38 《気》の色が見えません……っ!

「こ、珖璉様の《気》の色が見えません……っ!」


 震える声で告げた途端、珖璉の面輪が凍りついた。


「これは見えるか?」


 「《縛蟲ばくちゅう》」と、珖璉が細長い紐のような蟲を喚び出す。喚び出された《縛蟲》が戯れるように珖璉の腕に絡みつく。


「む、蟲は見えます。けど……っ」


 いつもなら蟲の周りに召喚した術師の《気》が見えるのに、蟲の姿しか見えない。


「《気》が見えません……っ」


 いったい、なぜ急に見えなくなってしまったのだろう。


「《毒蟲》のせいか? いや、確かに毒蟲は滅したはず……。これは泂淵を呼ばねばならんな……」


 珖璉がきつく眉を寄せ、苦い声で呟く。


「も、申し訳ありませんっ! 《見気の瞳》が使えなくなるなんて……っ」


 土下座する勢いで、がばりと深く頭を下げる。


 鈴花が珖璉に仕えられていられるのは、《見気の瞳》があるからなのに。《見気の瞳》を失ったら、姉を捜すことができない。


 男に襲われた時とは別の恐怖が全身に満ちる。またうまく息ができなくなりそうだ。


「心配するな。菖花は必ず捜してやる」


「えっ!?」


 珖璉の言葉に驚いて顔を上げる。黒曜石の瞳が、いたわるように鈴花を見つめていた。


「すぐには無理だが……。茶会が終われば必ず。お前を危険な目に遭わせてしまった詫びだ。いや、この程度では詫びにもならんか……」


「い、いえっ! とんでもないですっ! ありがとうございます!」


 ぶんぶんとかぶりを振り、頭を下げる。


 珖璉が約束してくれたのなら、きっとこれで大丈夫だ。安堵のあまり涙がこぼれそうになる。


「本当に、ありがとうございます……っ」


 深く頭を下げたまま、ぐすっと鼻を鳴らすと、


「泣いているのか?」

 と気遣わしげに問われた。


「いえっ、これは安心して……っ」


 おろおろと顔を上げると、ぱちりと視線がぶつかった。

 思いがけず近くにある美貌に瞬時に顔が沸騰しそうになって、あわててうつむく。


「鈴花?」


 いぶかしげに名を呼ばれるが、赤く染まっているだろう顔を見られるのが恥ずかしくて、顔を上げられない。


 珖璉を見た宮女達が見惚れて仕事が手につかなくなる気持ちが、今ならよくわかる。こんな美貌が目の前にあったら、どきどきしてしまって何も手につかない。


「どうした?」


 声と同時に珖璉の手が伸びてくる。大きな手に頬を包まれ、鈴花は反射的に肩を震わせた。


 途端、ぴたりと珖璉の動きが止まる。


「……すまん。驚かせたな」


 泥水を飲んだように苦い声。


「いえ……っ」

 かぶりを振って顔を上げると、痛みをはらんだまなざしとぶつかった。


 熱を宿したまなざしに、身体があぶられるような心地がする。


「ゆっくりであれば、怖くはないか……?」


 今まで聞いたことがないような、不安に満ちた珖璉の声。


「も、もちろんですっ。珖璉様を怖いだなんて……っ」


 珖璉は鈴花を襲った男とは、絶対に違う。頭ではわかっているのに、なぜか動悸どうきが治まらない。


 鈴花の返事に、ふっとこぼされた笑みを見るだけで、ますます鼓動が速くなる。はっきり見えるようになった珖璉の美貌の威力が、それほど高いということか。


 壊れ物にふれるように、珖璉の手のひらがそっと鈴花の頬を包む。


「鈴花……」


 背中に回されたもう一方の手のひらが、そっと引き寄せようとした瞬間。


「珖璉様!」


 扉を叩く間さえ惜しいと言いたげに、切羽詰まった声とともに禎宇が飛び込んでくる。


「牢に捕らえていた男が、何者かに殺されました!」


「っ!」

 鋭く息を飲んだのは鈴花か、それとも珖璉か。


 禎宇の言葉を理解した瞬間、全身に一気に鳥肌が立つ。


 ついさっき鈴花を殺そうとした男が殺されたなんて。まるで、悪い夢を見ているかのようだ。


 首を絞めあげた男の手を思い出し、息ができなくなる。


「鈴花! 大丈夫だ、ゆっくり息を吐け」


 力強い声と背中を撫でる大きな手のひらに、わずかに冷静さを取り戻す。さっきも醜態しゅうたいさらしたばかりなのに、これ以上、情けないところを見せるわけにはいかない。


「だ、大丈夫です……。ちょっとびっくりしただけで……」


 珖璉の腕を押し返すと、しぶしぶといった様子で腕がほどかれる。が、珖璉も時間を無駄にはできないとわかっているのだろう。素早く立ち上がり、禎宇を振り返る。


「わたしはすぐに牢へ向かう。禎宇、お前はわたしが戻るまで鈴花についてやってくれ」


「だ、大丈夫です! 私なら一人で……」


 あわてて口を挟むと、「駄目だ」と決然とした声が返ってきた。


「こんな状態のお前を、一人になどできるわけがなかろう。まだ毒が抜けきっていない可能性もある。お前は薬湯を飲んでゆっくり休め」


 反論は認めんと言外に告げる口調に、頷くしかない。珖璉の気遣いは素直に嬉しい。いま一人きりにされたら、きっと恐怖でし潰されてしまうだろう。


「ありがとうございます……」


「ああ。ゆっくり休むのだぞ」


 いたわるように鈴花の頭を撫で、あわただしく出ていく珖璉を、鈴花は禎宇とともに見送った。


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