ホットミルクを飲む間だけでも

天宮さくら

ホットミルクを飲む間だけでも

 俺が務める老人ホームでは午後にレクリエーションをする。歌、手遊び、しりとり、ちょっとした体操。たわいもないレクリエーションばかりだが、それでもお年を召した人には重労働だ。たった数時間、体や脳を使う作業に参加するだけで、誰もがぐったりと疲れてしまう。だからレクリエーションが終わった後には喫茶タイムを設けていた。それぞれが飲みたいものを職員が用意し、それを飲みつつ歓談する。全部終わっての一服は誰もが達成感を抱ける一時だった。

 それもコロナで一変した。他人と対面で会話してはいけないというお達しに施設長は万が一を考え、レクリエーション時間を中止した。ひと月かふた月すれば元に戻ると思っての一時的な対策だった。しかし、それが甘い見通しだったことに後々気付く。

 ひと月ふた月経ってもコロナはまるで終息する気配を見せず、気がつけば半年以上経っていた。

 このままずっとレクリエーションを行わないでいるのか、と職員たちが疑問に思う前に、入所している老人たちから苦情の声が上がり始めた。彼らからしたらコロナで死ぬよりも一時の楽しみを奪われる方が苦痛だったのだ。

 施設長は入居者の声を聞き、感染対策をしてレクリエーションを復活させようと提案した。国は対面での会話や食事を禁止したが、要は感染しなければよいのだ。それさえ防げれば問題ない。

 施設長が職員全員にマスクとフェイスシールドを行き渡らせたのはそんな時期だった。

 マスクもフェイスシールドも邪魔くさいものだったが、これでコロナ禍以前の生活が再開できる。そう考えてみんな積極的に身につけた。

 しかし、ここで予想外の事態が発生した。マスクとフェイスシールドがあると老人たちは職員とうまくコミュニケーションを取ることができなかったのだ。彼らが今まで職員の言葉を聞き取ることができていたのは声の情報だけではない、相手の仕草、表情、口の動き。それらを総合して言葉を理解していたのだ。だからそれを覆い隠すものを身につけたら、相手の伝えたい内容がわからなくなる。当然の帰結だろう。

 それでも開始したばかりのレクリエーションを止めるわけにはいかない。入居者たちはレクリエーションを通じて退屈な日常をほんの少し忘れられる。このひと時を心待ちにしていたのだ。それを、コミュニケーションが取れないからといって再び中止するとなれば、彼らは施設職員を許さないだろう。彼らはお金を払って施設に入っているお客さんなのだ。入居者が多少の暴言や暴力を職員に振るうことは暗黙の内に許されている。ボケたふりをすれば尚更だ。そのことを彼らはよく知っている。

 だから俺たちは相手が理解していようといなかろうとレクリエーションを行わなければならなかった。

 そして、レクリエーション後のお茶を楽しむ時間・喫茶タイムもまた、レクリエーション復活と共に再開した。



 俺はレクリエーションが終わった後の閑散とした部屋で一人、ホットミルクを作っていた。ホットミルクといっても、耐熱のマグカップに牛乳を注ぎ、電子レンジでほんの少しだけ温めただけの簡易のものだ。それでも冷蔵庫から出したばかりの冷たさよりは温めた分、味が優しく感じられる。俺は火傷しないように気をつけながらゆっくりとそれを飲んだ。

 レクリエーション後の喫茶タイムは現在なくなっている。コロナ対策で中止されたのだ。そのことに初め入居者たちは反発していたが、一年以上経った今ではもう諦めている。時代の流れに逆らい続けられるほど彼らは強くはない。

 ホットミルクを飲みながら俺は事実を再確認する。それは、俺は牛乳が好きではない、というものだ。牛乳を飲む行為はどんなに歳を重ねても好きにはなれない。小学生の時は飲み切るのに毎度苦労した。飲み終わった後、口の中に妙な生臭さが残り変にベタつく。それが気持ち悪い。それに、体調が悪ければお腹をくだすことも多々ある。大多数の人も同じ感想だろう。

