008:お亡くなりになりました

 トントントントン



 小気味の良い包丁の音を聞いて、俺は目を覚ました。

 どうやら制服のまま眠っていたらしい。


 ――って、ちょっと待て。何で自分のベッドで寝てるんだ?


 あれは夢だったのか?

 夢にしてはリアルすぎたのだが、腹を見ても傷一つついていなかった。


 どういうことなんだよ……。


 すると、味噌の良い香りが、俺の鼻腔をくすぐった。


 待て待て待て待て。

 俺の家で料理を作っている奴は誰なんだ。


 俺の両親は3年前に事故死してしまい、それ以降はこのマンションで生活しているのは俺一人だけだった。

 拒絶した親戚が来るわけがないし、美湖だってもう俺の家に来ることはないだろう。

 あれ? そういえば、あいつに渡した合鍵って返してもらってないよな。まぁ、今はそんなことはどうでもいい。


 取り敢えず不審者の可能性があるので、俺は物音を立てないようにリビングに向かう。



「うん。美味しいですね」



 キッチンから女の声が聞こえてきた。

 声には悪意を感じられず、どちらかと言うと良妻感のある優しい声をしている。

 いや、本当に意味が分からない……。


 我が家はアイランド型のキッチンになっているので、リビングに入るとあちらから俺は丸見えになってしまう。

 ひょっとしたら他にも誰かがいるのかも知れないと、別の部屋を覗いてみるも人の気配は一切感じることがなかった。


 この家にいるのは、料理を作ってる女性一人だけなのか?

 俺は意を決して、リビングに入ろうとしたのだが、壁に立て掛けられていた掃除機に気付かずに手で触れて倒してしまった。


 キッチンで料理を作っていた音が止まり、女性が俺の方へ向かっているのが足音で分かる。

 俺は相手が出てくるのを、廊下で身構え待つことにした。



「詩庵様……ですか?」



 謎の女性が俺の名前を呼ぶが、俺は律儀に返事なんてしない。

 むしろ名前を知ってるという事実が、俺の警戒心を最大級まで高める。

 俺は油断しないように、リビングの入り口を睨みつけた。


 しかし、その相手は拍子抜けするくらい無警戒に、ひょっこりと廊下に姿を現した。

 その態度と相手の見た目に俺は緊張を弛緩させてしまう。

 俺の目の前に現れたのは、真っ黒な着物を着た中学生くらいの女の子だったのだ。

 身長は低く、おかっぱのボブヘアが似合っていて、ぶっちゃけとても可愛らしかった。



「やはり、詩庵様でしたか。お目覚めになられて、この黒衣くろえとても安心しました」



 目に涙を浮かべたと思ったら、突然走り出して俺の胸を目掛けて抱き着いてきた。



「詩庵様。詩庵様、本当に良かったです……」


「ちょ、ちょっと待て。意味が分からない。お前は一体誰なんだ?」



 抱き着いてきた彼女のことを、俺は慌てて引き離すと、「むぅ〜」と言いながら頬を膨らませて睨んでくる。

 いや、これは睨むではない。伝説のジト目ってやつだ!


 実はすでにこの子への警戒心は、かなり薄れている。

 別に可愛いから、という訳ではない。

 ――まぁ、少しはそれも理由の一つではあるのだが。


 ひ、一先ずそれは置いといて、何故かこの子が他人とは思えないのだ。

 とはいえ、俺は正真正銘の一人っ子だ。遺産相続のときにちゃんとそれは証明されてるから間違いはない。



「頼むからとりあえず落ち着いてくれ。そして落ち着いたら何故この家にいるのか、そしてお前は誰なのかを教えてくれ」



 自分のことを黒衣と呼んだ女の子は、俺に抱きつくことが出来ずに軽く不貞腐れていたが、不承不承ながら同意してくれたようだった。



「お話をさせて頂く前に、朝食を準備しましたので、そちらを食べてからでもよろしいでしょうか?」



 黒衣……ちゃんは、キッチンへ向かって朝食の準備を再開し始める。

 それにしても、何で我が家のキッチン事情を知り尽くしてるのだろうか。

 謎は増すばかりだよ……。


 って、あれ?

 こんなにゆっくりしちゃってるけど、今日って金曜日じゃないの?

 ってことは、普通に学校あるじゃん!


 俺は慌てて自分の部屋に戻って学校の準備を始めると、黒衣が不思議そうな顔をして俺の部屋に入ってきた。



「本日は土曜日ですので、学校はございませんよ、詩庵様」


「は? だって昨日は木曜日だったんだぞ? つまり、今日は金曜日で間違ってないだろ」


「いえ、詩庵様は昨日一日中寝てらしたので、本日は土曜日で間違いございません」



 あー、そっかぁ。

 俺は昨日一日中寝てたんだぁ。

 じゃあ、大丈夫。何の問題もないな!

