第2話
* * *
水守が大学の硬式野球部に入って、二回目の夏が来た。
「ナイスコース! ラスト!」
日に焼けて汗に濡れる右腕から繰り出されたスライダーが外角ギリギリに決まり、小気味良い音を立ててキャッチャーミットに収まった。水守のポジションは投手。武器は多彩な変化球だ。
捕手のサインどおりにミットに収まった白球を見届けると、水守の視線は窓の外に吸い寄せられる。七月終わりのまぶしい青空に、黒目がちな瞳を細めた。
篠井が五月に不慮の事故で死んで、二ヶ月。一心不乱に早朝からの練習に明け暮れていた水守は、七月の中頃には常に先発投手を任されるようになった。
だが水守は、嬉しく誇らしいはずのその任命に、なにも感じてはいなかった。
「水守」
「はい」
捕手への投げ込みを終えた水守に、OBの投手コーチが声をかけた。
「ネットスロー三十。全身見直しとけ」
「はい」
ネットに向かう水守の背中を見送りながら、相棒のいなくなった捕手を手招いた。
「中里、ちょっと」
「はい」
ひと気のないところまで連れて行かれ、中里は何事かと緊張したが、重々しく告げられたコーチの言葉に別の意味で緊張する。
「水守は……、あいつ、大丈夫なのか?」
「平気な振りしてますけど……、恐らく、篠井大和のことじゃないかと」
「ああ、仲良かったんだっけ」
水守透と篠井大和の仲の良さは、高校も大学も別の学校とは思えない程だった。水守は普段からよく笑うが、篠井に対してはわかりやすくキラキラとした瞳を向けているものだから、周囲からは微笑ましく思われていた。
いまネットに向かって投球を繰り返す水守は、以前に比べ明らかに精彩さに欠けている。球速や制球力は衰えるどころか良くなっており、初めは誰も気にしていなかったが、六月半ば、中里始め水守に近しい人間がおかしいと気づき始めた頃には、もう遅かった。誰の声も、水守の心には届かなくなっていた。
「こればっかりは、自分で乗り越えてもらわんとなあ……。コンディションも明らかに悪いわけでもねえし、プライベートまでは突っ込めねえし……中里、頼むわ」
「自分も、気にかけてはいるんですが……本人が頑なでどうしたもんかと。とりあえず、今日また声かけてみます」
「……すまんな」
「いえ」
中里は水守の背を憂いの目で見つめ、呟いた。
「いまのあいつには、篠井の声しか届かないんじゃないかな……」
「透」
「はい」
部活終了後、シャワーを浴びて私服に着替える水守の背に声がかかる。振り返ると、気遣わしげな様子で先輩捕手の中里が立っていた。
「最近、どうした?」
「なにがですか?」
抑揚のない水守の返答に、俯いてため息をついた中里は、水守の左肩を軽く叩いた。
「ま、悩みがあるなら相談くらい乗るからな。あんま溜め込むなよ」
「……? はあ、あざっす」
不思議そうでありながら生気が抜けたその反応に中里は苦笑いし、ぐしゃりとその頭を撫でると挨拶をして部室をあとにした。
残された水守は、湿っていた上に乱された長めの前髪をざっと撫でつけ着替えを終えた。挨拶をして帰っていく幽鬼のような後ろ姿に、部室に残っていた面々は誰ともなく呟く。
「あー、見てらんねえよ……」
「笑わないどころの話じゃねーもんな……」
部員たちはため息をついた。
週末の午後、他大学との練習試合が水守の大学のグラウンドで行われた。水守は先発を任され、五イニング無失点でリリーフにあとを託した。
クールダウンを終え肩に冷却材をつける。ベンチの長椅子に座って試合の行方を見ながら、水守はふと立ち上がった。
「トイレ行ってきます」
誰にともなく声を出せば、ベンチの誰かの返事があった。確認することもなくトイレに向かう。少し遠いが水守が慌てることはない。
用を足すわけではなかった。
「……」
薄暗いトイレには誰もいないようだ。電気をつけ、個室がすべて空いていて、本当に誰もいないか確認する。出入り口から辺りを見回し耳を澄ませ、しばらく誰も来ないだろうことを確認した。
「――……」
浅くため息をついた。
自分の出番が終わった途端、身体に異変が起きるのはいつからだったか。
――ああ、六月に入ってからだ。
つまりそれは……。
水守はそこで思考を中断した。
一番奥の個室に向かい、蓋が開いた便座の手前にしゃがみこむ。
「――っ」
咳込みながら出せるだけ出してしまったが、試合前は軽くしか食べないので苦しくもない。水洗レバーを引き水を流す。
すべて、流れていく。