 けれど、これが好きだと言って飲んでいた老人が一人いた。その人の名前は若林タツさん。享年七十八歳。年相応に少しボケていて、でも可愛らしいお婆さんだった。

「あ、島崎さん。ここで休憩されていたんですね」

 ぼんやりとしていると背後から木村さんに声をかけられた。俺はその声に仕方なしに振り返る。

 木村さんは三十代後半の女性。いつも乱れた長髪をいい加減に一つに括っている、どこか人生の諦めを感じる女性だ。彼女にとって入居者は観客ではなく道端の石なのだろう、と彼女の外見を見るたびに思う。そしてその観客に施設で働く俺たちも含まれる。

 木村さんはガサツな様子で俺の隣の椅子に座った。ぎぎ、と椅子を引く音に俺はほんの少しの苛立ちを感じる。

「休憩時間はここにいるんですか? いつもそっと消えるから不思議に思ってたんですよ」

 木村さんは俺の不快感に気づかず手に持ったコーヒーをぐいっと飲んだ。それを見て、この人はまるで男だな、と感じてしまう。

「………ここは、誰もいないですから」

 俺の回答に木村さんはガハハと笑った。

「島崎さんは一人が好きなんですね! 今時の若者って感じ!」

 その言葉にムッとする。俺という個人を世代に括られた不快感。そういう単純な区切りを俺は嫌うし、それは他人だって変わらないと思う。それなのに木村さんはそれに配慮しないで言葉にする。そのデリカシーのなさに心底、彼女を人として好きになれないと思った。

 俺が黙りこくっているのに木村さんは無頓着だ。一人勝手にペラペラと喋り続ける。俺はそれを無視して静かにホットミルクを飲んだ。

 そして若林タツさんの笑顔を思い出す。皺だらけの顔をくしゃくしゃにして嬉しそうに飲んでいたホットミルク。飲むたびに、美味しい、と喜んでいた。市販の牛乳を温めただけなのにそれを人生の幸福だと感じていた。彼女のことを思うと、ただ生きているというだけでもそんなに悪いことじゃないな、と思える。

「あ、ホットミルク飲んでるんだ」

 木村さんが俺の飲み物を指摘した。その無神経さに、俺は木村さんが嫌いなんだな、と思い至った。

「木村さんには関係ありません」

 俺は席を立った。それに合わせて木村さんが視線を俺に向けるけれど、それには応えない。彼女を視界に一切入れず、俺はカップを大切に持ってレクリエーションの部屋を出る。そして、一人になれる場所を探した。



 俺は今、入居者の一人、真庭さんのおむつを変えている。

 真庭さんは二十年以上車椅子生活を続けている女性だ。歳は九十を超える。長年椅子に座る生活を続けているせいか、腰が曲がり、体がとても小さくなっている。認知がかなり進んでおり、こちらの言葉が半分も通じない。いつも小さくうめいていて、おむつを変えるのをとても嫌がる。時には拳を握り締め暴れることもある。

 それでもおむつは定期的に変えなければならない。でないと肌がかぶれ、そこから病気を発症するかもしれない。それを防ぐためにも、どんなに抵抗されても交換する。俺は抵抗を示す真庭さんに対応しつつ、黙々と彼女のおむつを変える。変えながら若林タツさんのことを思い出していた。

 タツさんもまた真庭さんと変わらず足腰の弱い女性だった。生活の大半はベッドか車椅子。自力で歩行するのは困難だった。だから職員の俺たちは定期的に彼女のおむつを変えていた。

 タツさんは俺のような男性職員におむつを変えられるのを、いつも少し恥ずかしがっていた。ごめんなさい、と繰り返し言葉にしていた。でも抵抗はしなかった。

 真庭さんは俺が男だとはまるで認識していない。お股を堂々と開けっぴろげにする。そして嫌そうに手を振り上げるのだ。俺は無心でそれをウエットティッシュを使って拭き、流れ作業で新しいおむつをつける。その間、真庭さんは何も言わない。笑顔を見せないし、感謝もしない。ただ抵抗する。彼女にとっておむつ交換はなんてことない人生の一コマなのだ。

 そんな姿を見ると、俺は長生きする意義を見失う。

 俺が務める老人ホームでは入居者の三分の二がおむつの付け替えを必要としている。けれどそのほとんどが自力でおむつの履き替えができない。なので職員は朝、昼、夕方と決まった時間に入居者のおむつを点検し、必要あれば交換して回っている。もちろん、入居者の要望があればそれに関わらず交換する。