 って大アリだよ!

 じゃあ、俺は昨日学校をサボったってこと?

 まぁ、百歩譲ってサボりは別にいいよ。

 別に成績さえ落ちなければ、何も言われることは無いだろうし。



『ひょっとしてやっと自分が無能だって思われてることに気づいたのかな?』


『身の程を知って自分に出来ることを頑張った方が健全だと思うよ』



 木曜日にクラスメイトに言われた言葉を思い出して、俺は頭を抱えて悶絶してしまう。



「うわぁ! あいつらに言われたダメージで落ち込んでる風になっちまったじゃねぇかぁ!」


「あの身の程知らずたちの言葉ですね。もし、詩庵様がお許し下さるのでしたら、今すぐに彼奴らの元に行き、生まれてきたことを後悔させてご覧に入れましょう」



 ちょ、黒衣さんや!

 目がヤバイことになってるよ!

 スッと目を細めながら、薄らと笑みを浮かべている黒衣ちゃんとても怖い……。

 つか、なんで黒衣ちゃんが学校での出来事を知ってるの?



「お、俺は大丈夫だから。落ち着けって……ほら、せっかく黒衣ちゃんが作ってくれたご飯があるんだし、食べに行こうぜ! うわぁ、黒衣ちゃんのご飯楽しみだなぁ」



 わざとらしく話題を逸らしてみたが、それが功を奏したのか、パァっと明るい顔になった黒衣ちゃんが、俺の手を引いてリビングへ連れていく。



「あっ、私のことは黒衣と呼び捨てて下さい。ちゃんという敬称は少々むず痒くて……」



 俺の目を見ながらお願いしてくる黒衣ちゃんは、頬が薄らと赤くなっていてとても尊かった。



「わ、分かった。じゃあ、黒衣も俺の事を様を付けて呼ぶのは止めてもらえるかな?」


「いえ、それは出来ません」



 うわっ、きっぱり断られた……。

 俺は「そんなこと言わずに……」と食い下がるも、「出来かねます」と言われ続けてしまい、不承不承ながら今のままで良いと言うと、「ありがとうございます」と可愛らしい笑顔を見せてくれた。




 ―




「じゃあ、話を聞かせてくれるか?」



 黒衣が作ってくれた朝食を食べ終えた俺たちは、ダイニングテチェアに座りながらお茶を啜っている。


 それにしても、黒衣の作った朝食は本当に美味しかった……。家でお米をお代わりしたのなんて、母さんがいなくなってから初めてのことだよ。



「はい。恐らく詩庵様にとって、辛い事実をお伝えすることになります。気をしっかりと持ってお聞き下さい」



 真剣な顔をして黒衣は俺を見つめてくる。

 うん。可愛い。



「――あぁ、分かった」


「詩庵様は木曜日に起きた出来事を覚えていらっしゃるでしょうか?」


「いや……覚えてるって何をだ?」


「夜の明けることのない森の中を彷徨い、異形の者に襲われたことでございます」


「ちょ、待ってくれ。あれは俺の夢だったんだろ? そうじゃないとおかしいじゃないか。俺は何日もあそこで過ごしたんだ。しかも、あいつに何度も……」



 鋭利な杭のような腕が、俺の腹に何度も突き刺さる感触を思い出して、身体を震わせてしまう。


 するとテーブルの上に置いた俺の手をそっと包むようにして、黒衣は手を合わせてきた。



「大丈夫です。ここには詩庵様を傷付ける者はおりません。ご安心ください」



 見た目中学生の黒衣に励まされるのはちょっと情けない気もしたけど、優しい声は俺の心に直接届いて俺の恐怖は振り払われた。



「ありがとう、黒衣。もう大丈夫だよ」


「それは良かったです。では、あのときのことをお話させて頂きます」



 黒衣は俺の手を握ったままだった。

 俺も黒衣の手を振り解こうとはしない。

 不思議なんだけど、黒衣に手を触れられてるだけで、なんかとても落ち着いてくるのだ。

 黒衣ってひょっとしたら、ママなのかな……。



「結論から申しますと、あの出来事は夢などではなく現実に起きたことです。そして、詩庵様は魂を喪失して一度お亡くなりになりました」



 え?

 俺が一度死んだって?

 けど、今普通に生きている。

 って思ってるのは実は俺だけで、幽霊みたいな存在ってことなの?


 黒衣に落ち着かせてもらった俺の心は、黒衣の言葉によりまたザワつき始めてしまうのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る