発狂前の侍女長
さて、公爵家当主レオンが遠くの部屋で発狂していた頃。
自室に戻されたオリヴィアはベッドに横たわっていた。
その傍らでは、侍女長が深々と腰を折り、頭を下け続け……もう長い。
「あの、本当に私は気にしておりませんから。もうお顔を上げてくださいませ。どうかお願いですから…………今、何か叫び声のような?」
ゆっくりと体を戻した侍女長は、平然とした顔で言った。
「あの声は気のせいですわ。どうか、お気になさらず」
気のせいと言いながら、声だと断定してしまっているが……。
さすがは侍女長、レオンが幼い頃から世話をしてきただけのことはある。
だがこの侍女長もあとで聴取の結果を仔細聞かされては、レオンと同じように発狂し掛け、命を賭して責任を取ろうとする騒ぎを起こすことになるのだった。
この話は、まだ少しあとのこと。
オリヴィアは首を傾け、やっと見えた侍女長の顔を眺める。
「あの。どうか、もう頭を下げないでくださいますか?私は本当に何も気にしておりませんので」
侍女長が頷けば、オリヴィアはほっとしたように小さく微笑んだ。
侍女長の瞳が見開かれる。
かつて自分もこの美しく華咲く笑顔を側で見ていたではないか。
どうして忘れてしまっていたのだろう。
あの方はいつも、この子の将来が楽しみだと言っては微笑んでいたというのに。
「実はずっと、お話ししたいと思っていたのです」
「わたくしとでございますか?」
オリヴィアは頷いてから、「ですがその前に謝りたいことも沢山御座いまして」と続けるのだった。
「奥様のお立場にあられましては、侍女であるわたくしへの謝罪など不要にございます」
「……謝罪しては駄目でしょうか?」
オリヴィアの途端に下がった眉を見て、そのまま泣き出すのではないかと心配になった侍女長は、慌てて首を振っては、「不肖の身に余る光栄にございますが、奥様のお言葉を有難く受け止めたいと思います」と伝えるのだった。
そうすれば、またオリヴィアはほっとしたように息を吐きつつ、小さな笑顔を見せる。
だが今度咲いたその華は即座に消えて、オリヴィアはきりっとした顔付きに変わると、真直ぐに侍女長を見詰めるのだった。
「まずは、こんな体勢で失礼をしていることをお詫びいたします。この通り、元気なのですが。旦那さまから、今日は起き上がってはならないと言われているのです」
かつての侍女長であれば、これを嫌味と受け止め、不快に感じていたのではないか。
だが、彼女はもう違った。
医者から貰った薬湯が効いたのか、オリヴィアは今朝よりずっと血色が良く、その肌は明るく見えた。
それでも痩せた体が一朝一夕でどうにかなるはずもなく、オリヴィアが通常の生活を送るようになるまでにはひと月でも足りないだろうと思われている。
それを公爵家の侍女らのせいだとは、オリヴィアは微塵も考えていないのだろう。
侍女長はオリヴィアのその澄んだ瞳から、発する言葉に何の裏もないことをしかと見て取った。
「奥様がお気になさることではございませんし、どうか今は御身を休ませることだけをお考えくださいませ」
オリヴィアは固い表情のまま頷いてから言う。
「お許しいただきありがとうございます。体を起こせるようになりましたら、また改めてお詫びをしたいと思いますが。今はこのまま謝らせていただいてもよろしいですか?」
この場は奥様の希望を叶えようと、侍女長は黙って頭を下げた。
するとオリヴィアは一度すっと息を吸い込んでから、謝罪の言葉を連ねていく。
そのどれもが侍女長を驚かせる内容であって、侍女長は思い悩むことになってしまった。
引継ぎが完了したあとの辞意を固めていたのだが、これでは誰に引き継いで良いかが分からず、辞め時も見えない。
レオンに相談して決断を促すしかないかと決めた侍女長であったが……
まさかその相談の場で自分が命を懸けた辞職騒動を引き起こし、何故か辞意そのものを取り下げる事態へと収束することになろうとは、このときには想ってもみない侍女長である。
オリヴィアの謝罪は続く。
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