八章 「綻び」
「でも、悠希は、諦めたり忘れたりすることができていいよね」
彼女は小さな声で、そう言った。
その言葉は、僕に言ったというより、独り言のような感じだった。
彼女の表情はまた悲しみを帯び、僕はどうしていいかわからなくなった。
彼女は今嫌なことを思い出してしまったのだろうか。それは、この前の涙に関係することなのだろうか。
僕は先ほど話してくれた母親との関係性のことを彼女がまた思い出しているかとまず思った。
確かに僕は頭では、そのことを考えようとしていた。
しかし、そんな考えを上回るほどのある感情が、心の奥から湧き上がってきていた。
それは、まるで炎のようだ。
「どういう意味?」
僕はいつもより強さのある口調で彼女をにらんだ。
僕の心の中で、僕の努力を軽く見られたという『怒り』の感情が一気に占めていき、他の感情は一斉に消えていった。
それは、オセロのコマが一斉に白から黒に変わるように変わっていった。
僕は、努力を認められないことが許せなかったかもしれない。
冷静に言葉を選ぶことなんて、とてもできなかった。
言った後も、まだ心の中で炎は勢いよく燃えて上がっていた。
今まで彼女に怒ることはほとんどなかった。
「あっ、ごめん。その、気分を悪くさせる気は全然なかったのよ。悠希のことを言ってるんじゃなくて、私はただ……」
彼女は、ライオンに狙われた草食動物のように怯えていた。
確かに僕は怒ったけど、それにたいする彼女の反応は過剰すぎる気がする。
どうして、そんなに怯えるのだろう。
僕は彼女のその姿を見て、一瞬で正気に戻った。
そして、「やってしまった」と後悔した。僕が怖がらせているようでは、本末転倒だ。
普段怒らないから、怒る度合いを間違えたのかもしれない。慣れないことはやはりするものではないと思った。
「実は私、元カレにDVを受けていたの」
僕が一人で気持ちを整理する前に、彼女はそっと話し始めた。
「DV?」
僕は、言葉を繰り返すことしかできなかった。
僕と付き合う前といったら、彼女は十七歳の時だ。
そんな若い時に、DVというひどい仕打ちを彼女は受けていたということになる。そもそもDVとは夫婦間で起きることではないのか。
そして、十七歳ということは、前に彼女が頑なに話したがらなかった高校生の頃の話だ。
でも、きっと彼女が話したがらなったことはこれだけじゃないと僕は感じた。なぜかと言われたらうまく答えられないけど、そんな気がした。
「元カレは、私より六歳年上の人だった。私は一年間の間ずっとDVを受け続けた。付き合った頃は元カレがそんな人だとわからなかった。途中からわかって、私は『別れて』と何度も言った。でも、一切聞いてくれず、ずっと私を縛りつけていた」
僕は彼女の話を聞きながら、遠慮がちに彼女を見た。
なぜかその時彼女と目があった。
「殴る蹴るという他の人がよくイメージするDVではなかった。私がされていたのは、『精神的DV』というものよ」
僕は聞いたことない言葉に、ただ話を聞くことしかできなかった。
彼女の声が、どんどん心に響いていく。
こんな状況でも、彼女の声ははっきりとしていた。
「簡単に言えば、元カレは私の心をひたすら傷つけた。私のすることすべてを否定した。いつも大声で怒鳴ってきた。私の友達や元カレの友達と一緒に遊んだ時は、いつも私のことを馬鹿にし笑い物にした。元カレは私のことをずっと見下し、ひどい言葉を浴びせ続けた。体に傷は残らなかったけど、心には今も深く傷が残ってる」
僕はその話を聞いて、彼女がなぜ僕の言葉にあれほど怯えたかやっとわかった。
でも、今更気づいてももう遅い。
口にした言葉は、『なし』にすることはできないのだから。
きっと、当時のことを無意識的に彼女は思い出したのだろう。
心についた傷は、簡単には消えないと僕もよく知っている。
『心』とは、本当に厄介なものだから。
僕が今彼女の元カレを憎んだり、元カレを否定した言葉を並べた程度ではその傷は治らないだろう。
「さっきはごめ」
「いいのよ、悠希は悪くないから。余計なことを言った私が悪かったんだから」
まるで僕の謝罪の言葉を拒否するかのように、彼女は僕が話し終わる前に言葉を被せてきた。
そこには強い意志が確かにあった。
彼女は震えている。
僕が、彼女を苦しめた。
彼女の心にある辛い感情に触れ、無茶苦茶にかき回した。
彼女を救うつもりだったのに、僕は何をしているのだろう。
少し考えれば、僕の努力と彼女を思うことのどちらが大切かなんて、すぐにわかったはずだ。
僕の努力なんて、そこまでこだわる意味はない。努力が報われなかったこと、人にそれを馬鹿にされたことは今までたくさんあった。執拗に言われたこともあった。それらに比べれば、彼女のさっきの発言は本当に小さなことだ。
なぜさっきそこまで怒ってしまったか自分でもわからなかった。
彼女が僕にとって大切な人だからだろうか?
でも、自分の衝動的になりやすい性格が関係していることは確かだろう。
何よりこんなにも震えている彼女をそのままにしておくことなんて、僕にはとてもできなかった。
僕が彼女を抱きしめるため近づこうとすると、「こないで!」と大きな声で言われた。
僕は、ピタリと止まってしまった。
重い空気が、部屋の中を一瞬で支配した。
僕はどうしたらいいのかと考えることでいっぱいいっぱいだった。
彼女は今平常心を失っている。もしかしたら僕が今どんなに彼女のことを思う言葉を言ったところで、彼女の心には届かないかもしれない。
むしろ、僕が話すことで自体は余計に悪化する可能性の方が高い。
それでも、僕は今何か言葉にしたいと思った。
悪い言葉を、いい言葉がかき消せると信じているから。
そして、彼女を不安にさせたのは紛れもなく僕なのだから、その不安をなくすのも僕がするのは当たり前のことだから。
「あなただけは、他の人とは違うと信じてたのに結局あなたも同じだったのね」
いつも僕は、行動が遅い。
僕が言葉を考えている間に、彼女は美しくも切ない表情を見せたのだった。
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