第11話 小さな異変



 夕暮れの住宅街を走り抜けていると、早くも明かりを灯している家がちらほらとあって、義経の気を焦らせる。


「まいったなー。早く帰らないと、頼朝兄さんがパニック発作起こしちゃうよ」


 国語の抜き打ちテストで0点を取って、居残りで帰宅が遅れてしまった。この時間だと範頼の方が先に帰っているかもしれない。うまく心配性の兄を抑えてくれていればよいのだが。

 そんなことを考えていた義経の耳に、耳障りなサイレンが飛び込んできた。


「火事?」


 特徴のあるサイレンはすぐ近くから聞こえてくる。よく見れば行く手の空がうっすら紅くなっている。義経は顔をしかめた。野次馬でごった返していたり通行止になっていたりしたら、余計に帰宅が遅れてしまう。

 なんだってこんな時にと思いながら角を曲がると、案の定人集りが出来ていた。燃えているのはアパートの一室のようで、煙がもうもうと上がっている。

 だが、消火活動は最終局面に入っているようで、火の勢いは然程でもない。野次馬の中には帰り始めている者もいる。

 それを横目で見ながら通り過ぎようとした義経だったが、人集りの中に見覚えのある背中を見つけて足を止めた。


「範兄ちゃん?」


 こちらに背を向けて立っているのは間違いなく範頼だ。彼も帰宅途中だったのだろう。

 義経は内心喜んだ。たとえ頼朝が発作をおこしていたとしても、愛する弟が二人揃って帰宅すれば機嫌も直りやすいに違いない。


「範兄ちゃん!」


 声をかけて駆け寄るが、範頼はこちらに背を向けたまま振り向きもしない。

 義経は首を傾げた。範頼はあまり野次馬とかをする性格ではないはずなのだが、自分の呼びかけにも反応しないほど、何に気を取られているのだろう。


「範兄ちゃんてば!」


 早く帰ろう、と言おうと顔を覗き込んだ義経は、範頼の表情を見てぎくりとした。


 範頼の視線はまっすぐ火事の現場に向いていた。既に火は消えたらしく、放水は止み消防隊員が後始末に入っている。野次馬どももばらばらと自分の家へ帰っていく。

 だが、範頼はその場に立ち尽くしたまま動かない。視線を前に向けたまま、でもその目には何も映っていない。


「範兄ちゃん? どうしたの?」


 肩を掴んで揺さぶってみるが、ガクガクと力なく揺れ動くだけで意識は戻ってこない。義経はどうすればいいのかわからなかった。こんなことは初めてだ。


(もしかしたら、具合が悪いのかもしれない……どうしよう……)


 こういう時には携帯を持っていないことが悔やまれる。走って帰って頼朝を呼んでこようかと思うが、こんな状態の範頼を放っておくわけにもいかない。


(そうだ。範兄ちゃんの携帯で……)


 大学生の範頼は携帯を所持している。義経は茫然自失の体の範頼の鞄を勝手に開けて携帯を探そうとした。

 だがその時、突然後ろから伸びてきた手が、範頼の両目を覆った。


「頼朝兄さん?」


 驚いて振り返った義経だが、いつの間にか背後に立っていた頼朝の表情を見てごくりと息を飲んだ。

 その怜悧な美貌に、これまで見たことがないような厳しい表情が浮かんでいた。

 頼朝は片手で範頼の目を覆ったまま、耳元に口を近づけて何事か囁いた。

 すると、一瞬範頼の体がビクンッと震えた。次いで、範頼の体は力を失い、膝から崩れ落ちそうになった。それを頼朝が支える。

 ハラハラしながら見守る義経の前で、頼朝に支えられた範頼が、ふっと意識を取り戻した。


「あ……あれ? え……?」

「範兄ちゃん?」

「義経? え……なんだ? あれ、兄さんまで」


 範頼の意識が戻ったのを見て、頼朝が目を覆っていた手を外す。現れた範頼の目は、いつもの輝きを取り戻していた。

 その目をぱちぱち瞬かせながら、頼朝と義経を見て首を傾げる。


「あれ? 俺、確か家に帰っている途中で……火事だ、火事があって……」

「まったく、お前達!」


 範頼の呟きを遮って、頼朝が怒鳴った。


「もっと早く帰ってこなきゃ駄目だろう! 兄さんは寂しいと死んじゃうんだぞ!」


 そう言うと、頼朝は二人の肩を抱いて「帰るぞ」と促した。


「え? え?」

「兄さん?」

「ほら、帰るぞ! 子供は家の中にいなきゃいけない時間だ」


 戸惑う二人を他所に、頼朝はぐいぐい背中を押してくる。義経と範頼は顔を見合わせた。

 何がなんだかわからないが、頼朝の態度がいつも通りなので気が抜ける。


(なんだったんだろう?)


 先程の範頼は明らかに様子が変だった。


(でも、頼朝兄さんが何も言わないなら、たいしたことじゃないんだよね?)


 もし何か大変なことだったら、必要以上に心配性の頼朝が平静でいるはずがない。義経が心配で小学校の遠足を尾行したり、受験勉強をする範頼のために近所の暴走族とついでにそのバックの暴力団をたった一人で壊滅させてしまうような男なのだ、頼朝は。


「そうだね。早く帰ろう」


 同じことを考えたのか、範頼もそう言ってはにかんだ。なんだかんだ言っても、二人にとって頼朝はこの世で一番信頼できる相手なのだ。


「うん。帰ろう!」


 義経もにっこり笑って家の方角へ歩き出した。


 その後ろで、頼朝がほんの一瞬、不穏な表情を浮かべたことに、義経も範頼も気づかなかった。


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