第十話 Matthäus-Passion 2 Nr.32

ガアアアァァァァァッッ!!


 激情に染まる雷鳴の如き咆哮ほうこうが、空気をかき混ぜヘリを揺さぶるようにどっと沸き返る。

 決して近くない数百mの距離さえ関係なく、龍の怒りは物理的な圧力さえ伴わんとしていた。

 しかし、真の脅威は音ではない。



『Mir hat die Welt trüglich gericht』



「3時方向の敵飛行生物、攻撃準備に入りました!

 目標は恐らく本機!!」



『Mit Lügen und mit falschem G'dicht, Viel Netz und heimlich Stricke』



 4機の攻撃ヘリからなる編隊。

 空を走る、幾条もの曳光弾による軌跡。

 それらに触れることなく一息に距離を詰めた龍は、自身のあぎとを大きく開く。

 大の男を数人丸呑みにできそうな赤黒く巨大な龍の口。

 一瞬で光が集合し、赤みを帯びた光弾となる。



『Herr, nimm mein wahr in dieser G'fahr』



「—— 駄目だっ、来ます!!」



『B'hüt mich für falschen Tücken.——』



 誰かが発した声。

 それと同時に、窓の外に広がる景色、その一面が赤橙色に塗りつぶされた。

 誰もが死を覚悟する。




『—— Aegis』




 光の盾

 幾層も重なる幾何学的な模様。

 人知の及ばない絶対の神秘。

 神の奇跡とも呼ぶべき事象により、轟然と叩きつけられる炎流は、機体を飲み込むことなく空中で遮られた。

 

 妾の右手には、いつの間にか現れた本が1冊。

 深い光沢のある皮革にシンプルな金の装飾。

 格式高く上品に纏められた表紙には、本の名だけが記される。


『これで完璧! 次元間紛争介入裁定 完全攻略ガイドブック』


 この戦争で妾が手に入れた剣であり、盾であり、道標みちしるべとも言うべき一冊の本。

 現状を事細かに説明された書物。


「———— っ、姫さんが防いでいる間に距離を取るぞ!

 各機、迎撃しながら本機に続け!!」


 直前まで迫っていた自身の死と、それから守った神の奇跡。

 それにより呆然となっていた者達を、銀髪の青年が一喝した。

 青年の声で我に返ったのか、直進を続けていた機体が進路をずらすべく斜めに傾く。


「うぉっと、おいスティー。

 姫様に対して不敬な呼び方は止めろ!

 ぶっ殺すぞ!!?」


 先程の青年が口にした姫さん、という呼称が気に入らなかったのか、妾の臣民であるウォルターが噛みつく。

 枯れ木のように線の細いウォルター。

 そんな彼が浮かべる尋常ではない表情。

 しかし、青年は慣れた様に彼を扱う。


「分かった分かった!

 お小言はこれが終われば、いくらでも聞いてやるから」


「ぐぬぅ、仕方ない。

 今の言葉忘れるなよ、スティー!」


 一見険悪だが、微かな親しみを感じるいつものやり取り。

 こんな状況でも普段と変わらぬ2人の掛け合い、それを無線機越しに聞かされた他機の者達は、瞬く間に活気を取り戻す。


『ははっ、だったらウォルが我慢できなくなる前に、さっさと終わらせないとなぁ!』


『おうおう!

 あんなトカゲ1匹、あっという間に片づけちまおうぜ!!』


 無線機から聞こえてくる意気軒高な言葉の数々。

 自分でも表情が緩むのが分かった。

 同時に、この流れを作った青年に目を向ける。

 彼、ハッピー・ノルウェー草加帝国の探索者であるスティーアン・ツネサブロー・チョロイソン。

 皆からはスティーと呼ばれる彼は、自慢のソフトモヒカンを撫でながら、好戦的に敵である巨大な赤龍を睨みつけていた。


 如何なる状況、どのような敵、ありとあらゆる場面で戦意を失わず、自ら先頭に立ち皆を励ましてきたスティーアン。

 そんな彼の姿に励まされると共に、彼と比べて皆を導くという高貴な者の義務を果たせていない自分に嫌悪を抱く。

 今の危機だって元はと言えば、妾が感情任せに行動してしまったがため。

 どう言いつくろおうと、指導者として致命的な失態だ。


「姫様、どうかご指示を」


 暗く沈みつつあった自分の思考が、ウォルターの声で引き戻される。

 唯一の臣民である彼は、最初に出会った時と全く変わらない忠誠を妾に捧げてくれている。

 身長188㎝の彼は、狭い機内ということもあって妾を見下ろす形になるのだが、微塵の曇りなきまなこからは全霊の敬意をひしひしと感じた。


『早く指示をください、姫様!』


『ヘリの残弾も燃料もまだたっぷりです。

 どんなことだってできますよ!』


 他の機体に乗る者達の、妾の指示を乞うてくれる言葉。

 こんな妾に向けられる彼らからの信頼。

 まだ妾には、彼らとの絆が残っている。

 これほど嬉しいことは無い。


「—— 敵飛行生物、第2射来ます!」


 龍の攻撃が再び来るという警告の声。

 しかし、その言葉で皆の顔が強張ることはもうない。

 龍を見れば、赤黒い口腔に巨大な光球が既に出来上がっていた。

 しかし、妾は誰一人とて欠けさせるつもりは毛頭ない!


 いざ、詠おう、妾の捧げ歌を。

 謳おう、神の奇跡を!

 謡おう、皆との絆を!!


『Mir hat die Welt trüglich gericht.

 Mit Lügen und mit falschem G'dicht, Viel Netz und heimlich Stricke.

 Herr, nimm mein wahr in dieser G'fahr.

 B'hüt mich für falschen Tücken.』


 現の世、妾の面前で下されし偽りの裁定。

 用いられし、数々の虚言、多くの捏造、張り巡らされた狡猾な陥穽かんせい

 主よ、貶められた妾の姿を御覧なられたか。

 偽りに満ちた悪意から、どうか妾を守り給う。


Aegisアイギス!』


 嗚呼、絶対鳴哉神之盾。


「さあ、これから反撃ですわ!!」

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