先生はわからない

天宮さくら

先生はわからない

 この春から高校教師になった。最初の勤務先は都心から少し離れたところで、自分が卒業した大学のすぐ側にある県立の男女共学高校だ。学力は中間くらい。半分の学生が大学へ進学し、半分の学生は就職する。校風は荒れているわけではないが、落ち着いてもいない。程よい青春を送るには最適な高校だと第一印象を抱いた。

 学生たちは、教師として新人である俺を馬鹿にしたり見下したりすることもなく、程よい距離感で迎え入れてくれた。授業を受けてわからない部分があれば尋ねてくれたし、ほんのちょっとのからかい言葉を投げかけてもくれる。生徒にとても近い年齢だけれども、俺をちゃんと教師として見てくれていた。そのことを心底ありがたいと思った。

 けれど、一人、気になる学生がいる。彼女の名前は林田亜樹あき。高校一年生で俺が現代文を教えるクラスの子だ。

「柏木先生、ちょっと」

 学年顧問の木村先生に休み時間に声をかけられた。木村先生は定年間近の中年男性で脂肪の詰まったお腹を抱えている。趣味が和菓子を食べることらしく、その影響が如実に表れているのだ。

 手招きする木村先生についていくと、廊下の隅で耳打ちされた。

「柏木先生、その………一年の林田亜樹と何かありましたか?」

「いいえ。特に何も。どうかしましたか?」

 俺の問いに木村先生は困ったように眉を寄せる。

「それがですね。林田が先生のことを聞いて回っているみたいなんですよ」

「はぁ」

「昨日は私のところにも聞きにきました。知り合いですか?」

 木村先生の疑問を俺は否定する。

「いいえ。初対面です」

「ならどうして林田は先生のことを聞いて回っているんでしょうね? ………先生、くれぐれもですが、生徒とそのような関係にならないよう気をつけてください」

 木村先生は睨みつけるように俺を見る。一瞬、何を心配しているのだろうかと思ったがすぐに、ああそういうことか、と納得する。

「ええ、わかっています。教師と生徒の間に何かあれば保護者が黙っていませんから」

「そうです。そのような事態が明るみになれば保護者会は荒れ学校の評判は地に落ちるでしょう。それだけは絶対に防がなくてはなりません」

 木村先生は俺に念を押すと話は終わったとばかりにさっさと立ち去っていった。その後ろ姿を見ながら、確か木村先生は教え子と結婚したんだよな、と思い出す。

「心配しなくても、そんなことはしませんよ」

 俺は木村先生に聞こえない音量で呟いた。


 教師と生徒の恋愛は成り立つのだろうか? 俺はこの疑問に否定的な意見を持っている。教師はどこまでいっても生徒の上に立つ存在だし、そこに恋愛が絡めば学問が疎かになる。教師が生徒に恋をするなんてことがあったら、生徒はいつまでも教師を超えて成長することができずに鬱屈してしまう。だから、教師と生徒の恋愛は成り立たない。成り立たせてはならない。俺はそう考える。

 どうしてそのような考えに至ったのか。それは大学時代のアルバイトの経験が影響している。

 俺は大学生の時、家庭教師のアルバイトをしていた。時給が居酒屋で働くよりもよかったし、教育学部に在籍していた。将来の目標は教員になることだったから、家庭教師として働くことは将来に役立つと考えたのだ。

 そのアルバイトでどうしても忘れられない生徒が一人いる。その生徒は女性で、中学一年生から高校一年生になるまでの間つきっきりで家庭教師を務めた相手だ。文学作品を読むのが好きで、大人のように綺麗な文字を書く、落ち着いた雰囲気を纏った繊細で美人な子だった。彼女には年相応という言葉からはかけ離れたような存在感があった。

 そのせいだろう、彼女は学校でいじめに遭っていた。

 彼女の両親が、学校に通えないことで勉強する環境を得られない彼女を憐れんで家庭教師を募集した。その募集に俺が運よく引っかかったのだ。

 彼女は学校にうまく馴染めなかったが、とても人の良い優しい子だった。彼女がもっと勇気を出して人と関わっていけば、いつかきっと友人と呼べる人に出会うことが出来ただろう。それを常に感じながら俺は彼女と接していた。

 彼女は何度も登校しては引きこもるという生活を繰り返してはいたが、別にそれに対して気を病んでいる風ではなかった。彼女には彼女の世界があった。だから無理に他人と合わせるくらいなら閉じた世界に居続けたい。そう考えていたのだと思う。

