染まったナイフを持ち、俺にまだ息があると気づいて、最後のトドメを刺しに来た。

 俺は、そうやって命を落とした。


 どうして? 赤城医師はどうしたんだろう?

 俺たちには真摯に向き合い、里桜さんの主治医を務め手術も成功し、病気は治るのだ。


 それなのに、命を奪う。

 俺たちに何の恨みがあったのだろう?


 これから、俺の誕生日まで約一ヶ月。その間に、何かあったのか?

 それとも、最初から俺たちを殺そうとしていたのだろうか?


 分からない。

 分からない音が多すぎる。



「あの、先輩……?」



 里桜さんが眉を下げ、俺を気遣う。

 俺は足に力を入れ、一人で立った。



「ごめん、少し考え事をしていたよ……。もう大丈夫。今日は学校に行くよ」



 目の前の里桜さんに、愛利奈、母さん……そして、俺。

 みんなの命をなんとしても守らなくては。



「少し、顔色もよくなりましたね。でも無理しないで下さいよ?」


「うん。ありがとうね、里桜さん」


「じゃあ、ゆっくり学校に向かいましょう」


「ああ……でも……この調子だと遅刻するな。俺を置いてって——」


「ううん、一緒に行きます。先輩と一緒なら……遅刻してもいいです」



 俺の隣で微笑む里桜さんを殺させやしない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る