 歳を取ると羞恥心がなくなるのだな、と老人ホームに勤め始めてからすぐに気づいた。脳が退化するのだろう。自分の欲望に素直になり、他人との共存生活の価値を低下させる。食欲、睡眠欲が生存に不可欠な欲だとよくよく理解し、脳の指令に素直に従っている。それに振り回される人間の存在は、彼らの人生から排除される。

 だから、若林タツさんは最後まですごい人だったのだな、と感心する。彼女はどんなに歳を取っても羞恥心は無くさなかった。人を男と女、きちんと分けて認識できていた。相手が男なら自分の秘部を見せることに恥を感じ、女なら申し訳なさを抱いていた。

 とても良い人だったな、と思う。

 そんなことを考えながら真庭さんのおむつ交換を終え、俺は次の人のおむつを変えに部屋を出た。



 一人暮らしの自宅に戻ると、こんな生活が一生続くのかな、と絶望に包まれる。死が近くなりつつある年寄りが最後まで苦痛なく過ごす助けをする。それは悪いことじゃない。社会的意義のあることだろう。けれど、これが一生だと思うと気が滅入って仕方なかった。

 この感情は先月別れた彼女も影響していると思う。

 コロナが蔓延した後、老人ホームに勤めるスタッフ全員、部外者との接触を極力控えるように本社から通達が来た。入居者一人でも罹患すれば、そこから蔓延して何人死ぬかわかったものではない。そうなればホームの管理不備で入居者の家族から訴えられる恐れもある。それを警戒しての通達なのは、誰もがなんとなく察していた。

 だから俺は彼女と会うことを控えていた。きっと数ヶ月我慢すればそのうち収まる。そうなれば前みたいにデートに出かけよう。温泉に行ってもいい。そんなことを電話で話して会えない寂しさを誤魔化した。

 けれど、コロナは予想に反していつまで経っても終息しなかった。ひと月が過ぎふた月が過ぎる頃、これはやばいかもしれないと感じ始めた。気がついたら半年が経っていて、会えない期間が一年を過ぎた時、彼女から別れを切り出された。

 ───仕事と私、どっちが大切なの。

 恋愛ドラマで使い古された言葉が彼女の口から出た時、随分と悪い冗談だなとしか思えなかった。

 仕事は生きていくために必要だし、彼女と過ごす時間は俺の人生に潤いを与えてくれる。その二つは天秤にかけられるものではない。どちらも俺には必要な事だ。けれど彼女にはそれがわからない。選択肢は仕事か彼女。それしかなかった。

 俺はコロナに罹患した場合のデメリットを必死に説明した。俺から入居者に感染したら多くの死者が出る恐れがある。そうなればホームの運営そのものが難しくなるだろう。それで経営が悪化すればクビを言われるかもしれない。その危険を考えたら会えないのは仕方のないことなのだと、懇切丁寧に説明した。

 けれど彼女は理解できなかった。何度も繰り返し説得を試みたけれど、まるで響かない。最終的に俺は疲れ切り、別れを受け入れた。

 コロナなんてなければ、と何度も思った。苛立ちと絶望が収まらなかった。夜中に何度も絶叫しそうになった。けれどその気持ちに蓋をして抑え込み、自分の感情をコントロールした。

 そんなことをぼんやりと思い出しているうちに暴れ出したい気持ちが湧き上がる。それを少しでも緩和させたくて、俺は冷蔵庫から牛乳を取り出した。ホットミルクを作るのだ。

 電子レンジで牛乳を温めている間、若林タツさんの言葉を思い出す。

『牛乳はね、体にいいんだよ。あと心にもいいんだ。美味しいねぇ』

 カルシウムが豊富に含まれているからそう考えたのだろうな、と思う。けれど、今はタツさんの言葉を信じている自分がいる。ホットミルクを飲むと、どこか心が和らいだ。飲み終わった後口が牛乳臭くて嫌な気持ちになるけれど、でも心は不思議と落ち着くのだ。