見下ろす虚ろな瞳は、なにも映してはいなかった。
練習試合を終え、いつものようにミーティングをして解散となった。通学は自転車だが、同じ方向の者はいないので水守はいつもひとりで帰っている。
水守の家のすぐ近くには公園がある。かつては子どもたちでいっぱいだったその公園も、古くなった遊具は危険だと撤去されて久しい。衛生的に遊ぶ気にもならない砂場に煌々と輝く自販機、ペンキがはがれて古ぼけたベンチ、あとはなにに使われていたのかも定かではない、ところどころ朽ちたコンクリート壁。
公園の外から一瞬それらに目を留めた水守は、しかしすぐに逸らしていた。
その瞳は、さながら人形のように、なんの感情も、宿してはいなかった。
「ただいま」
「おかえり。透に手紙が来てるんだけど……篠井さん」
「篠井?」
帰宅するなり母親から差し出された手紙を受け取る。それは白くて硬い封筒だった。最後に触れた、篠井のような――
「透?」
「――……あぁ、ありがと。……母さん、俺今日晩飯いいや」
「また?部活大変でしょう?ちゃんと食べてるの?」
「食べてるよ」
自室へと向かいながら告げる。本当だった。食べた物をほとんど吐いてしまっているけれど。それは誰にも言えないことだというのは、思考を放棄した頭でもさすがにわかっていた。
「俺、もう寝るから」
「お風呂は?」
「シャワー浴びたからいい」
振り切るように階段を上がっていく。暗い自室に入り、ドアを背にうずくまった。
「――……しのい」
篠井を失い、なにも感じたくなくて、水守は考えることも感じることも放棄していた。なにも考えずに、いまやるべきことをただひたすらに、そんな毎日を繰り返す単調な日々を淡々と過ごしている。篠井につながるすべてのことから目を、逸らし続けている。
まともに向き合わずにいたその結果、水守は二ヶ月前の葬儀の日に、感情を置き忘れてきたようだった。笑いもせず、怒りもせず、悲しみも、喜びも感じないまま、ただ淡々と。
「……静流さん、か」
手の中の白い封筒を確かめる。篠井の姉からだった。母親から『篠井さん』と聞いて、少し、ほんの少しだけ、『篠井大和』からなのではないかと思った。
「……んなこと、あるかっつーの……『篠井大和』は、死んだんだ」
独り言は虚ろに響いた。立ち上がり、机のペン立てに入れているハサミを取る。二ヶ月経ったいま、なんだというのだろう。
それでも、篠井のことだというのは違いないだろう。丁寧に封を開け便箋を取り出したところで、手が止まる。
読みたい、読みたくない。
相反する想いが交錯した。
「……」
便箋を撫でる。
この手紙を読んだところで、篠井が戻ってくるわけではない。それなら読もうが読むまいが同じではないか。今更なにを見ても聞いても、現状が変わることなんて、無いのだから。
(――変わらない……篠井はもういない)
手が、かすかに震える。それに気づいたとき、手の中の白い感触がするりと滑り落ちた。
「あ……」
ぱさりと音を立てて床に広がった白いそれを見下ろした。
(読みたくない……っ)
その場からあとずさるように、ベッドに潜り込む。いつものようになにも考えず、疲労に身を任せ深く眠りにつけばいい。けれどそんな日々が、昨日までのそんな日々が、もう思い出せない。
(篠井はもういない……いないなんて、信じたくない)
昨日までは、こんなこと思わなかったのに。
――篠井のことすら、思い出してはいなかったのに。
全身がざわざわと落ち着かない。脳裏に浮かびそうになる篠井との思い出を打ち消すように、ぎゅっと目を閉じて、全身を強張らせて眠りの訪れを待つ。
ひたすらに、待っていた。
《――水守》
懐かしい声がこだました。強制的に脳裏に浮かぶ快活な笑顔。打ち消したくてぱちりと目を開いた。
けれど、記憶の再生は止まらない。
『最近何時に寝てる?』
『ん? えーと、十一時くらい。篠井は?』
本当になんてことない、他愛ない話。野球以外のことは、どうでもいいことばかり話していた。けれどそれが水守にはすごく楽しくて、嬉しいことだった。他の知り合いと何が違ったのか、わかるようでわからなかったけれど、とにかく水守にとって篠井は、特別な存在だった。
記憶の再生は止まらない。
やがてすべてが鮮明によみがえる。
――水守と篠井は、三年前、高校二年生の暑い夏に出会った。
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