 俺はそんな彼女に、いつしか小さな恋をしていた。実年齢よりも大人びていて見た目は天使のように美しい。話す言葉は中学生のものとは思えないほど理知的で、自分の同級生が馬鹿に見えるほどだった。家庭教師として彼女と接していくうちに、彼女にするなら、妻にするなら、こんな子がいいなとぼんやりと思い始めていた。

 いけないとは思っていた。彼女は未成年で俺は家庭教師。何か過ちがあればスキャンダルだ。ご両親も世間も許さない。彼女に会う時はその緊張感を常にどこかで感じていた。だから決して彼女には手を出すまいと心に誓っていた。

 けれどその緊張感は徐々に変化していった。

 彼女は高校に入学してからくらいから、様子が不安定になっていった。内に籠ることはそれまでにも何度かあったのだけれど、その回数が頻繁になった。彼女が心を閉ざすと簡単な会話をするのでさえも困難になっていった。

 きっと彼女の中で何かが許せなくなっていったのだと、俺は感じていた。

 ある日、彼女は近所の川で水没して死んでいた。

 彼女のご両親は葬式の時、俺に対して「先生のせいではありません」とひたすら繰り返していた。「先生がいたからこそ、娘は日々を楽しく過ごすことが出来ました。先生には感謝しかありません」そう言って涙が止まらない俺を慰めてくれた。

 けれど、それは真実だったのだろうか。

 ………どうして彼女は川に沈んでしまったのだろうか。それを考えると俺は窒息しそうな程に息苦しくなる。彼女に好意を抱いてしまった。そのことを口に出したり行動に移したりはしないよう努めていたが、何かを感じ取っていたのかもしれない。それが彼女を追い詰めたのかもしれない。そう考え始めると止められなくなる。自分の罪深さが許せなくなる。

 だから俺は、その記憶がある限り、生徒に恋など絶対にしない。


 俺のことを聞き回っている林田亜樹はなかなかに気の強そうな子だ。身だしなみは校則に触れないギリギリのラインを狙って整えているし、常に意志の強い眼をしている。会話をすれば俺を敵対視しているのがありありと感じられた。

 どうしてなのか、不思議に思う。

 俺はどちらかといえば生徒に初対面で嫌われるタイプの人間ではないと思っていた。可もなく不可もなく、警戒心を抱かせない。そういうタイプの人間だと感じていた。それなのに林田は出会い頭から俺を疑っている。彼女のように対応してくる生徒は人生で初めて会う。ならどこかで彼女に会ったことがあるのではないかと記憶を辿ってみるが、林田亜樹という人間に会った記憶はこれっぽっちもない。

 もしかしたら大学の時にアルバイトでやっていた家庭教師、その生徒の兄弟の中に彼女がいたのかもしれない。けれど俺が受け持った子たちに林田という苗字の子はいなかった。友達でそんな子がいるという話も聞いたことがない。いったい俺は彼女とどこで出会ったのだろう?

 まるで、思い出せない。

 すべての授業を終えた放課後、俺は写真部の部室の扉を開けた。この高校に赴任して受け持ちになった部活が写真部だったのだ。といっても部員はほとんど幽霊部員と化していて実際に活動しているのは数人。その数人の中に林田がいる。彼女は俺が写真部顧問になったと知って即座に写真部に入部届を提出したのだ。

 部室に行くと、林田が一人、現像した大量の写真を一枚一枚ホワイトボードにマグネットで貼り付けていた。どれも風景写真で人物や動物は写していない。写真は平凡。構図が美しいわけでもないし、今流行りの栄えでもない。どちらかといえば雑誌に載っているお店紹介のような、見ていて面白味のない写真ばかりを彼女は撮ってくる。

「柏木先生」

 俺が部室に入ってきたことを察した林田が振り向いて俺に声をかける。その眼には警戒心が揺らいでいた。

「これらの写真、どう思いますか?」

 林田は自身が撮ってきた写真を指差す。

「どう、と言われても」

 俺はすべての写真を一つひとつを丁寧に見た。どれも退屈な写真だ、と正直に言えば傷付けてしまうかもしれない。どう言ったらいいのか少し迷う。

「………林田は店を撮るのが好きなのか?」

 確認を取ってみる。これで好きだと言ってくれれば何も心配はない。

 けれど林田は俺の質問が不服だったようだ。

「いいえ。好きではありません」

 そう言って林田は俺から目を逸らす。

 ………時々、彼女は何か迷っているのではないかと感じる時がある。俺に何かを聞きたくて、でも聞けずにいる。聞く勇気がもてないのだろう。言いにくい話というのは年齢など関係なく存在する。

