四章 「その表情は、何?」

 「じゃあ、僕から子どもの頃の思い出話を話すね」と僕は話し始めた。

 それは、提案した僕が先に話すことで、その後彼女が少しでも話しやすいようにするためだ。

 たとえ涙のわけを聞くという別の目的があったとしても、僕はそもそも彼女にどんな時も大切にしたいと思っている。

 

「子どもと言えるほど小さくないけど、高校生の頃のとっておきの話を一つするね。それは高校で毎年ある文化祭についての話だよ。その時僕は高校三年生だった。華菜の学校でもそうだったかもしれないけど、当時僕たちの高校では文化祭の出し物として演劇やダンスが人気だった。僕のクラスも今人気なものの方がたくさん人が来るだろうと、演劇をすることに決めた。演劇内容は現代風にアレンジした昔話だよ。選んだ昔話は、親しみやすいように誰もが知ってる『桃太郎』にした。僕は脇役のおじいさん役に立候補した。なぜわざわざ立候補したかというと、たとえ脇役でも裏方ではなく舞台の上に立ちたいという思いが僕にはあったからだよ。桃太郎役はとてもできないけど、それでも少しは目立ちたい気持ちは僕にもあった。それにおじいさん役のセリフはたった一言だから、僕でもできるかなと思った。そして、迎えた本番。華菜ならもう知ってることだけど、僕は極度の緊張しいだから出番が近づくにつれて嫌な感じの汗がどんどん出てきた。季節は秋で段々寒くなっているのに、舞台裏で一緒にいる猿役の友達に『暑いのか?』と誤解されるぐらいだった。本当は緊張でもう無理だったけど、自分からやりたいと言った役だから、誰かに代わってもらうのは違うなと感じた。自分の言葉には責任を持ちたいと僕は思っているからね。でも、そのままなんの対処もできず時間が過ぎていき、とうとう僕の出番になった。出番だけど、緊張し過ぎて足をうまく動かせなかった。なんとか一歩足を前に出したら、すぐにマンガみたいにド派手にこけた。会場は笑いに包まれた。僕はこんな自分自身が情けなくて、余計に不安になった。なんとか立ち上がったら、今度はセリフがすっかり頭から抜けてしまっていた。たった一言の短いセリフなのに、その時はいくら考えてもどうしても思い出せなかった。しばらく物語は進むことなく、僕の言葉待ちで、謎の沈黙の時間が流れた。すると、主役の桃太郎役の人が『そうだった。おじいさんは足が悪くて、最近物忘れが多いんだった』って言ってくれたんだよ。もちろん、完全なアドリブだよ。そのおかげで、僕はなんとか『そうなんじゃ』とだけ言ってそのまま舞台裏にいくことができた。これをきっかけにどんな桃太郎でも、一生感謝しようと僕は心に決めたよ」

「なにそれ、序盤で話がだいぶ盛られちゃったじゃない。でも、悠希ならあり得そうなことね」

 彼女は笑みを浮かべていた。

「でしょ。結局たった一言のセリフも言えなかったし」

「本来はちゃんとしたセリフがあったんだもんね。ちなみに、そのセリフを今でも覚えてる?」

「うん、覚えてるよ。僕の高校生活の中でも、この文化祭のことはかなり印象に残る出来事だったからね」

「何か教えてくれる?」

「もちろん。そのセリフは『ただいま』だよ」

「嘘でしょー。そんな日常的に使う言葉を緊張しやすいからって、忘れる? 本当に、いつも予想の斜め上をいくよね」

 彼女は「もうダメ。お腹痛い」と大声で笑っていた。

 いつもクールでミステリアスと周りの人からも言われている彼女のこんな姿を見られるのも、彼氏である僕の特権かなと嬉しくなった。

「斜め上いってかなあ? まあとにかく、これで僕の最初の話は終わりだよ」

「素敵な思い出話をありがとう」

 彼女はまだお腹を抑えながらも、僕の方を向いて軽く頭を下げてくれた。

 僕は少しは場が和んだかなと、ホッとした。

「華菜が、高校の頃はどんな感じだった??」

 僕は何気なく、そう質問した。特に何かに注意するでもなく、それこそ普通の会話として彼女に話しかけた。

 いつもの彼女なら、笑顔ですぐに何か返事をくれる。

 でも今日の彼女はいつものように反応せず、きゅっと口を結んでいた。

 それから沈黙が訪れた。

 きっと時間にすると、一、ニ分ぐらいだったと思う。でも、この沈黙はなぜかすごく長く感じた。

「えっ!?」

 長い沈黙の後、彼女は小さな声で、その一言だけ言った。

 先ほどまでの笑顔はもうなく、彼女は真顔で、いや少し怒っているようにもとれる顔をしていた。

「あれ、僕、変なこと聞いた?」

 僕は正直焦っていた。

 なぜ今沈黙があったのか、そしてなぜ彼女の表情ががらっと変わったか全く見当がつかなかったからだ。

 『恐怖』がじわじわとやってくる。

「いや、変なことは聞いてないけど。今回の子どもの頃の思い出話をしようというのは、悠希が話した頃と同じ頃の話を、私も続けてしなきゃいけないルールなの?」

 彼女は先ほどからまた表情が変わり、今は苦しそうな顔をしている。

 僕のことをちらちらと様子を伺うように何度も見ている。

 僕はその表情が、何を表しているかやっとわかった。

 あの表情は、『警戒』をしている。

 しかし、それは決して強くはなく、とても繊細で、すぐに壊れてしまいそうなものだった。

 彼女でもこんな弱々しい表情をすることに、僕は驚いた。

 場が和ませようとしたのに、僕は彼女の触れられたくない部分に触れてしまったようだ。

 警戒されていては、僕の聞きたい話も聞くことがきっとできない。

 僕は彼女を傷つけない言葉を必死で考えた。

「いや、そんなルールはないよ。華菜の話したい話をしたらいいんだよ」

「そう。ならいいけど」

 彼女はすぐに返事を返してくれたけど、まだ警戒心は消えていない感じもする。

 とりあえず、僕は高校生の頃の話を続けて聞かず、別の話に切り替えようと思った。

 一日は長いのだから、焦らず涙のわけに近づいていけばいい。

「せっかくの久々の『おうちデート』なんだから、めいっぱい楽しもうよ。ねぇ?」

「だね」

 彼女は笑顔に戻ることはなかったけど、少しだけ納得してくれたようにもとれる返事をしてくれた。

「じゃあビールと酎ハイを冷蔵庫から持ってくるから、また乾杯しようよ」と僕は言いながら、どうやって彼女の警戒を解いたらいいか頭をフル回転させていたのだった。


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