「どうして死んじゃったのかな、タツさん」

 俺はホットミルクを飲みながら呟いた。



 本社からは施設職員がコロナに罹患することは絶対に防ぐように、としつこく何度も通達が来ていた。そのことで施設長は苛立っていたけれど、俺は経営のことを考えれば仕方のないことだと諦めていた。どこの企業もコロナに振り回されギスギスしていた。外を出歩くのは罪深いことのように思えたし、外食は犯罪行為のように扱われた。

 そんな中、木村さんの姪っ子さんがコロナに罹患したと連絡があった。木村さんは実家住まい。姪っ子というのはお姉さんの娘さんで、住まいは別々だった。けれどコロナが広まったことで、どこにも外出できない娘を哀れに思った木村さんのお姉さんが実家に姪っ子さんを連れて帰った。姪っ子さんがコロナに罹患していると判明したのは、遊びに来た日の翌々日だった。

 この連絡に施設内はパニックになった。木村さんが連絡を寄越したのは、姪っ子さんの罹患が判明してすぐだった。けれど、姪っ子さんが実家に遊びに来た日以降に彼女は出勤し、夜勤勤務をしていた。夜勤は人手が足りないから一人で大勢の老人と触れ合う。食事の配膳、会話の相手、おむつの臨時交換。それらの作業をすべて行う。

 濃厚接触者に該当する入居者は誰なのか。それを数えるのが恐ろかった。

 幸いにも木村さん本人に自覚症状はなかったし、勤務中はマスクもフェイスシールドも装着していた。姪っ子さんも罹患はしたが発症はしなかったそうだ。だから大丈夫。そう信じたかった。

 けれどその件があった翌日の早朝。若林タツさんが原因不明の高熱を出した。急に呼吸状態が悪化し、救急車で病院に運ばれた。運ばれたけれど、どの病院も「もしかしたらコロナではないのか」という警戒をしていて、なかなか受け入れ先が決まらなかった。なんとか受け入れ先が見つかって運び込まれたのが昼過ぎ。けれど今度は病床が決まらない。長時間病院の廊下で待たされ続け、その間にもタツさんがどんどんと弱っていくのが付き添いでずっと側にいた俺にはわかった。

 検査をしてコロナは陰性だと判明し、ようやく病室に運び込まれた時には夜になっていた。

 若林タツさんの息子さんには施設長が連絡した。急な発熱、呼吸困難、けれどコロナは陰性であった。その事実を感情を抑えつつ丁寧に伝えた。息子さんもまた冷静に対応してくれたらしい。連絡を聞いてすぐに病院に行ってくれたそうだ。

 医者の診断名は肺炎だった。肺炎だが、コロナとは違う。一般的なものだと判断された。そのことに施設職員全員が胸を撫で下ろした。

 けれどその肺炎で若林タツさんはお亡くなりになられた。



 どうして若林タツさんが肺炎になったのか。本社から説明を求められた。この質問にはさすがの施設長もキレた。入居者が病気になる理由をどうしてこちらが解明しなくてはならないのか、その理由がわからない、と言っていた。

 これがコロナに罹患したというのなら話はわかる。けれどタツさんはコロナではない、肺炎だったのだ。これはタツさん自身の問題であって施設の問題ではない。

 けれど本社はそこを理解してくれなかった。何かしら感染の危険ある行動をしていたのではないかと何度も責められ、施設長は渋々ながら日常業務を総点検した。

 その時、レクリエーション後の喫茶タイムが問題に挙げられた。タツさんが肺炎になるまでレクリエーション後の喫茶タイムは継続していたのだ。それは入居者からの要望でもあったし、働く俺たちの希望でもあった。喫茶タイムはちょっとした休憩時間でもあったのだ。だから、これだけはやり続けよう、と職員全員で決めていた。

 タツさんの死でその方向性は変更された。

 喫茶タイムはみんながマスクを外し会話をする、飛沫感染の危険が高い時間である。感染を防ぐためにはこの時間は無くした方がいい。施設長は疲れきった表情で職員に説明し、俺たちはそれを受け入れざるを得なかった。

 喫茶タイム用に準備していたインスタントコーヒーなどは職員専用の休憩室にすべて運ばれた。使わないからと言って廃棄するのは資源の無駄だと判断されたのだ。休憩室で無駄なく消費するよう本社から指示が出た。施設長は素直にそれに従った。