 それを背負い込んでい続けたら、いつか倒れてしまう。それが心配でならなかった。

「林田。俺に何か相談したいことがあったらいつでも話を聞く。だからあまり背負い込むな」

 そう声をかけてみる。けれど林田の返答はそっけなかった。

「先生には、わかりません」

 完全な拒絶を示す、冷たい言葉だった。


 * * *


 私には三歳年上の姉がいた。と言っても血の繋がった本当の姉ではない。同じ小学校に通い同じマンションに住む、昔からの知り合いだった。だから赤の他人ではあったけれど、私は彼女のことを自分の本当の姉だと思っていた。いつも朗らかで優しく、綺麗。こんな人が私のお姉さんだったらどんなに嬉しいだろう。きっと皆に自慢するに違いない。そう思うくらい、私は彼女のことが大好きだった。

 でも彼女は美人すぎた。そのことでいじめられて中学高校とうまくクラスに馴染めなかったみたいだった。時々思い出したように登校しては引きこもる生活を送っていた。

 彼女の名前は西森奈々さん。私は親しみを込めて彼女のことを奈々ちゃんと呼んでいた。

 私が小学三年生の時、女子たちの間で交換日記をするのが大々的に流行った。一冊のノートを通じて互いの近況を語り合い、友達としての結びつきを強めていく。その内容は授業のグチから親に対する思い、誰が誰を好きなんだという噂、塾で知った裏知識に教師たちの悪どい姿。そういったものを書き綴ることで秘密を共有して、独自の世界を作り上げる背徳感。それに私たちは夢中になったのだ。

 クラスの数人と交換日記を始めた私は徐々に同級生たちと交換日記をするだけではつまらなく感じられた。他の子たちが知らない情報をもっと日記に書きたくなった。もっとみんなが驚くような話を綴りたかった。そう考えて思いついた相手が奈々ちゃんだった。

 優しい奈々ちゃんに交換日記をしたいと申し出ると、彼女は快く引き受けてくれた。その頃の奈々ちゃんは徐々に引きこもりつつあって、他人と接点が持てるのが嬉しいと喜んでくれたのをよく覚えている。

 私はそれが嬉しくて、そして奈々ちゃんがずっと心配で、彼女が自殺する直前までずっと交換日記を続けていた。


「ねえ、亜樹は柏木先生のこと好きなの?」

 私にそう問いかけたのは、同じクラスの友達・内田芳子よしこだった。入学して席が近かったきっかけで仲良くなり、今では一番の友達になっている。ショートカットがよく似合う活発な人で、でも乙女な部分も持っている素敵な子だ。

「好きじゃない。なんでそう思うの?」

「んー? だってさ、柏木先生のこといつもいろんな人に聞いて回ってるじゃん。もしかして好きなのかなって思ったんだけど、違う?」

 私は柏木先生の顔を思い出す。黒縁メガネの陰気な雰囲気の男性。この春から教員になったとかで年は若いけれど、私はあんな地味な人間好きじゃない。

 芳子の確認に私は首を横に振り否定する。

「違う。私はもっと華やかな人が好き」

「そうなの? 好きじゃないのにいろんな人に先生のことを聞きまくるだなんて変だなぁ。怪しい」

 芳子が戯けた様子で私を揶揄うから、少しだけ腹が立った。

「変じゃないよ。昔、先生の名前を聞いたことがあって、本当にその人なのかどうかを確かめたいだけ」

 そう、私は彼が私の知っている柏木隼也しゅんやその人なのかどうかを確かめたかっただけなのだ。


 私には夜寝る前に行う儀式がある。それは、奈々ちゃんとしていた交換日記を丁寧に読み直すことだ。夜中に開き読み耽る日記には、そこはかとない魔力を感じられる。その魔力を全身でひしひしと感じることが、大好きで、大切だ。これをしないといつか奈々ちゃんを忘れてしまうかもしれない。それが嫌だから毎夜日記を開いている。

 日記の冊数は優に三十冊を超える。ノートには奈々ちゃんの正確でバランスの取れた文字がびっしりと書き込まれていて、合間に私の拙い不恰好な文字が書かれていた。

 私は奈々ちゃんの文字が大好きだ。私では持ち得ない、端正で無駄のない当率の取れた字体。彼女らしく、彼女じゃなきゃ書けない綺麗な文字。それが見開きいっぱいに書かれている。その文字を目で追うだけでも心地よいのに、そこには意味があった。

