28.なぜ感情を殺して、我慢してきたのか

「「お帰りなさいませ、旦那様、お嬢様」」


 使用人が一斉に頭を下げる。さきに馬車を降りたお父様がエスコートの手を伸ばすが、その隣から伯父様が指先を攫った。


「兄上! 私の娘だぞ」


「残念だが、騎士として姫のエスコート役は譲りかねる」


 くすっと笑ってしまう。お父様も伯父様も、子どもみたいだわ。笑った私が顔を上げると、腰に弟をくっつけたお母様と目が合った。お母様は笑顔なのに、頬に涙が伝う。釣られたように、私の頬も涙で濡れた。悲しいのではなく、ただ懐かしくて胸が詰まるの。


「お、母様……ただいま、戻りました」


「お帰りなさい、ルーナ」


 照れたようにスカートの陰から顔を見せる弟ダヴィードが、小さな声で「お姉さま」と呼ぶ。その響きに涙が止まらなくなった。ああ、今気づいたわ。私は帰りたかったの。優しい王妃様がいても、弟のように可愛がるパトリツィオ王子殿下が慕ってくれても。私は家族に会いたかった。


 伯父様のエスコートも、お父様の手もすり抜けて、私はお母様に駆け寄る。幼い子どものように抱き着いて、声を上げて泣いた。こんなこと淑女の行動じゃないわ。叱られてしまう。そう怯える反面、ひどく安心していた。


 執事も侍女長も、昔と同じ。お父様とお母様、アロルド伯父様……弟のダヴィード。誰も変わっていない。ここでなら、泣いてもいいの? 大きな声を出しても、笑っても許されるかしら。みっともない、はしたないと叱られたりしない? もう人の顔色を窺って生きるのは疲れたわ。


 膝から崩れた私を支えたのは、意外にも逞しく育った弟だった。真っ赤になった顔や耳、鼻がみっともないと思うより早く、ダヴィードは私に向けて笑った。


「お帰りなさい、お姉さま。僕はいい子で待ってました」


 その言葉に、記憶が刺激される。そうよ、あの日……馬車に乗り込む私は、泣きながら縋る幼いダヴィードにこう言ったの。いい子に待っていたら、すぐに帰ってくるわ。実際にはすぐ帰って来られなかったけれど、待っていたと聞いて嬉しくなった。


「あり、がとう。遅くなって、ごめんなさいね」


 なぜあんなに感情を殺して生きてきたのか。何もかも諦めて手を伸ばさず、我慢できたのでしょうか。一度堰を切った感情は溢れて止まらず、私を内側から苛みます。もっと開放しろと苦しいほどに叫ぶ心を抑えるように、胸元を手で覆いました。


 己を抱き締める仕草の私を、お父様と伯父様が立たせてくれます。そのまま抱き上げようとした伯父様に、お父様が抗議しました。


「ここは父親である私の番だろう」


「何を言う。お前は姫の膝枕を堪能したではないか」


 あ……伯父様ったら、話してしまったわ。びっくりして固まった隙に、お父様が伯父様の腕から私を奪い返しました。重いから下ろしてくれるよう願うけれど、軽いからと流されてしまいます。お母様が微笑み、弟のダヴィードが伸ばした手を握り……家族に囲まれて玄関に入りました。


 涙で化粧は崩れて、髪も乱れてしまったけれど――ただいま、私の懐かしい思い出が集う屋敷。今日からまた私の家になるのね。やっと帰った、という実感がじわじわと胸に押し寄せる。気負っていた何かが体から抜けていき、私はようやく心の底から深呼吸した。

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