 その中に、若林タツさん専用の牛乳が一本あった。ホットミルクを飲んでいたのは彼女だけだったので、彼女専用の牛乳を毎回用意していたのだ。賞味期限の近いそれを他の職員は捨ててしまおうと提案した。

「俺、飲みますから」

 捨てようとする職員を止め、俺が引き取った。牛乳はたいして好きではないけれど、捨ててしまうのが惜しかった。可愛らしく笑い、恥じらいを忘れなかった若林タツさん。彼女の思い出をあっさりと手放すのが、少し躊躇われた。

 引き取った牛乳で俺はタツさんに淹れてあげるのと同じ手順でホットミルクを作り、休憩室で少しずつ牛乳を消費した。その度に、コロナが憎くて心が痛んだ。



 夜勤休憩中、俺はホットミルクを作っていた。本当は眠気覚ましにコーヒーでも飲んだ方が良いのだろうけれど、最近はカフェインを摂取するのがなんとなく嫌になっていた。それに、冷蔵庫にストックしている牛乳を早めに処理しておきたかった。

 電子レンジ前で完成を待っていると施設長が休憩室に入ってきた。六十近い大柄な男性の施設長はコロナが蔓延してからはいつも困った表情をしている。

 その表情を見て俺は話の内容の予想がついた。だから施設長が話し出すまで、じっと静かにしていた。

「島崎さん、ちょっといいかな?」

 施設長がそう言って休憩室の椅子に座る。その動作で椅子が軋んだ。ダメだと言っても席を立とうとはしないだろう、と思い返事はしない。俺が何も言わないでいると施設長は勝手に話を始めた。

「本当にうち、辞めるの?」

 その確認に俺は素直に頷いた。

 俺は来月いっぱいでこの職場を離れる。前々からコロナで精神的な疲労が蓄積されていた。そこにタツさんの死、彼女との別れ話が続き、なんだか人生に疲れてしまった。

 誰かを必死に介護することも、誰かの命を守ろうと努力することも、誰かの死を悼むことも、どうでもよくなった。こちらがどんなに努力を重ねても、それを批判してくる人がいる現状に嫌気がさしたのだ。

 施設長は俺の気持ちをわかってくれている。けれど、それでも引き止めたいのだ。介護施設は万年人手不足だし、人の入れ替わりも激しい。少しでも長くいてほしいと思うのは仕方のないことだと思う。だからこうして二人で話が出来る時間を見つけると、俺を必死に引き止めようとしてくる。

 けれど、決意は変わらない。

「申し訳ないのですが、来月で辞めます」

「辞めてどうするの? 次の仕事が見つかるまでの間だけでもさ、もう少し働かない?」

 その提案に首を横に振って応えた。就職活動をすれば嫌でも他人と接触する。そうなれば次はいつ俺がコロナに罹患するか、わかったもんじゃない。そんな危険は犯したくなかった。

 ───若林タツさんの時のような混乱は、もう二度とごめんだ。

 俺の返答に施設長は残念そうに天井を見て、そうか、と呟いた。そのタイミングで電子レンジが完成の音を鳴らした。それを聞いて施設長が小さく息を吐く。

「わかった。でも、気が変わったら早めに教えてね。島崎さんは仕事ができる人だから、いつ戻ってきても構わないんだから」

 そう言って施設長は休憩室から出て行った。俺は電子レンジからホットミルクを取り出し、椅子に腰掛けた。椅子は施設長が座った時と同じように、ぎし、と音を立てた。

 ゆっくりとホットミルクを口に含む。少し温めすぎたせいか、舌を火傷しそうになる。慌てて何度か息を吹きかけ、そして少しずつ飲んだ。

 飲みながら、ここで働いた日々のことを回想する。たいした思い出はないけれど、仕事内容が嫌だったわけではない。ただ疲れた。それだけが理由だった。

 ───ゆっくりと、何も考えずに休みたい。

 そう願う。コロナという病原菌のことも、施設に入所している老人のことも、本社の言い分も、若林タツさんのことも、自分のこれからの人生のこともなにもかも。とにかく考えないでいられる環境が欲しかった。

 せめてこのホットミルクを飲み干すまでの間だけでも、それが欲しかった。

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