 奈々ちゃんは交換日記に柏木隼也との交際記録をつけてくれていた。

 日記の初めの数冊は、私の学校生活のことばかりが書かれていた。何をして遊んだのか、授業で何を感じたのか、どんな新しいことを知ったのか。そんなことを幼い私の文字が書き綴り、その感想を奈々ちゃんのきちんとした文字が教えてくれた。

 いつからか、奈々ちゃんは恋をした。相手は家庭教師の先生。彼は引きこもりがちな奈々ちゃんの王子様だった。私はそれが羨ましくて、でも微笑ましくて、嬉しかった。だから日記の途中からは私の日常の話ではなく、奈々ちゃんの恋模様を追いかける内容に変化していった。

 そして奈々ちゃんはある日勇気を出して先生に恋心を伝え、成就した。

 そこからの日記は幸せに満ち満ちていた。奈々ちゃんは先生との授業の時間を日々待ちわびていて、先生は奈々ちゃんの想いにいつも応えてくれた。そのことで奈々ちゃんは引きこもりがちな心を少しずつ広げていって、ちょっとずつ外に出ていくようになっていった。

 それが曇り始めたのは、奈々ちゃんが高校生になって少ししてからだ。それまでの流暢な奈々ちゃんの文章が、少しずつ堅苦しさを持ち始める。先生との関係は悪くないと日記に綴ってあるけれど、どこか居心地の悪さを感じられる文章になっていった。

 まるで急な坂道を転げ落ちるように奈々ちゃんは意気消沈し、そしてある日、日記は全冊私の家の玄関前に届けられた。その日の夕方、奈々ちゃんが死んだことを私は知った。


 学校に赴任してきた柏木先生の下の名前は隼也だった。私は柏木先生が奈々ちゃんの彼氏本人だったのかを確かめたい。だから柏木先生が写真部の顧問になったと聞いて、私は即座に入部届を提出した。

 彼が本当に奈々ちゃんの王子様だとしたら、彼なら彼女の死の原因を知っているに違いない。いや、むしろ彼こそが奈々ちゃんの死の原因そのものかもしれない。真実を知りたかった。奈々ちゃんはどうして死んだのか、どうして死ぬことを選んだのか。私は納得したかった。

 写真部に入ったのだから写真を撮らなければならない。写真を撮ることに何の興味もないから題材に困った。無い知恵を絞って考えた私は、二人が訪れたデートスポットを一つひとつ写すことにした。そうすれば柏木先生が何かを知っていれば反応するだろうし、そうでなければ素通りするだろう。私の写真を見て奈々ちゃんとの思い出を語ってくれるかもしれない。それを少しでも耳にしたら、私はすかさず奈々ちゃんのことを問い詰めるつもりだ。

 一枚ずつ丁寧にホワイトボードに写真を貼り付けていた時、柏木先生が写真部の部室にやってきた。先生は私が写した写真を見ていつも困惑するような表情をする。それなのに私が欲しい肝心の言葉はこれっぽっちも言わない。

 ………私のことを疑っているのか、用心しているのか。

「林田は店を撮るのが好きなのか?」

 柏木先生の見当違いな言葉に心底苛立つ。別に、店の写真を撮る趣味はない。私はただ真実を知りたいだけなのだ。そのための手法に写真を使っている。ただそれだけの理由。それ以上の何もない。

「いいえ。好きではありません」

 私の返事をどのように受け取ったのか、柏木先生は突拍子もないことを言った。

「林田。俺に何か相談したいことがあったらいつでも話を聞く。だからあまり背負い込むな」

 それを聞いて、思わず歯軋りをした。その言葉が欲しかったのは、私じゃない。奈々ちゃんだ。奈々ちゃんこそ、その言葉を受け取るのに相応しかった。それを思うと私は先生に対して優しくなんかなれない。これっぽっちも許せない。心底この人が嫌いだと全身で感じた。

「先生には、わかりません」

 この人には私の葛藤も、私の疑念も、私の苦悩も、何もわからない。

 私の自慢の大好きなお姉ちゃん。その真相を知っているかもしれない柏木隼也。私はその人物を探してやまない。


 * * *


【遺書】

 お父さん、お母さん、先立つ娘をお許しください。


 私が死んだのは二人のせいではありません。お父さんもお母さんも駄目な私のために精一杯頑張ってくれたこと、感謝してもしきれません。ありがとうございました。二人が頑張ってくれたのにこんな結果になってしまい、本当にごめんなさい。許してください。悪いのはすべて私なのです。

 私が学校で孤立して通うのも難しくなった時、二人は私を責めることなく励ましてくれました。「そんなこともある」と慰めてくれた二人の優しさで、私は自分の人生を悲観することなく前に進めることができたのだと思います。ありがとうございました。

 二人が学校に通えない私を気遣って家庭教師の先生を家に招いてくれたこと、とても嬉しかったです。柏木先生は私の弱さも危うさも、そしてずるさも全部わかってくれる、本当に心優しい先生でした。あんな優しい人がこの世界に存在するのだと知ることができた。それだけでも私の人生はとても恵まれたものだったと思います。

 先生は本当に素敵な人でした。人生に挫けてしまった私を憐れむのではなく、蔑むのでもなく、ただ側にいてくれた。そんな先生にほんの少し恋心を抱いたのは仕方のないことだったのかもしれません。


 私が近所の子と交換日記をしていたこと、お母さんなら知っていますよね? 一つ上の階に住む、私よりも三歳年下のちょっとおませな女の子。そう、亜樹ちゃんです。私は彼女が小学三年生の時から今までずっと交換日記をしていました。

 始まりは、彼女のクラスで交換日記が流行ったことでした。亜樹先生(私は彼女の社交性を尊敬して日記の中で彼女のことを先生と呼んでいました)は交換日記の相手に同級生ではない人を探していました。きっと友達に自慢したかったのでしょう。その交換日記の相手に、私は選ばれました。

 亜樹先生は引きこもりがちな私にいろいろと助言してくれました。相手の言動が気になるのなら別の相手と話をすればいい、合わないと感じたのなら合う人を探しにいけ。とても為になる助言をたくさんしてくれました。感謝しています。でも、だんだんと亜樹先生に教えを乞うような立場でいるのが嫌になっていきました。

 だから、私は亜樹先生に小さな嘘をつきました。彼女が欲してやまない、彼氏を作ることにしたのです。

 彼氏の相手は柏木先生にしました。私の身近にいる男性は柏木先生しかいなかったし、先生の存在は以前から交換日記で伝えていたから好都合だったのです。それに、私はほんの少し柏木先生に好意を抱いていました。だから柏木先生とお付き合いする自分を想像すると、寂しい日常にちょっとだけ彩りが加わりました。幸せでした。

 私に彼氏ができたと知った亜樹先生は、ほんの少しだけ私に嫉妬したようでした。文脈の端々から私が一歩先に行ったことを悔しく思っているのを感じられました。

 その時の私の高揚と満足を、今はもううまく思い出せません。

 亜樹先生は彼氏ができたことがないとはいえ、必死に私にアドバイスをしてくれました。デートするならここがいい、あそこのお店でランチしたら素敵だ、夜景を見るならいいところがある。そんなことを日記にびっしりと書いてくれました。私はそれを参考に空想を広げ、柏木先生とデートしたと仮定して日記にその結果を報告しました。

 日記の中での私は大胆で、前向き。柏木先生にどんどん惹かれていって将来は彼と結婚するんじゃないかというところまで話は進みました。

 ───その頃には私はもう、後には引けなくなっていたのです。

 亜樹先生が交換日記に、彼氏を紹介してほしいと書いてきました。引きこもりな私を心底愛してやまない紳士な男性は本当に存在するのか、亜樹先生は確かめたくなったに違いありません。

 ですがそれは私の嘘。亜樹先生をほんのちょっと見返してやりたいと願った私の見栄だった。だから亜樹先生に柏木先生を紹介するなんてこと、できるわけありません。

 会わせてほしいと願う亜樹先生に何度も都合が悪いと断りを入れ、けれど亜樹先生は諦めず、交換日記の主題はそればかりになっていきました。この頃には私は日記をどうやって打ち切ろうか、本当は全部嘘だったと明かそうか、そのことばかりに頭を悩ませていました。

 でも、この日記を止めたら私は本当に社会と隔絶される。唯一の繋がりがこの日記だったのです。それを手放すのが怖くて怖くて仕方がなかった。この関係を自分から打ち切って生きていく勇気が湧かなかったのです。

 ───交換日記を止めるくらいなら、この人生を手放す方が楽だと思ってしまったのです。


 お父さん、お母さん、どうか私が死ぬ理由を亜樹先生には伝えないでください。彼女は私に社会的接点を与えてくれた良い人です。亜樹先生は何も悪くない。悪いのは、見栄を張った私。嘘をついてはいけないという当たり前のことができなかった私が、その報いを受けるだけ。これはただそれだけの話なのです。

 これが娘の最後の我が儘だと思って、どうかどうか、よろしくお願いします。決して、亜樹先生には真実を伝えないで。それだけが、私のこの見栄っ張りな人生の心残りなんです。

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